第7話 戦い
停電2日目。
私は今日も牛舎で診療をしていた。
が、しかし。
昨日の疲れで頭がぼーっとしてしまい、知らないうちに牛のキックゾーンに入ってしまっていた。
気づいた時にはもう遅い。ただでさえ具合が悪くナーバスになっているので、すぐに人の腰丈ほどある大きな後ろ足が飛んでくる。
「痛ぁぁぁ! ……くない?」
ハッと驚いて目を開けると、牛舎にいたはずなのに自宅の布団の上にいた。
とっさに、蹴られたはずの右腕をさすって怪我の確認をする。
「はぁ、なんだ、夢か」
あまりに心配しすぎていたせいか、悪い夢を見てしまったようだ。
私はドキドキする胸を押さえて、ホッと一息ついた。
しかし、これは警告夢という可能性もある。
牛は恐怖を感じたりすると強烈な回し蹴りを放ち、たまに人間が巻き込まれる事故が起きる。もちろん、600〜700キロある巨体の蹴りの威力は凄まじく、最悪の場合死ぬ。
忙しい時ほど普段は考えられないようなミスをするから、今日は慎重に行動しなきゃ。
そう。
私は占いを信じるタイプの乙女なのだ。
「……それより!」
布団から飛び起きた私は、玄関にあるブレーカーを上げた。
そして、膝立ちでテレビのコンセントを刺して電源ボタンを押す。
「うぉぉ……やっぱりまだダメか」
暗いままの32インチの画面。
電気はまだ復旧していなかった。
つまり、自家発電のない農場の牛たちは、今朝までに3回分以上の搾乳が行われなかったことになる。
「搾乳さえできれば……少しはマシなのに」
がっくりと肩を落とした私は、万が一電気が復旧したときに備え、再びブレーカーを降ろした。
朝礼。
所長が重たい口を開くと、顔を曇らせた職員が一斉にざわめいた。
「えっ……。薬が……もう無い⁉︎」
「薬が無いって……どういうことですか? 薬がなきゃ、私たち戦えないじゃ無いですか!」
私の悲鳴のような発言に、所長が頭を抱えた。
「そんなことは分かっている。だが、電話が使えなくて発注もできないし、交通も遮断していて物資が届かないんだ」
所長の言葉が終わるやいなや、私は勢い任せに薬品棚を開けた。
20本入りの軟膏の箱があと10箱しかない。
点滴パックの残りも、いつもの三分の一程になっている。
「本当だ。絶対……今日も必要になるのに」
むしろ、今日の方が必要になるだろう。
薬がなくなれば、乳房炎が重症化して牛たちが死亡する。
全員の脳裏をよぎる最悪の事態。
これは、700件以上の農家さんの生活源、そして別海町の産業を失うのと同じ。牛も、人も、町も終わりだ。
それにもし、同じことが北海道中で起きているとすれば、日本の生乳の約半分が消えることになる。乳製品を扱う全国のお店にも打撃が避けられない。
全職員ににじり寄る恐怖。
この知らせは、災害に立ち向かおうとする職員の気力を奪った。
「な……なんとかならないんですか……」
「通信手段が回復すればすぐに発注するが……」
「先生!」
診療所に響きわたる男性の大声。
その直後に駆け込んできた人物に、絶望感をはらむ職員の視線が集まった。
「先生、大変です。うちの牛の様子がおかしいんです! 昨日から手で絞ってるけど、搾乳機と違って全然追いつかないし、牛たちも苦しくて鳴き声が激しくなって……でも鳴き声すらあげなくなった牛もいて……どうしたらいいんだろう。朝、牛舎に行ったら一頭倒れて死んでたんです。みんな死んじゃうのかな。そうなったらもう、うちは終わりだ。先生、お願いです! 助けてください!」
男性が深々と頭を下げた。
なんとかしなきゃ。
そう思って私は薬品棚に向けて手を伸ばした。
しかし、同じような農家さんがこれから何軒出るかわからない。まだまだ薬が必要になるはずだ。今まで通り使ってしまっていいのだろうか。
箱を取る手に迷いが出る。
「篠崎」
所長は私の後ろから箱を取って差し出した。
職員の目が私たちに注目する。
「今、俺たちが止まるわけにはいかない」
「所長……」
所長の真剣な目が私を捉える。
「命を救うのが俺たちの仕事だ。行ってこい。後はなんとかする」
私は所長と薬の箱を交互に見た。
そして受け取った。
薬だけじゃなく、所長の意志、職員の意志を。
「任せたぞ!」
「はい! 行ってきます!」
所長が私にかけた一言で、全員の目に再び火が灯っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます