第46話 満開の桜の中
「忘れ物ない? 荷物、ちゃんと全部詰めた?」
僕は翔に玄関から叫んだ。翔は慌ただしく部屋を出たり入ったりしながら、
「ちょっと待って! 着替えを忘れてた!」
と僕に叫び返した。
「早くしないと、もう電車出ちゃうよ!」
「ああ、もうわかってるって! 急かすなよ」
僕は時計を見た。翔が指定席を取っている東京へ向かう特急列車の出発時刻まであと三十分だ。
「ごめんなさいね。翔ったら、いつまでもこんな感じで」
翔のお母さんが申し訳なさそうに僕に言った。
「いえ。大丈夫です。いつものことなんで」
僕はそう言って、翔のお母さんに笑いかけた。
「お待たせ! じゃあ、行こう」
翔がパンパンのリュックとスーツケースを抱えて部屋から出て来た。
「急ぐよ」
僕はそう言うと、先に翔の家を出た。
「いってきまーす」
翔はお母さんにそう叫ぶと、家を僕に続いて飛び出した。
「リュックなら僕が持つから」
僕は翔からリュックを奪うと、春の暖かい陽射しに汗ばみながら、駅に向かって走り出した。
「一郎、ごめんな。いろいろ迷惑ばかりかけて」
そう翔は僕に謝った。
「いいって、いいって。これからしばらく会えなくなるんだから、最後くらいちょっとでも長く一緒にいたいもん」
そう答えながらも、僕は時計とにらめっこをしながら、必死で翔と一緒に駅へ向かって走った。
僕らはなんとか電車の出発十分前に駅に到着した。
「一郎、じゃあな。元気でいろよ。食べ過ぎて腹壊したりするなよ」
翔は僕を抱きしめた。
「変なこと言わないでよ。僕、食べ過ぎてお腹壊したことなんかないもん。翔こそ、風邪引いたりしないようにね。この一年、大切なんだから」
「一郎、ありがとう」
僕らはしばらく抱き合うと、翔はポケットから切符を取り出した。
「じゃあ、俺、行くね」
僕は思わず翔に叫んだ。
「絶対、東京着いたら僕に電話してね。毎日、寝る前に五分でいいから、声聞かせてよ。約束だよ!」
「うん。わかってるって。昨日から何度も約束してるだろ?」
「それと、最後に・・・」
僕はそのまま翔の唇にそっとキスをした。翔はポッと顔を赤らめた。
「一郎、やめろよ。そんなことされたら、行きたくなくなっちゃうだろ」
「なに言ってんの。翔が行くって決めたんでしょ。僕と将来結婚するために頑張るって約束したんだから、ちゃんと勉強して来年こそは僕と一緒に大学に通えるようにして来るんだよ」
「なんだよ、急に殊勝なこと言いやがってさ」
「ほら、もう電車が出るまで五分だって。早くホーム行かないと」
「ああ、そうだな。じゃあ、一郎。またな」
「うん。翔。またね」
僕は涙が出そうになるのを必死で堪えながら、笑顔で翔を見送った。翔は何度も何度も僕の方を振り返りながら手を振った。僕も何度も何度も翔に向かって手を振り返した。ホームに電車の到着する旨を伝えるアナウンスが流れている。翔はそのままホームへと続く階段に消えていった。
その瞬間、僕はこらえていた涙がどっと溢れだした。その場にしゃがみ込んで、僕は泣いた。泣いて泣いて泣き続けた。しかし、ひとしきり泣き終えると、なんだかすっきりした気分になっていた。さっきまで感じていた狂おしいまでの淋しさが少しだけ涙で流れていったのだろうか。
僕は少しばかりほのかに残った淋しさを胸の中に仕舞い込み、先ほどまで翔と一緒に走って来た駅までの道を、今度は一人で歩き出した。
見ると、駅前の桜並木がすっかり満開になっていた。駅まで来たときは、あまりに必死で走っていて気が付かなかった。
「きれいだな」
思わず僕は立ち止まり、ひとり言をつぶやいた。
これから僕は一人だ。だけど、一人ではない。翔とはいつも心は一緒だ。湊がいる。嶺くんがいる。料理部のみんなもいてくれる。僕は、もう自分の居場所を見失うことはない。だから、もう大丈夫。
僕は前を向き、桜が満開の中を歩き出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます