どうせ周りの人なんて大したことないわ

「そうそう、名前と言うと、ファンさん、あなたの下の名前はなんでいうのかしら?」

「ハオランです」

「どんな感じ書くの?」

「ああ、えっと…」

 上に針金でできたリングが付いた、メモ帳を取り出す。仕事でつかっているメモだ。それに自分の名前を書く。『範浩然ファン・ハオラン』。

「ファン・ハオラン。ハ行の名前で素敵。優しい響きだわ。ちょっと異国の王子様みたいなお名前ね」

「いやあ、どうですかね…」

「どんな意味なの?」

「水の流れや心などが広くゆったりしていること、って聞いています」

「まあ、じゃあぴったりね」

「そうですかね…」

「そういえば孟浩然もうこうねんと同じお名前なのね? えーと、春眠暁をおぼえず?でしたっけ」

「そうです、一緒です」

「不思議よね、国語で、外国語を勉強するんだもの、漢文って。ねえ、わたしも少し突っ込んだこと、聞いてもいいかしら? 浩然さんは本当に、中国語を勉強されないの?」

「え?」

「不躾な事を言って申し訳ないわね。でも言われたのよ、澤田眞人に」

「なんてですか?」

「本名と偽名のこと、牧瀬さんが解かれたんですかって。わたしはいいえ、優秀な探偵を雇いましたって」

「そしたら?」

「こう言ってたわ」


『でもその方は中国語を勉強しているんですよね、じゃないと解らないこともいっぱいあったでしょうから。

 その方に伝えておいてください、自分たちは申し訳なく思いながら勉強していました。だからこそ私たちが叶えられなかった、純粋で、もっと近い距離で自由に勉強してほしいんですと。

 過去のことは知るのは大切です、でも過去のことを意識してくれるなら、私たちのこの願いも叶えてやってほしいんです』


「…」

「どうして浩然さんが勉強しないかわからないけど、伝えなきゃなって思って伝えたわ」

 浩然の口が自然と動き始めた。

「しない、と言った事はないんです。ただ、高校生の時に1度だけやろうと思って挫折したんです。聞いて分かるのに、話せなくて…情けなくて。それで勉強から逃げてるんです。それにこれから先、おれがバイリンガルになる可能性はもう低いと思います」

 そう、兄のように。

 するすると自分の心の底で抱えていたものを出していた。

「わたしね、運動苦手なのよ」

「え?」

「運動音痴なのよ。運動していてね、足手まといになるからボールを回してもらえなかったり、走っているところを見られて笑われて…つらいわよ、そりゃあ。今でも誰かにわたしが運動しているところなんて、見られたくないもの。自然と泣けてくるぐらいにみじめに思えるわ」

「…」

「でもね、この歳になって思ったのよ。わたしを昔馬鹿にした大多数の人たちって、オリンピック選手でもなければ、市で一番になるほどでもないでしょう? せいぜいわたしよりできる程度だったんだから。だから気にせずに自分のペースでいいんだって。

 わたしは語学はできないわ、全くね。でも今の浩然さんの言ってる目標地点って、ネイティブになるってことを指してるわよね。考えてみるとそれって、わたしがオリンピック選手目指すのとかと変わらないんじゃないかしら。

 負け戦だっていいじゃない? どうせ周りの人なんて、たいしたことなんてないわ」


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