第7話 事実は小説より奇なり

 僕らはひとしきり泣いた後、翔が僕をじっと見つめてきた。さすがにこんなに見つめられると居心地が悪い。すると、


「実は俺、お前のこと知ってる気がするんだ。お前、小学生のときに俺と同じ水泳教室に通っていたよな?」


と翔が僕に聞いた。僕は驚いた。今までずっと、僕が一方的に翔のこと意識していたのだと思っていた。だが実は、翔も僕のことを認識していたのだ。


 何て答えたらいいのかわからず、僕がまごまごしていると、翔は気まずそうに続けた。


「いや、変なこと言ってごめん。俺の気のせいかもしれない。俺が通っていた水泳教室にいた因幡一郎ってやつが、俺のこといつも見ていたんだよ。俺もだんだんあいつのことが気になっていってさ。そいつにお前、すごく似ていたから。人違いだったらごめんな」


 翔は、僕が彼をずっと見ていたことに気付いていたのだ。さらに、僕の名前まで知っていた。僕らの水泳教室では、いつもレッスン前に全員の名前を点呼していたから、翔が僕の名前を知っていることに不思議はない。僕だってそのおかげで翔の名前を知ったんだから。でも、スクールには百人近くの生徒がいたはずだ。全員の名前を覚えることなど無理だろう。その中で、翔は僕の名前を特別に覚えていたのだ。


 僕は恥ずかしくて顔が真っ赤になった。


「ごめんなさい! 変な意味はなかったんです。ただ、泳ぐ姿がかっこよかったから・・・」


 僕は、あの恋した廉也と同じ感覚を、小学生のとき、既に翔に持っていた。僕は翔のことも幼いながらに「好き」だったのだ。しかし、「好きだった」なんて口が裂けても言えなかった。男のくせに男が好き。そんな異常な人間だと翔に知られたくなかった僕は、事の核心を隠した。


 「やっぱりそうだったんだな! 一郎、久しぶり!」


そう言って僕に握手を求める翔は、どことなくうれしそうだった。


 いきなり翔に名前で呼ばれた僕は、胸が高鳴るのを感じた。


「お久しぶりです」


 僕ははにかみながら答えた。僕は目の前で起こっていることが信じられなかった。あの憧れていた、恐らく僕が初めて恋をした相手が僕の目の前にいる。そして、僕の名前を呼んでくれている。奇跡のような気がした。


「お前、俺の名前、覚えてるか? 俺、赤阪翔。よろしくな」


 翔が僕に自己紹介する。


 もちろん覚えているよ。


 でもこのとき、「覚えています」とは言えなかった。僕は「よろしくお願いします」と握手を返すのが精いっぱいだった。


 僕と翔の心の距離は急速に接近した。翔は僕に言った。


「もし、学校が辛かったら俺のところにいつでも来い。他のどんなやつがお前のことをいじめたとしても、俺はお前の味方になるから」


 そんな言葉をさらにかけてくれた翔に、僕はまた泣いた。こんな出会いは生まれて初めてだった。今日という日はどれだけ僕は泣いたのだろう? 僕の中にはどれだけの涙が溜まっていたのだろうか?


 でも、最初の涙と今の涙では意味が違う。僕はひたすらうれしかった。うれしかったからこそ、涙が止まらないのだ。


 僕は翔と出会い、初めて、隣で心から泣ける相手に出会った。翔は子どものようにに泣いてばかりの僕をずっと優しく包み込んでくれた。僕は、その温かな翔の胸の中で心行くまで泣くことができたのだ。


 僕はずっと泣かないことが強いことだと思っていた。だから、ずっと涙を堪え、耐えて来た。でも今、こうやって一緒に泣いてくれる相手が見つかった時、僕はもっともっと強く生きていける気がした。






 それからというもの、僕は翔の家に毎日のように遊びに行くようになった。僕にとって、人生で初めての「友達」ができたといってもいい。


 また、僕は徐々に翔の境遇も知っていった。小学生のころ、あんなに水泳のできた翔は、今は泳ぐことをやめてしまったのだという。中学に入学し、水泳部に入部したものの、スランプに陥り、自暴自棄になっていったのだと翔は僕に語ってくれた。


 さらに、中学では小学生の頃から一転、周囲に溶け込むことができず、何もかもうまくいかない日々を過ごしていたそうだ。学校が終わると、部活に行くでもなく、友達と遊ぶでもなく、家に帰り、マンションの屋上でひたすら空を眺めて過ごす日々を過ごしていた。


 そんなある日、僕がいきなり彼の目の前に現れ、飛び降りようとしたというのだ。


 あの雲の上の存在のようだった翔も、悩み、苦しんで生きて来たのだ。つらかったのは僕だけじゃないんだ。僕は翔に親近感を覚えるようになっていた。

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