2 初雪
次に女が僕の下へやって来たのは五日後で、以降は三日間隔、初雪の折には真上の住人が不在だという理由だった。殺風景なベランダから重厚な鉛いろの雲に覆われた、霧の全景にぼんやりと降る小粒の雪と、それに透かして観た街の大した面白味のなさ、場末から望んだ朧に輪郭を曝す山の稜線、切れ間なく靉靆する雲の壁の向こうに聴く飛行機の騒音と瀝青の舗道に辷る車輛の煩音とが乾坤は人間社会の版図であると主張しているかに思え、彼方で幽かにしたか否かの霹靂がそんな不遜の態への瞋恚であるかのようであった。
僕は隣でセーターの袖を引っ張って流麗で、すらりとさらりとした、赤みの一寸も見出せない白子の手を入れ、おおよそ中節骨あたりから先をわざとらしく外に出して、冷えた欄干に添えた。
わざとらしく、そう、先日しとやかな女と称したはずのこの女のするしぐさにしては媚態があるようだった。僕がそう受け取ったのは状況故か、そう望んでいるからか、幾つかの見解が浮かんでは沈み、されど吐く白息は否応なく天へ昇っていくのだった。
「そういえばさ」と不意に女は口を開いた。もはや和合の仲、といっても差支えないだろう二人、もう何度目かの密会で、曰く『大学院を出たばかりの医療従事者』である女が疑惑の矛を一心に向けた相手とここまで打ち解けたのは、当時の印象から推し量れば十分に『親しい間柄』と断じてもいいに違いない。
「正月に実家に帰省することになったの。二十歳までは年に数回は帰ってたんだけど、一応年始は職場も休みだからね、ふつうは喜ぶべきなんだろうけど……面倒なのよね、いろいろと。例えば、ほら、毎年挨拶参りしなくちゃいけないし、堅苦しい食事とか、入浴だって自由にできないし、時間が決められてるし」
年齢を重ねるごとに変遷していった門限や入浴の時間を暗誦してみせた。
「窮屈だろうけど、そこまで特別なことでもないだろう?」と僕は返した。
「あのねえ……。まあ、今になってみればそうだけど。あ! でも一番ヤバかったのはね、消灯時間よ。消灯時間。病院じゃないのよ、刑務所じゃないのよ」
「でもそれがあるから……」僕の言葉は幽かに音となり、鋭く耳朶に染み入った。これは撲が口にするのは憚られた。個人で完結した言葉は血糊とついたままの剣を納刀するみたいに、ほんの心残りや後ろめたさも裡へ呑み込まれ、渚に打ち・引く潮の様相に似て、やがて生まれた激情が耳や頬の赤みとなって表出した。女に見られれば何を思うだろうか。僕は女の精神の眸こそを懼れた。おそるおそる横目に見えた女は街の拡がりに注目しているようで、慌てて視線を切った。どうにも不安だった。泥濘にはまったみたいに女の僕の認知し得る一挙手一投足のみならず、もしかしたら認知の外の女が僕を見て、ともすれば僕の激情の何たるかを悟ることでもあれば……そんな蓋然的な、弱い毒のような、可能性の空想が僕に更なる羞恥を覚えさせた。
「それにね、お母さん、電話のたびに早く男をつくれとか、女は若いうちにしか華やかないとかいって、ちょっと突飛な人なのよ。ある分野に偏っていて、酷い狷介があるから、小っちゃいころに苦手だったお父さんが今では頼れる味方だからおかしいわよね。あまり女性経験ないみたいだから口を挟みにくいんだって」
「お父さんに同情するよ」
「正直、逸楽に耽るお父さんっていうのも嫌だけどね」と微笑んだ。弱く硬い風が吹いて女のよく梳られた濡羽いろの長髪の鬢が目元鼻筋にかかった。その段になって初めて毛糸に温められていた手がするすると現れさっと耳へ一度払われ、少し気に入らなかったのかまたすぐに指で絡め耳輪にもっていった。僕は女の髪が掬われ離れるまでのひと時を瞬きもせず事細かに目にしていた。その何気ない機微に妙に魅了されていたのである。まさに機微とよぶに相応しい、魅了にたいして理由を詮索する間もなく、偶然に、刹那に目にした、巨細の観点の定かでない浮世のもののような輝きにただ呆然とするしかないあの認識速度の及ばない歯痒さ!
女を僕に構いもせず、「寒くなったわ」と述べて、さっさと部屋のなかへと戻っていった。残された者は己を鎮めるように大きな息を吐いた。なかの方で女がエアコンのリモコンを操作する姿があった。マグカップや食料品、ビニール袋など矩形のテーブルに雑多におかれた物ものから手ごろな空白地帯を見つけて、そこに手をおいて、前のめりになって手を伸ばし、壁に備え付けてあるエアコンへ一身を傾けている。そこまでせずとも十分察知できる距離である。余計なこととは思いつつも、どうにも揶揄してやりたい気持ちになってなかへの戸を開けた。
その時、上の部屋でピッとエアコンの反応する音がした。僕は急いでなかに入り、勢いよく戸を閉めた。
手紙 齋藤夢斗 @toyume1225
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