Chromebook
増田朋美
Chromebook
その日はものすごく暑い日で、外に出て外出しようだなんてとても思えないほどの暑さであった。なんか最近になり、夏になると外へ出られなくなるのが当たり前のようになり、外へ出るのは大損するだけなので、しないほうがよいという人ばかりで、街にはめっきり人がいなくなってしまったと思われるのだが。
「あーあ、今日も暑いなあ。本当に暑いぜ。まあ、こんな日に買い物に行かなくちゃいけないのも癪だけどさ、無理をしないでいってこよう。」
と、杉ちゃんと蘭はでかい声でそういうことを言いながら、三島駅行の電車に乗せてもらった。いつも駅員に乗せてもらわなければならないのを、杉ちゃんも蘭も、申し訳なく思った。
「まあありがとうな。お礼としたら僕らが買い物を楽しんでくることだろう。乗っけてもらったんだから申し訳ないとは言えないぜ。とりあえず、行ってこよう。」
杉ちゃんはカラカラと笑っているが、蘭の方はこんな暑さの中で頑張っている駅員さんに申し訳なくて、小さくなってしまうのであった。
「だってしょうがないじゃないかよ。パソコン屋は、三島駅に行かないとないんだろ?それは仕方ないことだから、ちゃんと行ってこないとかえって申し訳なくなるよ。」
杉ちゃんに言われて、蘭はたしかにそうなんだけどねえ、と、大きなため息をついた。
とりあえず、杉ちゃんたちは、人がガラガラの電車に乗って、三島駅へ向かった。三島駅は、富士駅と違って、こんなに暑い日でも、新幹線が接続するためか、利用客がたくさんいた。また駅員におろしてもらって、杉ちゃんたちは駅の南口を出て、駅から歩いてすぐのところにある、パソコンの専門店にむかった。
「いやあ暑いなあ。こんなときに、客が来るなというような顔をすんな。えーと、何を買うんだっけ?」
杉ちゃんが一人の若い男性店員に向かって、そういうことを言った。
「はい、失礼ですが、Chromebookを一台お願いできませんかね。」
蘭はすぐに、本題を話した。
「大きさは14インチくらいで、あればテンキーのあるやつがいい。ちっちゃすぎると、キーが打ちにくいので、なるべく大きなものを。」
「はあ、わかりました。しかし、Chromebookといいますものは、現在とても不人気なOSでございます。こちらのほうが良いと思うのですが?」
店員はそう、蘭たちに言った。
「いやあね、Chromebookは操作もかんたんですし、スマートフォンとの連携もできるし、良いかなと思ったんです。」
と、蘭が続けると、
「ということは、パソコンは初めてですか?」
と、店員はいった。
「いやあ、初めてじゃないよ。もともと、アンドロイドのスマートフォンがあったから、そこでアプリの引き継ぎができるというのが魅力でしてね。それにあんまり頻繁に使うものではないですからね。下絵なんかも手書きでやるから、パソコンはそんなに使用することもないわけで。」
蘭はすぐに訂正した。
「だからそういうことでしたら、当社が提供しているOSのほうが、お買い得だと思いますよ。ぜひ、当社で提供しているOSを試してみませんか?きっと、ご満足いただけると思いますよ。」
店員に言われて、蘭も杉ちゃんも、困った顔をする。
「ほんならお前さんが、おすすめする、OSなるものの特徴を聞いてみようか。ちょっと説明してみてくれ。」
杉ちゃんに言われて、若い店員は得意になった顔をして、
「はい、私どもは、おしおというものをやっておりますが、これは月々5000円程度でレンタルできるサービスなんです。パソコンの価格は、5万とか10万は平気でしてしまうものですし、長くても寿命は二年程度ですよね。買うよりも低価格でパソコンをレンタルし、データ移行などすべておまかせして、月々5000円とは、お得なサービスだと思いませんか?どうですか?お試しできませんか?」
と言った。
「そうなのか。でも僕たちは、やっぱりChromebookのほうがいいな。そういうものはいつか壊れるからさ。その時の修理代だって払わなければいけないだろ?そういうことはしたくないからさ。それよりも、安全に個人的に使えるやつがいい。やっぱり、自分の買うよ。ま、お前さんの策略は外れたね。こういう客もいるんだと思ってくれ。」
杉ちゃんは、カラカラと笑った。
「そんなことありません。Chromebookは故障が多いので、おすすめできないだけです。それなら、当社で売っているOSのほうが、よほど良いですよ。」
