はじめての客

 部屋に入ると、40代ぐらいの女性が座っていた。黒い髪を後ろで束ね、白いTシャツにゆったりとしたグレーのスカート、黒色のパンプスを履いている。にっこりとほほ笑んだ。

「ありがとう給仕きゅうじさん」

 その呼び名で呼ぶので、恐らく常連なのだろう。机の上にロンググラスと茶荷という茶葉を載せた小皿を置く。

「それでは失礼します」

 下がろうとすると、

「あ、すみません」

と呼び止められた。

「淹れてくださらない?」

 優しい言葉遣いで浩然に言った。


 このお店はお茶は基本客自身が淹れる。マダム欧陽が言うには、きれいなお茶の所作しょさを見て楽しんでもらうというより、客が堅苦しくなく、好きなようにわいわい楽しんでもらいたいという願いがあるからだ。ラミネートされた紙に各お茶の淹れ方が載っている。もちろん希望されれば給仕がお茶を淹れることもできる。

「すみません、実は本日からこの仕事を始めたので、違う給仕に頼んできますね」

 と足のきびすを返したところ、

「ちょっと待って」

「はい?」

 浩然ハオランが振り返った。

「ならなおさらあなたに淹れてもらいたい」

「あ、でも…」

「だってあなたのはじめての客に成れるんでしょう。失敗してもいいわよ」

 ふふふと愉快そうに笑った。

「それにあなた今、お暇でしょう?」

「え?」

「手のひらのそれ、眠気覚ましのツボね」

と言われ、手のひらを見た。手を握った時に中指と薬指の中間にあたるところを労宮ろうきゅうと言い、眠気覚ましのツボでさっきペンでぐりぐり押していて少し赤くなっている。恥ずかしくなって思わず手を後ろに隠して握った。


「どうぞ座って」

と手のひらを向かいの席に差し出し、座るように促す。

「すみません、淹れ方を見ながらお淹れしてもよろしいでしょうか?」

「もちろんどうぞ」

 ロンググラスを茶盤ちゃばんに置いた。ここの茶盤は電話帳大の大きさと厚みがあり、茶器を置くところがすのこ状になっている。ロンググラスにまず白湯さゆを淹れる。

(こうか…)

 説明書を読みながら、グラスをゆっくりと回す。眼の前の客はにこにこと笑いながら見守ってくれている。グラスを温めるとそのお湯は茶盤にそのまま捨てる。

 その後茶荷からグラスへ茶葉を入れ、グラスの七分目まで白湯を淹れる。


 不慣れな手つきでやっとお茶を淹れる。淹れたてで、ジャスミン茶は下へ沈んでいないので、まだ飲むことはできない。

「お上手でしたよ」

と明らかなお世辞を言ってくれた。

「…ありがとうございます」

 なんと言って良いか分からず、浩然は恐縮した。

「あの給仕さんは“ファン”さんというの?」

 浩然は自分の胸元を見た。名札を付けており、“範”だと日本の漢字読みが“ハン”となるので、ここではカタカナ表記で書いたのだ。

「はい、ファンです」

「失礼ですけど、本当の名前?」

「はい、両親が中国人でして」

「なら中国人なのね」

 中国人と言われると少し違う。確かに国籍は中国なのだが、言葉はしゃべれないし、考え方そのものは日本人とあまり変わりはない。とはいえ、日本人ではない。自分が何人であるか、というのはとても難しい質問だ。ただそんなことは目の前の客は聞いていないので、浩然は適当に笑った。


「本当の名前…ね。給仕さん、そのままお話を聞いてくれない?」

「え?」

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