第13話 明日には明日の日が昇る

 僕は家に帰るなり自分の部屋に閉じこもり、布団にくるまった。中学時代の悪夢が頭を過る。これで、僕たちの噂は全校生徒の知るところとなり、僕はあのいじめられっ子だった中学時代に逆戻りするのだろうか。


 それだけではない。これで水沢先輩から僕らの噂が広まれば、翔も道連れだ。僕のせいで、僕のちんけな嫉妬のせいで、翔が一年間かけて築き上げてきた全てを、寄りにも寄って、翔のことを一番愛していると自負していたはずの僕が壊そうとしているのだ。


 それと同時に僕は切なくて仕方がなかった。なんで、僕はただ翔が好きなだけなのに、それだけの理由でこれだけ苦しまなければならないのだろう? 翔の僕を想ってくれる気持ちは本物だ。この嘘偽りのない翔との関係が、なぜやましいことになるのだろう? 母さんを失い、失意のどん底にいた僕を救ってくれた翔。その翔との絆をなぜこんなに腫物に触るように扱わなければならないのだろう? 僕はやるせなくて仕方がなかった。


 翌日、僕は学校に行くことが怖くて仕方がなかった。自分のクラスに入った瞬間、部活に行った瞬間、いったいどんな反応を皆は僕に示すのだろう? 気持ち悪い変態だと罵られ、水をかけられ、教科書に落書きをされるのだろうか?


 もう、行きたくない。


 だけど、どんなに行きたくなくても、学校に行く朝は来る。僕は重い足を引きずりながら家を出た。


 僕は人目を憚るように目を伏せ、電車の隅で縮こまっていた。その時、僕は不意に僕の手を誰かが握るのを感じた。驚いて顔を上げると、そこには翔が、他の乗客に見えないように気を付けながら、そっと僕の手を握っていた。


「翔!」


思わず小さく声を上げた僕に、翔はシーッと黙らせながら、僕に小声で言った。


「俺は、どんなことがあってもお前の味方だ。だから、お前もどんなことがあっても俺の味方でいてくれ」


 僕は思わず翔に抱き着きたくなるのを堪えながら、何度も頷いて翔の手を強く握り返した。


 そうだ。あの誰も味方のいなかった中学の時と今の僕は違う。こんなに強い僕の味方が僕のすぐそばにいたじゃないか。なぜ、それを僕は忘れていたんだろう。もし、クラスの全員に、部活の全員に、いや、全校生徒を敵に回しても翔だけは僕のそばにいてくれるはずだ。


 僕だって、どんなにつらい状況になろうが翔のそばに立てる男でありたい。もし、僕のせいで翔の大切なものが壊れるとすれば、僕は絶対にそれを取り返しにいく。


 僕はもっと強くならなくちゃ。翔のために。


 僕は顔を上げた。朝日が眩しく僕の顔を照らす。


 きっと、大丈夫。僕は自分に言い聞かせた


 僕らは電車を降りると、固く握っていたお互いの手を離し、互いに目を見て頷くと、別々に歩き出した。どんなことがこれからあろうとも、僕らの絆は絶対に壊れない。だから、絶対大丈夫。


 僕はドキドキしながら教室の前に立って深呼吸をする。そして、意を決して中に入っていった。


「一郎、おはよう」


 そう声をかけられて振り向くと、信一がいつものように僕に手を振っている。あれ? 意外と普通だ。僕は拍子抜けをして、小さく手を振り返した。


「どうしたんだ? 今日のお前、なんか変だぞ。怖そうな顔しちゃって」


 ああ、よかった。まだ何も聞いていないみたいだ。


 僕はほっと胸を撫で下ろした。


「ううん。なんでもない。ちょっと寝坊しちゃってさ。あはは」


 他の友達もいつも通りだ。黒板に僕の悪口が大量に書かれているわけでも、僕の机の上が荒らされているわけでもない。


 いや。でも、まだ朝だ。これから噂が広がるかもしれない。


 しかし、昼休みになっても、午後になっても、僕の日常は何も変わることなく過ぎて行った。


 水沢先輩は僕らのことを本当に見たのだろうか。水沢先輩の前で、僕と翔は大声で言い合っていたのだから、僕らが付き合っている事実を彼女が聞いていないはずはないんだけど。ここまで何もないと、昨日見たのは幻覚だったのではないかとさえ思えて来る。


 放課後、僕は釈然としない気持ちで部室に向かった。部室のドアを開けようと手をかけたとき、「ちょっと」と呼ぶ声に振り返ると、柱の陰から水沢先輩が僕を手招きしている。僕の胸がドキッと波打つ。


 だけど、ここで逃げるわけにはいかない。僕は意を決して水沢先輩に向き合った。


 だが、僕の想像とは裏腹に、いきなり水沢先輩が僕に向かって頭を下げて来た。


「昨日はごめんなさい! わたし、何も知らずに因幡くんの前で赤阪くんと付き合いたい、だなんて。無神経だった」


 僕は拍子抜けした。この人は何を言っているんだろう。僕は何で謝られているのか理解できなかった。ポカンとする僕に、水沢先輩は続けた。


「それに、因幡くんと赤阪くんが話している所、こっそり見てしまって、盗み聞きみたいな真似してしまったのもごめんなさい。わたし、どうしてもあの後、因幡くんのことが気になって。だから、後をつけていたの」


 やっぱり、僕らの会話は聞かれていたんだ。


 でも、なぜ先輩は僕に謝るのだろう? なぜ僕のことを気持ち悪い変態だと嘲笑しないのだろうか?


「あ、あの。僕・・・」


「もう私の前では赤阪君との関係、隠さなくていいから」


という水沢先輩に、僕は心底驚いた。


「先輩、それ、本当ですか? 僕、男のくせに男と付き合っているんですよ? 気持ち悪くないんですか?」


 そういう僕に、水沢先輩は強く否定した。


「わたしはそんなこと思わない。それに、昨日、宮上くんを止めなかったことも謝らないといけないね。あんな誰かを傷つけるようなこと言ったら本当はいけないのに」


 僕はその言葉に電撃が走る気がした。そんな風に思ってくれる人がこの世の中にいたのか。こんな同性愛者の僕を笑わないでくれる、そんな人がいるのか。僕にはにわかに信じ難かった。


「もし、わたしでよかったらなんでも相談乗るから」


 そう言われて僕は思わず、「ありがとうございます!」と叫んで頭を下げた。


 僕は、単純にうれしかった。こんな風に僕らを受け入れてくれる人がいる。


「昨日は失礼なこと言ってごめんなさい。」


 僕は昨日の非礼を詫びた。どんなに嫉妬心に駆られ、腹を立てていたとしても、あんなセリフを吐いて先輩を傷つけたことは確かなのだ。しかし、そんな僕に先輩は笑いかけた。


「もう、そんなこと気にしてないよ。誰だって自分の恋人に他人が告白したい、なんて言ったら怒るって」


 僕には、こうして初めて僕らの関係を隠さずに話せる場所を見つけた。そして、居場所も。僕はここにいていいんだ。心からそう思えた。


 僕と水沢先輩はこれを機に急速に仲良くなった。昨日のことが嘘のように談笑する僕たちに、新藤部長も宮上も驚いていた。だけど、その理由は、僕と水島先輩だけの秘密だ。


 もっとも、僕が異性との話になると、どうも様子がおかしくなることに、新藤部長と宮上が疑いの目を僕に向けていたことは確かだ。だが、その「疑い」は、僕がただ「女性経験がない」ことが原因だということに帰着した。まぁ、僕がゲイなことも、翔と付き合っていることもバレずに済んだんだから、よしとするか。

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