第8話 一杯のラーメン

 停電から2日目の夕方。


 往診中、牛舎の天井にぶら下がっている搾乳装置が前触れもなく動き出した。

 カタカタと音を立てるカップが、レールに沿って牛の元へと移動して行く。


「あ、ついた。つきましたよ!」

「おぉ……ようやくかぁ!」

「よかった、本当に……よかった! これでやっと搾乳してやれるぞ!」


 電気が復旧したことを知った私と農家さんは、手を取って喜びを分かち合った。


 予想通り、あちこちの牧場の牛に乳房炎の兆候が出ている。

 しかし、これでとりあえず搾乳を再開できるようになった。搾乳さえできれば乳房炎のリスクも少なくなり、治療の目処が立つだろう。


 ……と思った矢先だった。


 かっぽう着姿のおばあちゃんが、農家さんの家の玄関から出てきて私を呼ぶ。


「篠崎先生〜!」

「あ、おばあちゃん。今電気が戻ったんですよ!」

「電話が来たから知っとるよぉ」

「そうだったんですね!」


 ご近所さんとかから、安否確認の電話が来たのかな。

 田舎特有の暖かい絆を思い出し、私は呑気にそんなことを考えた。


「篠崎先生にだ」

「え?」

「電話。所長さんから電話が来てるんだ」

「えっ? 所長から?」





 呼ばれて戻った診療所では、所長と事務員さんが鳴り止まない電話の対応に追われていた。

 朝とは別の意味で危機迫る診療所。

 電話は全て、牛の不調を訴えるものだった。


 肩に受話器を挟んだ所長が、先に帰ってきていた獣医師にメモを渡した。手のひらを立ててジェスチャーをする所長に、受け取った職員がうなずく。何かを依頼したようだ。

 次に、私へ白羽の矢が立つのも時間の問題だった。

 電気が復旧してからは、情報の統括である所長が指揮を取り、職員総出で電話が来た牧場の対応にあたった。


 仕事を終えた私が診療所に戻ってきたのは、この日も22時。


 へとへとに疲れているのは昨日と同じだが、今日は窓ガラスから明かりが漏れている。

 携帯のライトを灯さなくてもいつもの見慣れた診療所が見える。そのことがとてつもなく嬉しいことに思えて、私は診療所の前で足を止めた。

 そして玄関の前で手を合わせる。


「あぁ……電力会社の人たち、本当にありがとうございます」

「なあに拝んでるの?」


 誰かが後ろから私の頭をポコンと叩く。


「うひゃっ……!」


 振り向くと、今帰ってきたらしい田中がいたずらっぽく笑っていた。


「田中……! もー、何するのさ! びっくりしたなぁ」


 田中が手に新聞を持ってる。

 きっとあれで叩いたんだろう……って……


「新聞⁉︎ 新聞届いたの⁉︎」

「うん。電気が戻って刷れたみたいだよ」

「見せて見せて!」


 私は田中から新聞を受け取り、診療所に突進してテーブルに広げた。

 2日ぶりの新聞だ。

 震源地がどうなっているのか初めて目の当たりにする。


 山の側面がごっそりえぐれた大きなカラー写真。

 見たこともない規模の土砂崩れが起き、茶色い山肌がむき出しになっている。


「う……わぁ……ひどい。こんなことになってたなんて……」

「なんだ、篠崎は知らなかったんだ」

「だって私の車、ナビついてないんだもん」

「え? そうなの? 篠崎は北海道生まれだから、きっと土地勘あるんだね。目印らしい目印がないところが多くて、僕はどれも同じ道に見えちゃうよ」

「えー? 3年も住んで、流石にそれはないでしょ」

「そう……? まいったな、方向音痴がバレちゃった」


 恥ずかしそうに頭をかきながら笑う田中に、私もつられて笑顔になる。

 すると、気持ちが緩んだのか、どっと疲れが込み上げてきた。体が重い。

 多分、地球の重力が倍になった。


「はぁぁ、重力しんどい、疲れたぁ……」

「2日間働き詰めだったもんね」

「田中なんて、宿直明けからずっとじゃない?」

「まあね。でも、そんなお疲れの僕たちに朗報がある」


 ちょっと長めの前髪の隙間から、ニヤリと田中が怪しい笑みを浮かべる。


「朗報?」

「聞きたい?」

「聞きたくない」


 私の返答を聞いて、田中がショックを受けた顔をした。


「うそうそ、なしたの?」


 田中がニッコリ表情を変える。


「篠崎、山本屋好きだったでしょ? とんこつラーメンの」

「え、好き」

「店、まだあいてるらしいよ」

「えぇぇぇっ♪」


 自分でも驚くくらいの大きな萌え声が出た。

 慌てて口に手を当てる。

 所長が驚いた顔で私を見ているが、私も自分が信じられなくて同じ顔をしているだろう。

 いつこんな声が出るようになったんだ。


「ふふふっ、喜ぶと思った。どうせこの後用事もないでしょ? 独り身同士、一緒に食べに行かない?」

「行く行く! めっちゃ行きたい!」


 神様、仏様、山本屋様!

 こんな大変な時にお店を開けてくれくれてるなんて、嬉しくて涙が出てきそうだ。

 2日間頑張ってきてよかった……!


「よぉし!」


 大好きなラーメン屋さんの情報で元気が出た私は、萌え声のことはすっかり頭から消し去って、田中の腕を掴んで強引に引きずった。

 所長が微笑みながら私たちを見送っている。


「急いで行くぞ、田中! 今日はやんちゃして、硬め濃いめ多めで注文するぞ! 私の胃にフルテンをお見舞いしてやる!」

「え、ちょ、どういう意味?」

「なんか言った⁉︎」


 目がラーメンになる程興奮気味の私に、麺食らった、じゃなかった、面食らった田中が肩をすくめた。


「いえ、なんでもありませんよ。お先に失礼します、所長」

「お先に失礼しまぁぁぁっす!」


 仲良く前後に並ぶ2台の車が、明るく灯る街頭を抜けて山本屋の赤い看板を目指した。


 この災害時の一杯のラーメンに、私の心は救われた。

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