「はあ、お前さんも随分強固な店員だなあ。」
杉ちゃんは店員に言った。
「そのほうがいいかもしれないけどね、僕たちがほしいのはChromebookなんだよ。だからもう諦めて、Chromebookを出してきてくれないかな。それで良いことにしてくれや。」
と、杉ちゃんは店員にそう言うと、店員はなんだか困っているというか、なんか自分で処理できない大きな動揺があるような顔をした。
「はあ、お前さんもまだまだ蒼いねえ。まだ新人か?それとも何か事情があって、いつまでも蒼いままでいる?」
杉ちゃんが店員にそういったのであるが、店員はどうしようという顔つきをしたままだった。それに杉ちゃんの言い方は、ヤクザの親分みたいな言い方なので、普通の人間がするような喋り方ではないところから、脅かしているように見えるのであった。
「すみません。杉ちゃんの喋り方っていつもこうですよね。本当は親切で言っているのに、とてもそうには見えないんですよね。悪意はありませんから、気にしないでください。」
蘭がすぐにそう言って訂正しようとするが、店員は持っていた何かを崩してしまったらしい。唇や指がわなわなと震えている。
「本当に蒼いやつだねえ。新人にしてはちょっと教育不十分なところもあるかな。お前さんは、この店に、入社して何年だ?言ってみな?どれくらいなんだ?どうしてそんなにも蒼いの?」
と、杉ちゃんは店員に声をかける。蘭は、彼自身の口から喋らせるのは、ちょっと可愛そうだなと思うことにした。そこで、杉ちゃんの代わりに答えを出してあげることにした。
「杉ちゃんそれはね、この人は、発達障害というものがあってね、マニュアルに書いていないことが起こると、こうしてパニックになってしまうんだよ。」
「発達障害ね。」
杉ちゃんは、そんな言葉を言われても何も驚かなかった。
「そんなもの口にして何になるんだ。いくら口で言っても、理解してくれるやつなんか、どこにもいやしないんだ。じゃあな、そういうことがあるんだったら、お前さんがこれからも社会で働いていけるようにする、秘訣を教えてやるよ。なんでもそうだけど、事実はただあるだけなんだ。マニュアルもなにもない。いや、マニュアルに書いてあることなんて大嘘であることのほうが多い。ただ、事実はあるだけでね。そのとおりに動いてくれればそれでいいのさ。それに善もなければ悪もない、上もなければ下もないの。だから何でも分別なんかしなくていいの。今回の場合もそこだ。マニュアル通りに動いてくれる客なんかいるわけないんだから。その客の言うとおりに動けばいいのさ。理想では、マニュアル通りがいいんだろうけどね。そのとおりに行くことは、ほぼないと思え。」
杉ちゃんが、そういうことをいうが、そんなことを言ってくれる人は、果たして何人いるだろうか。ほぼゼロに近いと言って良いだろう。これを教えてもらえないために、心がやんだり、働けなくなったり、時には自殺までしてしまう若者が、非常に多い気がする。そんな極端なことはしなくても、何かちょっと考え方を変えるだけで、解決できるのではないかという事例はいっぱいある。そのパイプ役というか、橋渡し役が、極端に少ないのが日本の現状である。
「まあお前さんの会社も、発達障害というものについて、勉強が足りてないことは認めるよ。マニュアルさえ渡しておけばなんとかなるって、教育にも何もなってないな。まあいいじゃないか。お前さんは、ここでマニュアル通りに行かないこともあるってことを、一つ覚えることができただろ。それは、別にお前さんが悪いとか、劣っているとかそういうことじゃないんだよ。それは間違えちゃいけないぜ。お前さんは何も悪くない。幸い、今ここに、お前さんを責めるやつは誰もいない。早く、Chromebookを出してくれ。それでいいんだよ。」
「そうですよ。これだけは杉ちゃんの言うとおりです。Chromebookを出してください。僕も新しいChromebookを買わなくちゃいけないのは事実ですから。それに、OSが変わってしまうと、引き継ぎとかそういうことが大変だから、やっぱり同じもののほうがいいんですよ。これでおわかりになってくれましたか?僕たちのほしいものは、Chromebookです。持ってきていただけますか?」
蘭はできるだけ優しくその青年に話しかけた。間違いをあまり強調せず、それよりも次のことをすればいいことを強調したかった。こんなことは大したことでもなんでもない。それが原因で病んでしまう必要もない。それで働けなくなることもない。それで塞ぎこむこともない。本当に、気にしないでいい、大したことではないから。それを感じ取ってほしかった。
