第2話

『あなたはそもそも自分をどうマーケティングしようと思っているの――――』


 売れるため、市場調査し、プロモーションし、効果を検証する販売戦略。

 一晩寝かせたその言葉は、私をぶすぶす燻らせる。

 会社という市場において、私という商品は半端。


 中田部長の困った顔が瞼の裏に再生される。



 休憩室の汚泥と化している女性社員の皆さんは、愛する夫と子供という超安定的岩盤支持市場「家庭」があってのついでに本来の市場ではない「職場」で小銭を稼いでいるだけなのだ。そして「子供がいる女性を何人継続して働かせているか」という統計上の問題で、彼女たちは大企業には必要不可欠な存在。

 29歳、入社7年目にしては私の実績も能力も見劣りしている。

 そのうえ向上心も見失っているとなっては使い道がない。

 ちょっと仕事の出来栄え精度がまし、という程度ではだめだ。と中田部長は言いたかったのだ。独身でどれだけ頑張ったって、社会のバックアップはないのだから。

 実際、中田部長以外にちゃんとした役職と仕事をもっている女性はこの支店にはいない。本社にだって、数人しかいない。

 そっちの道は相当な茨の道。

 生存率から考えたら、休憩室の汚泥のほうがかなり高いけど。

 結婚に持ち込む自信も失っていた。




 素敵なソファーが置きたいと思って、古いけど少し広い部屋を借りたはずなのにソファーは買えずにいる。

 ソファー予定地に、晶の荷物が積み上げられているから。

 彼の荷物は年々増えているような気がする。時々泊まって出勤していくのに不都合がないように少しずつ荷物を持ち込まれた。

 今日は週末だから泊まっていくつもりの様子で、テレビの前にビール缶を持って行って座った。テレビは見ていない様子で、タブレットを操作している。

 私はダイニングを片付けながら、声をかける。

「明日、どこかに出かけない」

 もう一度繰り返しても返事がない。どうやらしかばねのようだ。

 もう一度繰り返したら、面倒そうに「どこに」と質問が返ってきて答えに窮す。

 ――――この人と行きたいところが、私にもない。


 彼が印象に残ったのは横顔が素敵だったから。

 初めて晶と呼んだ日の事や、一緒に行ったところ、おいしかった食べ物。初めて触れ合った時の感動。楽しかった思い出だけが走馬灯のように溢れた。

 まるで葬儀場で遺影を眺め上げるときのように。

 私の心は喪服を着て、彼の葬儀に出ていた。

「――――ねえ、あたしのこと好き?」

 返事がない。

 私は彼の横顔を遺影として心に焼いた。



「なにも心の葬式まで上げなくても」

 中田部長の声に呆れの音が含まれていたことは聞こえないことにする。

 彼女はキャリアプランシートの再提出を受け取ってくれた。

「結婚はした方がいいと思うよ」

 自分はできなかったけどね。と部長は付け加えた。

「その彼のために、来るかどうかわからない何年も先のことを考え過ぎて、今度はまったくのゼロベースかあ。面倒なことは考えずに、現時点での最高速度で走ってみたら」

 1年後、3年後、5年後、10年後の詳細な人生プランを提出させといて、全然違うことを言う。でもなんとなく言いたいことはわかる。

 私たちは過渡期なのだ。

 中田部長より前は選択肢はなかった。

 中田部長のころは「仕事か結婚退職か」の二択で、二十年たって休憩室の皆さんは「仕事か家庭か」の二択から選んでああなった。

 その時代の最善の選択をしたのだろう。


 私は私の時代の最善の選択を探さなければならない。



 大村部長は年齢に不似合いな真っ白な歯を剥き出して、いかにも自分がITの推進派だと言いたげに饒舌気味に演説していた。彼主催の会議は長い。論点を洗い出さないまま、やたらめったら関係者全員を集めたがる。

 それにしても歯が白すぎる。ホワイトニングしたのだろうか。

 LEDと同じぐらいの白さでピカピカしている。

「ねえ、美玖ちゃん――――君担当の部分の社内システムはいつできるのかな」

 咄嗟に、声が出なかった。

 次の瞬間、耳の奥が焼けただれるような気がして、はっきりと決心できたことがあった。

 私はこの男に「ちゃん」で呼ばれる人生は送りたくない。

 回答するのに心の中でゆっくりと10秒数える。

「――――ああ、申し訳ありません。自分のことだと思いませんでした」

 心掛けてゆっくりと、声を低くして答える。

 どつき倒してしまいそうだったから。

 だけどそこにはっきりと不快感を乗せた。

「私のことを美玖ちゃんって呼ぶのは田舎のおじいちゃんか、隣のうちのおじいちゃんぐらいなんで」

 もうすぐ65歳。若く見せるのに必死な大村部長は2回も「おじいちゃん」と言われて、それっきり私の業務の納期の念押しすらできないまま、口をつぐんでしまった。

 大村部長の向こう側で中田部長は心底得意げに微笑んでいた。




 自分を少し変えるために、中田部長と1年後の目標を立てた。

 新しいプロジェクトに参加すること。

 素敵なソファーを買うこと。


  中田部長と一緒にインテリアショップに寄って、きゃあきゃあ言いながら、いろんなソファーに座ってみた。買うと決めたソファーのカタログを持って家に帰る。

 今日は、晶に尋ねてみようと思う。

 私と一緒に住むための新しい部屋にこのソファーを買うつもりがあるか、さもなくば、私の部屋のスペースと未来を返却してくれるか。


 

 頑張れ、とハグしてくれた中田部長は田舎のお母さんと同じにおいがした。

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夏が燻る 錦魚葉椿 @BEL13542

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