手紙
齋藤夢斗
1 邂逅
一
もう何年も昔のことだが、僕が十八か九の夏あるいは秋の時分、ある一人の女を見かけた。別段、女を見ることそのものが珍妙でもなければ、思わず見惚れてしまうような容姿でもない、つまり女その人ではなく、僕の日常を狂わすほんの小事の一種こそが女というだけだ。小事というだけならば女が不意に映りこんでも瞥見はするだろうが、気に掛けるのはあり得ない。だが、僕が敢えて女の存在を小事として判別したのにはそれ相応のワケがある。
僕のワンルームは閑静な住宅街――どれほどの栄衰した街であれこのような一劃は見出せるだろう――の俯瞰しても、遠見しても背景に溶けいった、変哲もなく、小奇麗なマンションの四階の最奥の戸の先に広がっている。この場合、内装などもっての外、表札の『色部』の疑いようのない手書きの様相とか、隅に凭れている傘の石突を中心にした円状の水跡が敷かれた鼠いろのカーペットに残っているのは昨日の雨降りの証左だとか、余計な描写は横に置くとして……しかし却って女の姿がそれらの描写を際立たせていた。
僕は最初、配達物でもあったかと考えてみたが、近づくにつれ明瞭に露わになる身なりで可能性諸共瓦解した。そう、あまりにもラフだった! 社会に従事し、仕事人として客に接する姿として甚だ非常識で、インサイド・アウト、アウトサイド・インの在り様を僕は垣間見たかのように思えたのだった。とすれば、女がそこに立つこと、来訪すること、四階の最奥にまで足を運んできたことは回顧せずとも初めてのことである。そこに何かしらの情感を得るでもなく、新鮮味もないのは、一重に週に三四度来る配達員のお陰であろう。僕の部屋の前にいる事実は、僕への用向きであれ、部屋違いであれ、どちらにせよ顔を合わせなければならないし、言句程度であれ会話もせねばならない。僕は心で溜息を吐いて、努めて訝し気な顔をしながら女に話しかけた。
「あの、私になにか?」一人称の違いは便宜上といえば理解に易しいだろうか。
「……ここ、私の部屋ですよ」
女の肩はびくっと大仰に跳ねて、僕を見た。「あ、ええと、色部さん、ですか」と訊いてきた。
「はあ、間違いありませんけど……」
しとやかな声音を携えた女の風体を上から下へ眺めて、声に比する外見に寸芼の違和感も湧かなかった。取り繕っているようにはどうしても見えず、真正で、徹底した生まれながらの姿であり、よしんば真の顔を隠しているのだとしても幼少、又は少女時代のこの女は確乎としてしとやかであったであろう。彼女が今なん歳であるかなど知る由もない――ただ確実に撲より年上であろう――が、外国語の発音を成人してから学ぶのと幼少のころより学ばされているのとでは隔絶たる差が生まれるのは周知の事実であろうことだが、それはまさに女の所作の節々に隠見できる技量からも同様のことが説明できる。極めて日本人的で、そして彼女と面識がないという確信がもてたのだった。
「数日前にポストに手紙を入れてしまって、あの、もう開封しました?」
「手紙、ですか……すみません、存じておりません」
「そうですか」そこで少し気まずそうにして、「非常識だとは思いましたが、ポストの中を覗かせていただいて、でも」
語次は音にならなかった。僕は考える素振りをして、「もう二週間くらい中身を覗いていないのでどうにもわからないですけど、どうでしょう、あなたが投函するところを相手の方が観ていて……なんて」
我ながら非現実的な物言い、女も苦笑を泛べながら「どうでしょうかね」といった。
それから数分、どこまでも空想の域を逸脱しない推理を語っては聞くをし、埒が明かないと僕はとにかくまた訪ねてください、私も探してみますから、と惜しそうにする女に弁解して帰した。エレベータ―周りのちょっとした広間まで送ると、女を載せた箱は上階へと昇っていった。どうにも相手の部屋は僕の部屋番号の上一桁部分が一だけ異なっている、つまり撲の部屋の丁度真上にあたるのだ。部屋に戻ったところで何かと居心地が悪そうだと、僕はそれから数時間、ひたすらに近所を練り歩くのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます