第5話 パニック

「先生、管を抜くって、そしたらどうやって牛乳を出したらいいんだ? ほっといたらみんな乳房炎になっちまうだろ。この数を手で絞るなんて、無理だぞ」


 佐藤さんは困りはてた顔で100頭の牛を指差した。

 確かに、牛は一回搾乳しないだけで乳房炎の危険がグンと上がってしまうし、手で搾乳しきれないのももちろん分かっている。

 しかし……


「実は、この方法では逆効果なんです」

「えぇっ! そうなのかい⁉︎」


 管を入れれば牛乳を外に排出できる。

 しかし、真空状態を作る搾乳機と違って、外部と直通になってしまうのでばい菌が入りやすい。いくら掃除をしていても、牛の足元には少なからず大腸菌がいる。

 大腸菌による乳房炎は進行も早くて致死率が高いので、管の先が床と接触してしまえば管を伝って菌が入り、重篤な乳房炎から敗血症になる可能性がある。

 つまり、牛が死んでしまうのだ。


 私はそのことを、できるだけ柔らかく伝わるよう説明した。

 佐藤さんの表情がみるみる変わっていく。


「なんてこった……!」


 焦って牛の元へ駆け寄る佐藤さんに、牛たちは搾乳してもらえると思ったのか一斉に大きな声で鳴き始めた。

 こんなに必死の鳴き声は、私も初めて聞く。


 牛の悲鳴に、導入管を引き抜く佐藤さんの力無い声が混じる。


「もう……本当にどうしたらいいんだか。乳がはって痛がって鳴くのを、黙って見てるしかねえんだべか。かわいそうに、できることならなんとかしてやりたいんだけどなぁ……」


 牛舎内にずらりと並ぶ、張り詰めた乳房を見て私の胸が痛んだ。

 中には餌をついばんでいる牛がいる。


 餌だけでも食べててくれて良かった。

 食べれるのは元気の印……って、


 餌……


 餌⁉︎


「す、すいません! この餌って、いつものやつですか⁉︎」

「んだ。せめて腹すかせないように、いつも通り餌をやったんだ」

「いつも通りってことは、濃厚飼料ですよね⁉︎」


 濃厚飼料とは、牛が原乳をよく作れるように栄養が配合された餌だ。

 これではさらに乳がはってしまう。

 搾乳できない今は、栄養価の少ない飼料にするべきだ。

 農家さんも同じことに気がついたようで、顔がさらに曇る。


「あぁっ! そうか、馬鹿だ! 落ち着いて考えれば分かるのに、なんで分からなかったんだ。少しでも楽にしてやりたいのに、逆に苦しめるようなことをして……!」


 農家さんもプロだ。

 決して知識がないわけではない。

 非常事態がパニックにさせているのだろう。


 私はショックで真っ青になっている農家さんの顔を覗き込み、肩に手を添えた。


「仕方ありませんよ。私を含め、みんなが初めての体験をしているんですから。正直、私たちも手探りなんです。電気が戻るまで、力を合わせて最善を尽くすしかありません。今からでも一緒にできることをしていきましょう!」

「本当にすいません、先生……よろしくお願いします……! 母ちゃん、母ちゃん、大変だ、今すぐ餌変えるぞ!」


 診察を終えた私は、農家さん自身も使える乳房炎の治療薬、乳頭口から注入する軟膏を数日分渡して診療所に向かった。




 他の牧場はどんな状況なんだろうか。

 距離がある隣の牧場に届くほどの、あの大きな鳴き声を聞き続ければ、なんとかしてあげたくて佐藤さんのように導入管を入れる人がいても不思議はない。


 私は乳房炎になる大量の牛、そして治療が追いつかず死んでいく牛を想像してしまい、嫌な考えを払拭するようにプルプルと頭を振った。


 起きていないことで不安になっても仕方がない。そんな時間もない。

 とにかく、昼の休憩がてら午前中の情報共有をしよう。

 ……もしかしたら電気が戻るかもしれないし。


 診療所に戻った私は、祈る気持ちで問いかけた。


「所長、電気戻りそうですか⁉︎」

「まだダメっぽい。ラジオもカーナビのテレビも、新しい情報は特になさそうだ」

「そうですか……」


 私はがっくりと肩を落とした。


「ところで篠崎、お前、車のガソリン入ってるか?」

「え? 入ってますけど」

「そうか、ならよかった。ガソリンスタンドも長蛇の列で、給油できないらしい」

「げ、そうなんですか? 所長はガソリン入ってるんですか?」

「……メモリ二つだ。給油ランプがつかないことを祈ってる」


 食べ物と飲み物の次はガソリンか。

 最低限の生活すら失われていく感覚で、私と所長の目に不安が宿った。


「社用車のガソリンが残っていることだけは不幸中の幸いだ。午後からも走り回ってもらわないといけないからな」


 そのガソリンだって、いつまで持つかわからない。

 しかし、二人ともあえてそのことには触れずに状況の整理を始めた。


 所長に集まった他の獣医師の情報によると、やはり発電機のない牧場がパニックになっていることがわかった。

 牛のケアだけじゃダメだ。

 農家さんに正しい対応方法を伝えて、少しでも不安を和らげてもらわなくては。

 となれば、電話が使えない今、一軒でも多く往診するしかない。


「導入管の件、これから戻ってくるやつらにも注意するよう伝えておこう」

「よろしくお願いします。じゃあ、早速往診に行ってきます!」

「あ、おい。飯は?」

「車で食べます!」

「あんまり無理するなよ。……全く、本当にお前らは良く似てるな」


 勢いよく診療所を出ようとする私に所長が苦笑した。


「お前らって、誰ですか?」

「田中だ。あいつも数十分だけ仮眠をとって走り回ってる。目標を決めたら脇目も振らずに突っ走るところがそっくりだ」

「えっ、そうですか⁉︎」


 田中という名前に、今朝の「牛並み」がフラッシュバックした。

 こんな時に思い出させてくれるな⭐︎


「じゃ、行ってきます!」


 笑顔の所長に見送られて診療所を出ると、さっきとは比べ物にならないほど気持ちが軽くなっていた。

 仲間も頑張っているということが、とても嬉しかった。

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