「大丈夫ですよ。僕らは、あなたのしたことを誰かに話すとか、そういうことは一切しませんから。」
杉ちゃんが、青年に話しかけようとしたが、蘭は彼が成長するのを待ってやろうと言った。それを妨げてしまうのは、なんだかかわいそうな気がした。
「わかりました。すこしお待ちください。」
青年はそう言って、蘭と杉ちゃんに別の売り場へ来るように言った。二人でそこへ行ってみると、確かにそこにはChromebookと書かれたノートパソコンが置かれていた。Chromebookは人気のないパソコンなので、あまりおおっぴらに宣伝されていないのだった。この店が、プライベートブランドのパソコンばかりを強調して、他のものは、ほとんど手をつけていないことが、実によくわかった。
「こちらのChromebookですが、エイサーの今年発売されたばかりの機種になります。現在Chromebookを生産していますのは、エイサーと、ASUSが中心ですから、このChromebookは主流ということになります。」
青年は、今度は自然な口調でそういうことを言った。
「そうか、随分丁寧な説明だな。どうだ蘭。これは良さそうだろ?色はこの色にする?それとも他の色のほうがいい?」
杉ちゃんがそう返答した。実はこのパソコン、Chromebookとしては非常によく出回っている機種で、蘭も大体のことはしっており、説明も何もいらないほどであったが、杉ちゃんたちは、彼の説明を聞くことにする。
「色は、黒と青、それに女性向きで、赤や黄色などもございます。赤の方は当店に在庫がないので、メーカーから取り寄せることになります。」
と、彼は言った。
「はい、わかりました。じゃあ黒を買いますかね。黒は在庫ありますか?」
と、蘭は聞いた。パソコンというのは、車と違い、グレードや価格の差で性能に影響することは少ない。アプリケーションは、個人で追加すればいいだけの話である。あとは、デザインと大きさの問題だ。
「はい、わかりました。しばらくお待ちください。」
と、青年は売りだなの下から、パソコンの入った箱を一つ取り出した。ChromebookはグーグルのIDとパスワードでインターネットにアクセスできるし、無線LANルータが家にあれば、モデム契約もしなくていい。逆を言えば、そういうかんたんすぎるところが、売れない理由でもある。
「それではインターネットの設定とか、そういうものはこっちでやりますから。代行していただく必要はありません。僕たちはしっかりやりますので、大丈夫ですからね。」
と、蘭はにこやかに笑って彼に言った。青年はそこで困った顔になる。多分手伝いをすることで、客から金を取るように、というシステムになっているのだろう。この店は、そういうことをして客から金を巻き上げる店になっているのだ。杉ちゃんたちのようなパソコンに慣れている人であれば、問題ないが、インターネットの設定ができない人であれば、間違いなくいいかもになってしまうだろう。そういう悪質な店なのである。
「とりあえず今日は、本体だけ持って帰るか。僕らはなかなかこっちまで来られないから、聞けることは、全部聞いていったほうが良いな。」
蘭は急いでそういうことを言った。でも、聞いておきたいことなど何もなかった。Chromebookは操作がかんたんなので、特に難しいことはない。簡単なパソコンであるし、素人でも十分やっていけそうな、そんなパソコンでもある。これからは特に専門的な知識も必要なく、誰でも自由にやっていける道具が、どんどん増えていく時代になるだろう。
「ありがとうございました。新しいパソコンが買えてよかったな。まあ、良いやつに出会えて良かったじゃないかよ。それを忘れずにいような。」
杉ちゃんは、カラカラと笑った。
「どうせなら、お前さんは他人を騙すような悪質なパソコン屋じゃなくて、もっといい人がいるところに職場を変えたほうがいいよ。まだ若いし、色々いくらでもやれるさ。もしも、大変なことがあるんだったら、この蘭が、いくらでも相談に乗るからさ。こっちへ手紙でも出しな。」
杉ちゃんがそう言うので、蘭は自分の名と住所を書いた紙を彼に渡した。こういうときは名刺を渡すんだろうが、蘭は直筆のほうが、良いと思ったのであった。
「もし、大変なことがあったら、いつでも言ってきてね。」
