第1章 焼き付ける
試験監督補佐
日曜日。
試験監督は中国語の先生が行うので、席の端に受験者の番号を貼ったり、試験問題を配ったり、受験者が会場を間違わない様に各道順で立っているという仕事だ。昼の弁当がついて日当1万円、現金支給。いいバイトだ。
和崎は言語学の准教授だが、中国語の先生にバイトが足りなくて相談されていたらしい。浩然が暇そうなので、スカウトされたという訳だ。
入学式に来ていたスーツを引っ張り出して、慣れた手つきでネクタイを締めた。高校はブレザーの制服だったからだ。
午前の部、開始5分前。浩然は道順で誘導していた持ち場から離れ、担当する教室へ向かっていた。
その校舎は一階が口型に吹き抜けになっており、口型の真ん中の部分は5段ほど低くなっている。5段下がるとレンガの石畳で、真ん中にマンホールのような筒が縦型に置かれ、深緑色の葉をつけた大木が植えられている。周りにも花壇があるせいか、温室の中のようだった。
「はやくはやく!!!」
振り向くと、スーツを着た小さな男と大学生らしい女の子が一緒に走ってくる。猛スピードで、浩然を抜かした。
5段を駆け上がり、4級の試験会場へ勢いよくドアを開け、女の子を押し込んだ。
そしてスライド式の教室のドアがバタンと閉じた。
ぎりぎりで入場したんだ。
すると上から見下ろす形で、その男が浩然を一瞥した。真顔なのだが、鳶色の瞳に緑色が浮かんだ。
無垢な眼だ。
浩然はなぜかその眼に釘付けになった。吹き抜けから降り注ぐ光が眩しくて前がよく見えない。目を凝らそうとすると、
「あ、時間だ」
とまるでアリスのうさぎのように駆け足で右手の階段へ向かっていった。
あの眼を持つ者の内側なんて、この時全く知らなかったのだ。
―――――――――――
休憩室と名された教室で、昼ご飯を食べるために向かう。ドアをスライドさせると、ドアに背を向けた形で座っていた男がこちらを振り返った。鳶色と緑色の眼。さっきの男だ。
「はい、お弁当」
黒のパンツスーツをすらっと着こなした、女の子が弁当を渡してくれた。髪はゆるふわのウエーブで、低めの位置でポニーテールしている。眼が真ん中に寄っていて、どことなくうさぎのような可愛らしいルックスだ。
「ありがとう」
「背が高いね、何センチ?」
「185センチだよ」
「いいなあ、背が高いの」
「あはは…ありがとう」
全く…モテないんだけどね。
あ、名前、言わなきゃ。そう思うといつも少しだけ躊躇してしまう自分がいる。別にだいたいの場合はこの間のアルバイトのような露骨な反応はしない。けれど、聞いた人の一瞬の「え?」という反応から、何もなかったような反応で持ち直そうとする、一連の動作に眼がいってしまうのだ。もちろん、そういう反応する人は優しい人だと思う。けど、そういう時、“違う”ってことを突き付けられる気がするのだ。
しかし、目の前の彼女の方が先に明るくこう言った。
「わたし、
鳶色の眼の男の周りに浩然と雪梅が座る。
「オーヤン…? もしかして華僑ですか?」
「あれ? あそっか、中国語勉強してるからよく知ってるか」
中国語検定の試験バイトは大学の先生が自分のクラスでバイトを集める場合が多い。だから欧陽は浩然も勉強していると思ったのだろう。そして、中国語勉強しているのなら華僑などの周辺知識も知っているか、という意味か。
「あ、いえ、おれは中国語勉強してなくて…。おれ
「そうなんだ! でも日本語の発音、浩然くんも普通ね? わたしはオールドカマーなんだけど」
「おれのところはニューカマーです」
一般的にオールドカマーというのは戦前に来た韓国人や朝鮮人を言うことが多いが、中国人や台湾人も指す。オールドカマーは何世代にも渡って日本にいるため、日本語が母語である場合が多い。
一方、浩然は2000年代に日本に移住してきたニューカマーで、社会では日本文化、家庭では中国の文化と二つの文化を行ったり来たりしながら生活している。
似ているようで、オールドカマーとニューカマーでは家庭の中の文化はかなり異なるのだ。
「じゃあ両親は中国で生まれた、中国人よね? 浩然くんも中国語しゃべれるの?」
「いやおれは全く」
「そうなんだ。わたしもだよ、勉強してるけど、普通の日本人と変わんなくて。まあそりゃそうだけどね、親も祖父母も日本語が母語なんだからさ」
「でも偉いよ、勉強してるなんて」
「ううん、全然全然」
雪梅のさっぱりと話す姿は好感を持てる。
「あ、こちら
「あ、どうも
ファーストネームで呼ぶと言うことは親しい間柄なのだろうか。
「範浩然です」
希は目を伏せる。シャイなのだろうか。
「希はちょっと人見知りで」
「仲がいいんですね」
「同じバイト先だよ。中国茶カフェのね」
「いいね。おれも好き、中国茶」
「本当に?」
他愛もない話に花が咲く。
するとプラスチックのキーホルダーが落ちた。写真が入ってるようだ。
「だれそれ?」
「うんとね…、わたしの推し」
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