2人のバイリンガル

「和崎先生、今いい?」

「…よくないけど」

 あからさまに不機嫌そうな和崎が出てきた。いつもワニ口クリップでかっちり髪を留めているが、少し後毛おくれげが出ている。

「あら、ファンさん。バイトおつかれさま」

「紹介していただき、ありがとうございます」

「まあ入って」

 ぶつくさ希に言いながらも研究室に入れてくれた。

「来るなら事前に連絡しなさいって言ったでしょう、たく」

 和崎は普段誰に対しても丁寧な口調だが、希に対しては少しぞんざいだ。希はソファに座った。床の本も増えていて、本が床から生えているようだ。紙の資料も少し増えているから、何か今執筆しているのかもしれない。

「飲み物はコーヒーがいいです〜」

 入り口付近に小さなキッチンがついているのだが、ゴンっという音がした。電気ポットでも置いたのだろう。

「はい」

 ブラックコーヒーを出される。希にはシュガーとフレッシュも差し出される。

「で、なに?」

 コーヒー片手に、和崎がどかっとソファに座る。

「質問なんだけど、片方の言葉は問題なくて、片方の言葉は話せないけど、聞くことができる人ってなんていうんだっけ?」

「パッシブバイリンガルのこと?」

「あ、それそれ!」

「バイリンガル?」

「そう。パッシブバイリンガル、または受容的バイリンガルっていう意味。片方の言語は読み書きや会話ができ、年相応に達成しているが、もう片方が聞くことしかできず、話すことができないタイプね。聴解型バイリンガルとも言うわ」

「へえ…」


 自分のこの状態に名前が付いているなんて気づかなかった。しかもそれが世にいう“バイリンガル”だなんて、夢にも思わなかった。


 バイリンガルっていうのもっとぺらぺらに話せて、なんだかスーパーマンみたいなイメージだったけど、実際はそうではないのか? 


「で、それが範さんなの?」

「そうそう」

「…みたいです」

「へえ、なるほどね」

 和崎は眼を細めて浩然を見た。

「僕はね、日本語も中国語もしゃべることができる。けど、どっちも完ぺきじゃない。ダブルリミテッドバイリンガルって言うんだっけ、先生?」

 

「話していいの?」

 和崎が希に問いかける。

「もちろん。そのために浩然さんをここに連れてきた」

「え…ちょっと待ってください。どちらもよね…?」

 少なくとも浩然は日本語と中国語が聞いて分かる。まだ少ししか話をしていないので、定かではないものの、希の発音はどちらも流暢で、特に変ではないことが浩然にはわかる。

「それが、ダブルリミテッドバイリンガルが見つかりにくいところよね。しゃべれるからと言って、があるというわけではないということ。まずはどうして酒村さんがここに来たか、そこから説明しましょうか。まず酒村さんは今年、18歳よね?」

「え? 18?」

「見えない?」

「どう見ても16ぐらいだと…」

「まあ通信制高校の2年生だけど」

「1年ダブってる?」

「まあいろいろあってね。ダブルリミテッドの話に戻すけど、始めにわかったのが、教科書の意味が全然わからなくて。国語、社会、数学、英語、理科、全部か。先生に僕馬鹿なのかなーって聞いたら、学習障害なんじゃないかって言われて。それでクリニックを紹介されて、今までの話とか知能テストとかの結果を見て、医者の先生が言うには、テストが上手くできなかったんだって。でも、テストが上手くできない理由の一つが“日本語が理解できてないから”っていうことが理由かもしれないって言われた」

 確かにどことなく希の話している言葉に難しい表現が出てこない。しかし、発音自体はまったく問題ないのだ。

「僕の場合、それが日本語だけじゃなくて、中国語も歳相応ではないらしい。そこで日本語については今日本語学校に通ってるんだよ。漢字と文法、ちゅーしょーてきがいねんが理解しにくいから勉強してる」

「学習言語能力の練習ね。勉強する時に必要な言語能力。具体的な例で言うと、漢字力、語彙力、読解力、作文力、そして抽象的概念の理解」

「そうそう」

 それを聞いてもまだ半信半疑だった。

「ま、そんなところ。だから、僕なんて全然うらやましくなんかないんだよ。むしろきちんと言葉を一つでもしゃべれるなんて、そっちのほうがうらやましいや」

とさしてうらやましそうではなさそうに希は言い、コーヒーを飲み干した。


「ごちそーさま! じゃあまた来るね」

立ち上がった。

「次は連絡しなさいよ」

 浩然も慌てて立ち上がり、

「今日はありがとうございました。では失礼します」

と言って、出口へ向かった。希がドアノブに手を掛けた時、小さく「あ」と言って、和崎に振り向いた。


「あの龍井ロンジン

 希の口から唐突に、あの龍井ロンジンの話が出てきた。思わず浩然は眼を丸くした。

 

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