「ありがとうございます。僕は、伊藤明夫と申します。三島市内に住んでいます。」
青年は、嬉しそうな顔をして、杉ちゃんと蘭に頭を下げる。
「いやあ、いいんだよ。一度しかない人生だ。楽しく生きたほうがよほどいいじゃないか。そのためには、無理をしないことも大切なんだよ。」
「そうですよ。僕のところに来るお客さんみたいになるなというと失礼ですけど、そういうことなんです。僕のお客さんは、みんな人生どこかで失敗して、それを補いに来る人ばかりですから。」
杉ちゃんも蘭もそういうことを言って、彼を励ました。
「自分の良いところを早く見つけてください。それが幸せへの近道だと思います。」
そういう蘭に、青年はありがとうございますと言って、深々と頭を下げ、蘭にChromebookの入った箱を渡した。
「よろしくお願いします、価格は、3万5千円です。」
と、彼はいう。とても二束三文程度しかならないと思われるがくだと思うけど、それでも蘭は、嬉しかった。にこやかに笑って、彼に渡した。
「それでは、ありがとうございます。じゃあ、よろしくお願いします。」
青年は計算は速かった。すぐに蘭に、お釣りを計算して渡してくれた。そういうところを活かして働いてくれればいいのになあと蘭は思った。
二人は、Chromebookの入っていた箱を受け取って、どうもありがとうございましたと改めて言って、パソコン屋をあとにした。二人とも、また駅員さんにてつだってもらって帰ったが、今度は嫌そうな顔はせず、にこやかに笑って帰ったのであった。
それから、数日がたったが、あの伊藤明夫という男性からの手紙は一度も来なかった。杉ちゃんも蘭も、そのことを話題にすることはなかったが、伊藤という人から手紙が来ることはなかった。それから、更に数日がたって、パソコンの外箱を捨てて、もう、初期不良もないかなと蘭が思っていた頃のことである。
「伊能さん、郵便です。確認をお願いします。」
と、郵便配達が言った。蘭は、また宣伝の郵便かなと思って、すぐに郵便受けに行って、郵便を受け取った。それはきれいな秋のはじめを知らせるような、柿の絵を書いた封筒で、蘭は、誰だろうと思いながら、封を切って読んでみた。
「拝啓、夏がもうすぐ終わり、秋が近づこうとしています。まだまだ暑い日が続いておりますが、おかわりありませんか。僕のことを覚えていらっしゃいますか?あのとき、Chromebookを販売いたしました、伊藤明夫です。」
なんと、手紙の送り主はあの伊藤明夫だった。蘭は、手紙を仕事場に持ち込んで、急いで読んでみた。
「あのときは、僕に障害があるとご指摘下さりありがとうございました。あのあと、僕は病院で検査を受けて、正式に発達障害があると知りました。広汎性発達障害というものだそうですが、蘭さんがご指摘くださったとおり、マニュアル化していないと、ひどく混乱してしまうとお医者様に言われました。あのとき、蘭さんは、店をやめるようにとおっしゃってくれましたが、僕は、店を続けることにしました。確かに、こういう障害があると接客は難しいかもしれません。でも、僕はやっぱりパソコンを通して、お客さんが笑顔になってくださることが一番の幸せだと思うんです。そこを、絶対忘れずに生きていけば、多少大変であっても、できるのではないかと思ったのです。」
やれやれ、青年は荒野を目指すとはこのことだと蘭は思った。どうして、わざわざ危険な道へ行ってしまうのだろう。それでは、行けないと自分は言ったつもりだったのに。そう蘭は考えながら、手紙の続きを読んだ。
「あのときは、無理をしないこととか、適さない場所にわざわざいる必要なはないとか、そういうことを仰ってくれましたよね。でも、僕は、適さない場所であっても、自分を向上させることができるのなら、ずっとそこに居たいと思いました。確かに、今の仕事は、大変です。楽しくはありません。でも、時間が経てば、もしかしたら楽しめるようになるかもしれません。僕は、それを目指して、頑張ることにします。生き方は自分で決められる。そう信じています。」
蘭は、この文書を見て、あのときの杉ちゃんの問いかけ、どうしてそんなにも蒼いの?ともう一度言いたくなったけど、それは、この青年の心を傷つけてしまうかと思うので、やめておくことにした。
Chromebook 増田朋美 @masubuchi4996
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます