夏が燻る

錦魚葉椿

第1話


 夏は作文の季節。

 そういえば、昔から読書感想文が大の苦手だった。

 今、私を苦しめているのは人事評価シートとキャリアプランシート。

 ああ、白紙部分が目に刺さる。

 見開きA3が広大な砂漠のように私の眼前広がっている。


 人事評価シート側には、「この一年の職務内容と業績に対し、自己評価をして業績を自らアピールする」という奥ゆかしい私の民族性にはふさわしくない作文を、キャリアプランシート側には1年後、3年後、5年後、10年後、それぞれどのような職位にいてどんな仕事をしていたいかという将来の希望を書く。

 この作文により格付けされた職務レベルに相応しい仕事を行っているかどうか再評価され、来年どのような仕事を任されるかが決められるという建前にある。

 ボーナスの額もこれで決まるので、そう手が抜けないが、あんまり人の目に留まるような素晴らしい内容を書いてもまずい。

 昇格してしまったら困る。

 29歳の女に、3年後、5年後、10年後とか聞かないでほしい。



 私の部屋には夜の八時半にご飯を食べに来る男がいる。

 キャリアプランシートが埋まらないのはこいつのせいだ。

 小島晶。同い年で付き合って5年。この人と結婚すると思ってきたけれど、最近彼が私をどうするつもりなのかわからない。

 ご飯がおいしいと言ってくれるのが嬉しくて、常備菜を準備するようになって、毎日何とか8時には帰宅するようにしている。週に2、3日立ち寄る彼のためにいつでも晩御飯が出せるように。

 将来のことを考えるときに、彼のことを外して考えられないけれど、彼がどう考えているのか、問いただす勇気は年々失われてきていた。

 生活を維持する金銭を拠出せず、家事という労働も提供しない不労所得的生活をすでに得ているのに、夫としての法的責任あるいはリスクを敢えて負う必要性を彼が感じるだろうか。

 客観的に見て彼は結婚するには充分なスペックだと思う。

 安定した職があるし、顔もそこそこいいし。

 今、彼が婚活市場に放たれたとしたら、すぐに次の相手が見つかって3か月後には結婚できるだろう。そうしたら、私の5年間はどうなってしまうのだろう。

 アジの開きとほうれん草のお浸しと豆腐の味噌汁を平らげて、彼はスーツの上着を持った。今日は家に帰る気らしい。

「おやすみ、美玖」

 それだけ言って彼は帰って行った。

 ダイニングテーブルには皿が広げられたまま。

 



 オフィスの窓から街を一望できる。

 まるでこの街を支配しているような気分になれる光景が眼下に広がっている。

 ただ、この風景に慣れてしまうと、むしろ窓ガラスの汚れが気になる。こんな高層ビルの窓にはなかなか清掃が入らないから、世界は灰色にくすんで見える。

 それなりに準備してきたプレゼンを披露するように、そつのないキャリアプランを報告し、表面的に笑顔とやる気を張り付けた顔を披露する。

 どこにも突っ込めるスキはないはずだ。

 中田部長もまたどこかネットで拾ってきたような定型的な質疑応答を二三して、提出したキャリアプランシートを受け取ってくれた。

 私がほっと息を吐いたのに気が付いたのか、彼女も小さくため息をついた。

「ここからは私は上司ではありません。個人的なおしゃべり」



「このキャリアプランシート、どこのサイトから拾ってきたのかしらという、可もなく不可もなく、実に面白くないクソ作文です」

 心の中でその通りでございます。と深くうなだれた。

「あなたはそもそも自分をどうマーケティングしようと思っているの――――」

 面談室の内側まで、女性の高らかな私語が聞こえてきて、彼女はいったん口を閉じた。面談室の裏に休憩室があった。

 声が大き過ぎるけど、話の内容まで筒抜け。壁が薄い。

 彼女は質問から詰問の色を消し、声を低くして続けた。

「会社としてはアレの方がまだありがたいのよ、給料を払う以外の一切の考慮が不要でしょう」

 私語する声の種類はどんどん増えていく。いったい何人いるのだろう。

「あの子達が求めているのは今日座るための椅子と毎月の給料だけで、自分を活かす仕事とかこうなりたいとか一切の理想もないし、むしろ仕事はすくなければすくないほういい」

 どの仕事を振ろうか能力に過不足はないか、本人の希望に沿っているか、会社の希望に沿っているか考えるのが大変なのよ、と彼女は重ねた。

 休日に遊びに連れて行ってくれたりもするけれど、やはり彼女は上司だと思った。



 休憩室に大村部長が来たようだ。

 彼の甲高い声は絶対、誰とも聞き間違わない。

 彼は、私より2,3年後輩の女性社員を茜ちゃん、と名前で呼んだ。

 中田部長は茶色でくっきりと描かれた眉をきゅっと強くひそめる。

 彼女は雇用機会均等法が始まってすこしした頃に大学を卒業して定期採用入社した時代の人だ。眉毛の書き方が当時のままだ。


 中田部長はミーティングチェアに体を預けて天井を仰いだ。


「あの男が名前で声をかけた女性社員は間違いなくダメになるの。あいつが声をかけたからダメになるのか、ダメになるタイプを嗅覚で察知しているのかわからないけど」

 女性はいつの間にか箱に入る。と彼女は言った。

 圧倒的に女の方が多い。と付け加えた。

 新しい仕事をしようとしなくなる。ITシステムの向上により仕事はどんどん減っているはずなのに、減った仕事を足してもらおうとしない。そのうち結婚して子供を産んで育児休業中に仕事が省力化されたり合理化されたりしてごっそりなくなる。

 でも仕事をさせてくれとは言わない。仕事を引き受けると、帰りたい時間に帰れなくなるから。自分の仕事はこれだけであって、それ以上のものはないと思っている節もある。そうして、在職中の失業期間が長くなるうちに労働能力を喪失してしまうらしい。

 休憩室はいつまでも人が減らない。

 席に戻ったって仕事がないから。

「夏は嫌よねえ。ダメになっていく後輩を直視しないといけないのよ。その度にあの男が勝ち誇るのよ。――――女は使える順から辞めていくねえって」






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