魚の小骨
「小学生のころ、おれ、中国から来たばっかりで日本のルールがわかんなかったんだよね。中国の小学校は子どもと言えど、ものすごい詰め込み教育させられる。一方、日本の小学校って、勉強を覚えるっていうよりきちんと生活できるための訓練する場所に近いんだよね」
たとえば掃除の仕方を覚えたり、身だしなみを整えたり。掃除については、『窓が汚れたら新聞紙で水拭きした後、乾拭きする』などの
小学校では週に1回、身だしなみチェックがあった。ハンカチとティッシュを机から出す。そして、先生がちゃんと持っているか、ハンカチは清潔か、などを検査するのだ。
「実は中国ではハンカチってあんまり使わないからさ。ティッシュ自体ががこう分厚くて、ちょうどクッキーとかのお菓子の下に
「へえ」
「今はさ、解るよ。そういう“ルール”なんだって。解らなかったら聞くし。でもその当時はしゃべれないからさ、そういう小学校っていう社会の仕組みをいまいち理解してなかったんだよね」
毎日家でお風呂に入って、毎日違う洋服を着る。清潔さを保つ。これが日本の小学校で身に着けるべき教育の一つだと思っている。もしこれができなかった場合、いじめられたり、仲間外れにさせられることもある。それが中国の小学校とは全く違うところだった。
「おれんちは特に東北人で、水がもったいない訳だよ。降水量が少ない地域だから。だから風呂なんて毎日入らなくてもいいし、中国人は連続で同じ服を着ることは別に普通だったんだよね」
「あ、わたしのヨーロッパ人の友達もわたしに対して、“なんで日本人はいつも違う洋服来てるの?”って言われましたね。それがもしかしたら日本が変わっているところかもなとは思います」
日本だけ。そうかもしれない。けど、その小さな日本社会ではそれがすべてだったわけで。クラス内で浩然は汚いというのが暗黙の了解で広がっていった。
決定的だったのは、魚の小骨だった。小学校で、魚のを食べた時、小骨があった。出したいと思った浩然が出したのは、お皿の載ったトレイの上だった。
「トレイの上?」
「そう。中国人はトレイまで“皿”っていう認識なんだ。お盆の上に肉の骨や魚の小骨を出すのは普通なんだ。だからそこに出したんだけど…。それって汚い食べ方だよね」
シャンプーは曖昧にほほ笑んだ。
“せんせー! ハオランくん汚い食べ方してまーす!”
クラス内がなぜか騒然となった。浩然自身は訳が分からない。え、小骨を出しただけで?飲み込めって言うのか? 先生が寄ってきて、何かを注意するが何を言っているかさっぱりわからない。
どうしたらいい…?
その時、混乱した浩然はあやまって給食の入った盆を床にぶちまけてしまった。魚も汁物もごはんもすべて無残に床へ飛び散った。
やばい、怒られる…!
なんで? どうして? 自分がわからないことをこんなに責められるんだろう…。まだおろしたての浩然の白いシューズが魚の煮つけの汁でオレンジ色のシミが点々と着いた。
「きったな」
同級生は落ちた給食について言ったのか、自分に対して言ったのか。溢れる涙でぐちょぐちょになって、長袖で必死にぬぐう浩然にはもう何も解らなかった――――
「まあ…そんな感じで。その時思ったんだよね、言葉でわからないのなら観察して、意図を理解するしかないって」
――――自分は汚い。
それからよく周りの日本人の子を観察した。どう振る舞えば“汚くない”のか。魚の小骨については皿の上に出していいということがしばらくわからなかったので、飲み込んでいた。無数の骨が針のようになり、幼い浩然の喉に突き刺さった。
「その癖が未だに残ってるのかもね」
何か考える時、喉を触る癖もこの頃からだった。そしてじっと人のことを観察する癖がついたのも。
自分の中ではもうかなり色の抜けた思い出だった。その時の痛みは淡い色をした傷跡となって、まだ心には残ってはいるものの、それを見てもそんなこともあったよね、よく頑張ったよね自分って思うだけだった。浩然は力なく笑った。
「…浩然くん」
「ん?」
浩然がシャンプーのほうを向くといきなりシャンプーが浩然を抱きしめた。そして浩然の胸に突っ伏した。
「え!? あ、ちょっ、シャンプー?」
女の子に抱きしめられて浩然はあの時の給食以来の大混乱に再び陥った。なになになに!
女の子特有の、体の柔らかさが浩然の体を
「…浩然くんは汚くないですよ」
シャンプーが震える声でそう言った。泣いてるのか…。
「浩然くんは汚くないです!」
今度は大声でそう言った。シャンプーの声に行き交う大学生たちがびっくりした様子で通り過ぎていく。ちょ、なんか汚れたみたいな言われ方してますけど、違うから! 浩然は顔を真っ赤にしながら壊れたように首を横に振る。引きはがそうにもどこを触ったらいいか解らず、腕は微妙に宙を浮いたままになっている。
「きれいで優しい人です」
その言葉で浩然の動きは止まった。
きれいで優しい人————。そんなこと言われることなんてないと思ってた。きれいでもないし、優しいとも言い難い。
でも…なんか救われたような気がした。傷が
「…ありがとう」
「…えへへ。話してくれてありがとう」
鼻先が赤くなって、涙でぐちゃぐちゃになったシャンプーが顔を上げる。ほんの一瞬、暖かな優しい気持ちが少し湧いた。
「だー、何だってんだよなあ、こんなところでさ」
チッチッチッと舌打ちが聞こえる。声の方向を見ると、岡がうわあどんびきだわ…っていう顔で腕を組みながらこちらを見ている。さっと浩然とシャンプーは身を離した。
「あ…いや、その魚の小骨を取ってもらってたというか」
「抱き合いながらァ? ざけんな! …て、シャンプー泣いてるの? 浩然てめえ何したんだよ!」
岡は右手でチョップをしながら浩然に突進してきた。
「いでぇっ」
浩然、岡チョップ食らう。
《第4章『クラス』 終わり》
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