第2話 停電

「うわっ。断水じゃなくって、停電してたから水が出なかったんだ」


 そりゃお知らせもないはずだ。

 ようやく事態を理解した私は診療所に到着すると、ぐるぐる鳴るお腹を抱え、一目散にトイレへ駆け込んだ。





「セーフ!」

「おはよう」


 ほっとした顔でトイレから出ると、背後から誰かが声をかけてきた。

 誰もいないと思っていたので心臓が飛び出しそうになる。


「んぎゃぁっ! た、田中! いたの……?」


 飛び上がって振り返る私を見て同僚が苦笑する。


「今日は僕が当直だよ。それより、大丈夫だった?」

「えっ⁉︎」


 田中は同じ歳の獣医師。

 大学の時からの付き合いで、卒業してからしばらく離れて別々だったが、3年前にここへ転勤してきた。前髪がちょっと長くてチャラいところが気になるが、獣医の腕は確かだ。


 その田中に、朝から便意をもよおしてトイレに駆け込む姿を見られてしまったようだ。

 付き合いが長い友達とはいえ、これは恥ずかしい。

 私は笑顔を引きつらせ、声を裏返しながら返事をした。


「う……うん。なんとかギリギリ」

「そう、なら良かった。かなり大きかったみたいだから」

「ぐえっ⁉︎ な……なんで分かったの……⁉︎」


 音か? まさか、音が漏れてたというのか⁉︎

 これは恥ずかしくて死ねる。

 もう今日はこのまま早退したい!

 早 退 し た い ⭐︎


 言葉を失う私に、腕を組んだ田中がため息をついた。


「ん? 篠崎は気づかなかった? 結構長かったけど」

「ななななな、長い⁉︎」


 私的には結構瞬殺だったと思った……って、なんてことを言わせるつもりだ。嫁入り前の乙女に向かって。

 もういいから、せめてこれ以上会話を広げてくれるな……!

 

 私は恥ずかしさで涙目になりながら、口をぱくぱくさせて言葉を探す。

 すると、見かねた田中が私から目をそらしてうつむいた。かける言葉が見つからないのか携帯をいじり始める。

 気まずい。


 こんなことならブツを残してでも家でしてくれば良かった……。何が「ガッテン承知ぃぃ」だ。時間を戻せるならあの時の自分をぶっ飛ばしたい。

 でも、今更後悔しても遅い。

 ええい、こうなったら逆に笑い話にしてやる!


「聞いて驚くなよ、私の腸は牛並みに快調で……」

「ほら」

「……え? なにこれ?」


 開き直った私が人差し指を立てた時、田中が携帯の画面を私に向けた。


「地図?」


 黒い画面に浮かぶ日本地図。

 北海道だけが鮮やかな赤やオレンジ色で染まっている。


「防災アプリ。知らない? 日本は地震が多いから、篠崎も入れておいた方がいいよ」

「防災アプリ?」

「うん。今朝、3時頃に胆振いぶりで震度7の地震があったんだよ」

「えっ! 震度7? 震度7って震度7⁉︎」

「そう。驚いて思わずスクショしたんだ。別海は震度3。まあまあ揺れたんだけど、気が付かないなんてきっと疲れてたんだね」

「……疲れたというか、刺身食べながらビール飲んで気持ちよく寝てたわ。ちなみに3本」

「ははっ、篠崎らしい。よく寝れたなら良かったよ」


 そう言って、田中は携帯を診察衣のポケットにしまい、大きなあくびをした。


「ふあぁ……。なんだ、僕が心配で早く来てくれたんじゃないのか」

「え? なんか言った?」

「んーん、こっちの話。とにかく、地震の後からずっと停電してるんだ。流石にそろそろ復旧するとは思うけど」


 電気の通っていない職員用冷蔵庫の扉に手をかけ、田中がぽりぽり頭をかいた。

 3時頃から停電してると言うことは、3時間くらい停電してると言うことか。

 ずいぶん長いな。


「いつまで停電してるんだろう。携帯で調べられないのかな」

「基地局がダウンしたみたいで、もう使えない」


 私はカバンを漁り、携帯を取り出してみた。

 アンテナのマークが消えている。


「うわ、本当だ! そっか、停電になったら携帯も使えなくなんだ……」

「こんなことは初めてだよね」

「うん……。そうだね。……そっか、なぁんだ」


 どうやら、田中が言っていたのは地震の話だったようだ。

 私のトイレ事情ではなかった。

 良かった……いや、状況は良くないんだが、とりあえず乙女のプライドは保たれたのでひとまず良かったとしよう。


 私の思い込みで会話がすれ違っていたことがおかしくて、不謹慎ながらくすくす笑いが込み上げてきた。

 そんな私を見て、事情のわからない田中が不思議そうな顔で缶コーヒーを差し出してきた。

 私はそれを受け取り、呑気にひとくち口に含む。


「ところで、牛並みってなに?」

「ブフゥッ!」

「ちょっと、大丈夫⁉︎」


 油断してて不意打ちを喰らてしまった。

 我ながら、さすがに「牛並み」は例えが悪かったと思う。


 咳き込む私の背中を田中が撫でた時、誰かが診療所の扉を叩いた。

 力強いノック音に二人が振り向く。


「誰だろう、こんな朝に」


 田中が私にティッシュを差し出してから、扉を開けに行く。

 そこにいたのは、私の担当農家さんの横山さんだった。

 慌てているらしく、帽子を握りしめてオロオロしている。


「先生! 大変だ! ちょっとうちに来てくれ!」

「おはようございます。落ち着いてください。どうしたんですか?」

「横山さんじゃないですか。ゲホッ。なにがあったんですか?」


 私はティッシュで口をぬぐい、田中の肩越しに横山さんをのぞき込む。

 横山さんが顔馴染みの私に気づき、安心したように表情を緩めた。


「あっ、篠崎先生! どうしたもこうしたもねぇ。産気づいた牛がいるんだけど、難産で全然産まれねんだ。電気止まって電話も使えないから直接来たべさ」

「そうだったんですね……!」

「んだぁ。電話だけじゃねぇ。機械もなんも全部止まってるから、搾乳も給餌も、なんもかんもストップしてるんだ。ったく。早く復旧してくれないと仕事にならなくて困るべやなぁ?」


 農家の朝は早く、朝の4時ごろから搾乳などの作業を開始する農家さんも多い。なので、停電の影響でもう2時間ほど作業が遅れていることになる。

 早く電気が戻ってくれないと、予定が押して大忙しになりそうだ。


「とにかく来てくれや、先生!」

「あ、はい! すぐに!」

「気をつけてね、篠崎」

「じゃ、行ってきます! 田中もお疲れ様。気をつけて帰ってね!」


 当直明けの田中に手を振り、私は横山さんの車を追って社用車を走らせた。

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