澤田眞人のすべて
「失礼ですが、退職前のご職業は何でしたか?」
「…警察官でしたが」
牧瀬の眉がピクリと動いた。牧瀬は神保町にある喫茶さぼで、影山と向かい合う。喫茶さぼは落ち着いた純喫茶で、店内を黄色い照明が包み込んでいた。
「警察官、そういうことだったんですね」
牧瀬は人差し指と親指で顎をはさみ、やがてぱっと前を見据えてにこりと笑った。ピンクベージュの落ち着いた口紅を塗った口角がきゅっと上に上がる。どうりで、年の割には引き締まった体型だと思ったわけだ。
「初めまして、澤田眞人さん」
「やっぱり…話す前に気が付かれましたか」
そう、まだ一度も影山功としては、まだ澤田眞人の名前を名乗っていなかった。
―――――――――――
「やっぱり」
「そう、職業的に偽名を使わざるを得なかったようね」
日中学院の本にはこう書かれていた。
《 しかし中国語が知れると勤め先にまずいと、偽名を使ってきている人さえいたような時代で、それぞれに困難な条件を背負いつつ、中国への関心から言葉を学ぶという人が多かったので… 》
警察官という職業では、共産主義国の国の言葉を学ぶにはリスクがあっただろう。学生運動をしている学生と攻防する機動隊の写真を思い出す。
「でも偽名を使ってでも勉強したかったそうよ。かつて敵国だった言葉を。もちろん警察官と言う身でありながら、中国語なんて勉強したら赤だと思われて危なかった。だから偽名で通ってた」
牧瀬がその時のことをジャスミン茶片手に語ってくれた。心なしか、ジャスミンの香りがより一層強くなる。
「で、学生運動の制圧のため、顔につけた防具を上にあげて現場へ向かっている時に、デモを遠巻きから見ていた叔母にばったりあったそうよ」
影山はしまった、と思ったらしいが、当の量子も驚いた顔をしていた。影山にはこめかみのところに印象的な母斑がある。それで量子もすぐに澤田だとわかったようだ。
まあ知り合いが警察官だったと知らなければ確かに少しびっくりはすると思う。しかし量子はあくまで澤田だと思っていたから、声をかけようとした。そしたら運悪く、後ろの先輩から、
「おい、影山~!」
と呼ばれた。先輩であるので、無視もできず、振り返って、
「…はい」
と答えたそうだ。叔母はさらに驚いた顔をして、影山を見ていた。つまりここで、澤田眞人が偽名だったことが量子にばれたのだ。そしてあの本名で手紙を出さなければいけなくなった、ということだ。
「ちなみになんで今回のことをすぐ教えてくれなかったかというと、資料を探していたらしいの。偽名で叔母と会ってたなんて、下世話なことを想像されるかもしれなかったからって」
「それで日を改めてもらったんですね」
確かに自分もここまで資料を読み込まない限り、時代性の違いもあってか、中々信じがたかったかもしれない。
「芳名帳に澤田の偽名を書いたのは、その当時呼ばれていたのがその名前だったから。で、その名前を書いていたら、わたしが驚いた顔で見ていたのを気づいたの。驚いていたから何か叔母から聞いているのかもしれない、もしかしたら話ができるかもしれない…そう思ったから携帯番号を書き残した。だけど、まさか影山功のこともわたしが知っていて、“影山功”に電話するなんて思いもよらなかったみたい」
おかしそうに牧瀬は笑った。
―――――――――――
「これが本名と偽名の往復書簡です」
机の上に2通の手紙を置いた。澤田はその2通を手に取った。
「これは焦って書いたもので、ちゃんとした紙で渡せなくて…あはは、自分が動揺すると漢字の右上がりがひどくなるんですよ」
「芳名帳も?」
芳名帳の名前も右上がりが強かった。
「ええ、焦りました。あなたのお顔が量子さんにそっくりだったものですから」
「ああ、そういうこと」
澤田と牧瀬は二人で笑いあった。
「この手紙は…」
牧瀬が花柄の手紙を指さした。
「はじめて見ました」
澤田は花柄の手紙を手に取り、しげしげと眺めた。すると、澤田はクスッと笑った。
「これは恥ずかしいこと書いてありますね、いやあ若い」
澤田は照れくさそうに頭を撫でた。
「偽名でしたけど…量子さんに呼んでもらうのは本当にうれしかったです」
―――澤田にとって、偽名だって大切な名前だったのだ。
正直、牧瀬は後ろ向きな感情で使っていた名前なのかと思っていた。でも澤田にとって量子にその名前で呼ばれることがうれしかったというのが聞いて、牧瀬自身も自然と笑みがこぼれた。
「その手紙、お渡しします」
牧瀬は花柄の手紙を指さした。
「いいですか?」
「もともと澤田さんに渡すものでしたので」
澤田は花柄の手紙を手に取ったまま、いとおしそうに手紙を見つめた。
「この往復書簡は時間がかかり過ぎましたね。でも届きましたよ…」
それは眼の前の牧瀬に対してではないたった一言だった。
往復書簡はついに澤田眞人に届けられた。
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