第3話 予感
やはり、何年働いていても子牛が生まれる瞬間は嬉しいものだ。
無事に出産を終えた私は、鼻歌を歌いながら診療所へと車を走らせる。
診療所に戻ると同僚の姿はなく、難しい顔で腕を組んでいる所長だけが残っていた。
朝のミーティングが終わり、獣医師はみんな担当農家の往診を始めているのだろう。
「所長、おはようございます。ただいま戻りました」
「おー、お疲れぇ、篠崎。難産だったんだって?」
顔をあげた所長が、低い声で私を迎えてくれた。
「そう聞いて行ったんですけど、今回は産道に腕を突っ込んだら意外とすんなり生まれてくれたんで、大丈夫でした。今日は運が良さそうです!」
「そうみたいだな、顔にもウンがついてる」
「えっ! どこですか!?」
「おでこのところ」
「ぎゃ! 本当だ!」
私は手洗い場の鏡を見て、おでこに飛んだフンを手で払った。
生き物を相手にしているので、こう言うことは日常茶飯事だ。だから、服が汚れてもいいように、診察中は防水の作業着を着て長靴をはいている。
私は慣れた手つきで短めの前髪を整えると、手を洗いながら所長に話しかけた。
「停電、そろそろ復旧しそうですかね?」
「まだダメだ。どうやらでかい送電線がイッたらしくて、全道的に停電が長期化しそうなんだと。参ったな」
「全道? 長期化? ……それって、午後になるかもしれない……ってことですか?」
予想外の返答に驚き、私は思わず手を止めて振り向いた。
「午後かもしれないし、明日かもしれない。とにかく見通しがつかないらしい」
「んマジっすか!」
電気がないなんてことは今まで一度も経験がなかったので、すぐに復旧すると思っていた。
しかし、思っていたよりも事態は深刻らしい。
「……あっ!」
口に手を当てて固まる私に、所長がハッと目を見開いた。
「どうした⁉︎」
「冷凍庫に、ハーゲンターツが3個も入ってるんだった!」
めずらしく奮発して高いアイスを買ったのに!
もったいぶらずに食べておくんだったぁぁ!
「……なんだ、アイスの話か。驚かせるな。アイスはダメだろう。うちの診療所も、ワクチンとか要冷蔵のものは全部廃棄だ」
「げ、そうなんですか⁉︎」
診療所にある冷蔵庫に目をやり、私はあることに思い当たる。
「……ワクチンもだけど、農家さんのところのバルククーラーが止まったままだから、今ある牛乳も全部廃棄になりませんか?」
「そうだ」
安全な乳製品を提供するために、
冷却できなかったものは全て廃棄するしかない。
一頭の牛から取れる牛乳は大体30リットル、多くて50リットル以上になる牛もいる。
つまり、牧場の規模にもよるが、100頭いれば単純に一日3トン。
中には、300頭の牛を飼育している牧場もある。
いずれにしても、膨大な量を廃棄することになるだろう。
しかし、問題はそれだけではない。
————搾乳も給餌も、なんもかんもストップしてるんだ。
困り顔の横山さんの言葉が頭をよぎった。
それと同時に、悪い予感が足元からゾワリと這い上がってくる。
「まだまだ停電が続くかもしれないんですね」
「そうだ」
「じゃあ、しばらく搾乳もできませんね」
「そうだ」
「そんな……! やばいじゃないですか。一体どうしたら……」
私は小さく首を振った。
牛は一回搾乳ができないだけで乳がパンパンにはり、「乳房炎」という炎症を起こすことがある。そうなればもちろん牛乳の出荷はできないし、重症化したら敗血症で死んでしまう可能性だってある。
別海町の牛は約11万頭。
このままでは、私たちは治療に追われることになるだろう。
もし対応しきれなかったら最悪の事態も……いや、それだけはなんとしてでも防がなくてはならない。
深刻な顔の所長が、机の上でしらが混じりの頭を抱えた。
「とりあえず、いつもより多めに薬を持って往診に回るしかないな。電話も使えないし、いつ情報が来てもいいように俺はここで常駐する。篠崎もまずは往診に回ってくれ。手間だが、なにかあったら一旦診療所に戻ってきてくれ」
私を見る所長の目が、覚悟を決めたことを語っていた。
「……わかりました」
ようやく事態を理解した私は、ごくりと唾を飲み込んだ。
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