和崎先生

「ほらよ」

「さんきゅ」

 会計し終わったミルクプリンを岡からもらった。

「でもバイト、どうするかなあ」

「いくらでもあるでしょ、世の中人手不足なんだし」

 実際に落ちると、ここまで落ち込むものなのか。ああ、4年後の就活が思いやられる。

 食堂の中は人で溢れかえっている。これだと相席になるかな。


「あれ、和崎センセーじゃん?」

 背筋をピシっと伸ばし、ネイビーの深いノーカラーのジャケットにセットアップでタイトスカートを合わせている。どことなく神か何かに仕えているような、清廉な印象を与える人だ。

「センセ、ご一緒しても?」

 岡が勝手に話しかけていた。

「おいっ、ちょ…」

 お昼ご飯ぐらい一人で済ませたいかもしれないだろ。

「どうぞ」

 和崎は相変わらずの無表情で答える。

「おじゃまします」

 お構いなく岡が座る。つられて浩然も隣に座る。

「さっきの講義に出てました、おれは岡と言います。岡 優馬ゆうま

「ああ、狭川さがわ教授の?」

「え、ご存知でしたか!まだ1年なんでフィールドワークにくっついてるだけですけど」

「おれは…」

「ハン・コウネンさん?」

「ええ、そうですけど」

 ハン・コウネンは範浩然の日本語読みだ。どうやらあんな大人数でも学生の名前ぐらいは和崎は覚えているようだ。

「違いますよ、センセー。こいつは範浩然ファン・ハオランです」

「あら…それはごめんなさい」

 ぺこりと和崎が頭を下げた。

「あ、いいんですよ、大学の登録名はハン・コウネンですし」

「そうだったんだ?」

「そうそう」

 浩然自身ですらどうしてこう読むのか分からない名前を、相手に押し付けたくないし、不便だと思い、そのまま日本語読みを登録していたのだ。ただやっぱり日本語読みだと親しみのない名前なので、友達の自己紹介には中国語読みのファン・ハオランを名乗っていた。


 和崎が黒のバインダーを取り出した。さっきの言語学の出席簿のようで、名前がずらっと印刷されている。浩然の名前のところの余白に“ファン・ハオラン”と書き込んだ。

「次からは間違えないわ」

 真紅のルージュを引いた唇がくっと上がった。

「先生、さすがっす!」

 

 浩然は二人を見つめた。岡は普段社交的ではあるが、ずっとヘラヘラしているように見える。しかしその実、岡は浩然のことで怒ったり、先生に名前を訂正したり、中々骨のある奴なのかもしれない。

 冷たそうに見える和崎は意外にもすぐ謝るし、人の名前もきちんと覚えようとしている。

 

 おれの名前で驚く人もいるけど、おれの名前を大切にしてくれる人もいる。


「あなたたち、バイトしているの?」

「あ、おれは探し中です」

 浩然は努めて平然と答えた。

「おれは引っ越しのバイトですね」

 そう、と言いながら、和崎はちらりと浩然を見たような気がした。

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