第6話 微かな希望

 屋上から飛び降りようとした瞬間、急に僕は強い力で逆の方向へ引っ張られ、屋上のコンクリートの上に倒れ込んだ。一瞬、僕は何が起こったのかわからなかった。顔を上げると、そこには僕と同年代くらいの少年が一緒に倒れていた。僕はその少年の顔を見て、あっと声を上げた。あの小学校のころ、水泳教室で一緒だった翔が僕と一緒に倒れ込んでいたのだ。


 翔は既に中学校三年生になっていたのに、あの水泳教室に通っていた小学生頃の面影はそのままだった。翔は立ち上がると、僕にそっと手を貸した。


「あ、あの・・・」


僕がどぎまぎしていると、翔は僕の手を引いて立たせた。そして、僕の頬を彼の平手が見舞った。


「お前、何してるんだよ! 危ないだろ!」


翔は僕を怒鳴りつけた。


 しかし、僕はこの状況が呑み込めず、翔に叱られてもぼうっと立ち尽くしていた。


「とりあえず、こっちに来いよ」


翔はそう言うなり、僕の手を引いて、マンションの階段を降りていく。僕は抵抗するでもなく、ただ翔について行った。


「入れよ」


翔はマンションの一室のドアを開けると、僕を中に招き入れた。何と、このマンションの部屋は、翔の家だったのだ。


 僕は、ずっと小学生の頃に憧れていた翔に再会しただけでなく、その翔の家に今自分がいることが信じられなかった。僕は翔に案内されるまま、食卓に座った。


 翔は僕に温かいお茶を淹れてくれた。そのお茶を一口、口に含んだ瞬間、その温もりが身体全体を駆け巡る気がした。それと同時に、僕の中で凍り付いていたあらゆる感情が溶け出した。


 気付くと、僕はポロポロ涙をこぼしていた。そんな僕の背中に、翔は優しく手を当ててくれた。僕は堰を切ったように泣き出した。涙と鼻水で顔をぐしょぐしょにしながら、激しく嗚咽し、幼い子どものように泣きじゃくった。僕が大声で泣きじゃくっている間、翔はずっと僕を抱きしめてくれていた。僕は初めて、誰かの温もりに触れた気がしていた。今までずっと我慢していた涙。どんなにいじめられても愛想笑いを浮かべ、家に帰れば「大丈夫だよ」と母さんに笑って見せた。僕はこれまでどんな状況にいても涙を一滴もこぼしたことはなかった。どんなに泣きたくても、笑っていた。でも、もういいんだ。笑わなくていい。ここでは思いっきり泣ける。僕は泣き続けた。


 どれだけ泣いただろうか、涙がやっと止まった時、すでに辺りは暗くなっていた。僕はふと我に返ると、急に恥ずかしくなった。面識もない翔の前で、なんて僕は恥ずかしいことをしているんだろう。飛び降りようなんて馬鹿な気を起こして、今は翔の目の前で顔をくしゃくしゃにして小さな子どものように泣きじゃくっているのだ。


「迷惑をかけてしまって本当にごめんなさい! 僕、もう遅いんで帰ります」


と僕は慌てて、頭を下げ、そそくさと帰ろうとした。そんな僕を翔は引き留めた。


「ちょっと待てよ! 死のうとしていたやつをこのまま家に帰すなんてできるわけないだろう。警察呼ぶから、ここで待ってろ」


け、警察!? 僕はギョッとした。そんな大事にしたくはない。父さんにも僕が馬鹿なことをしようとしたことがバレてしまう。きっと、その理由までが。それだけは阻止しなければならなかった。


「本当に大丈夫ですから!」


と僕は、慌てて翔を引き止めた。だが、翔は僕を信用してはいないようだった。

そりゃそうだ。マンションの屋上から飛び降りようとするやつが言う「大丈夫」なんて誰が信用できるんだ。でも、ここで警察なんか呼ばれるわけにはいかないので、僕も必死だ。


「お願いします! 警察に通報するのだけはやめてください!」


僕は翔にすがって懇願した。


 あまりにも僕が必死に懇願するので、翔も呆れたのだろう。彼は大きなため息をついた。


「じゃあ、俺に話せることでいいから、何があったのか話してくれないか?」


僕は全てをここで打ち明けてしまうことには、さすがに抵抗があった。それでも助けてもらったくせに、ここで何も話さずに「大丈夫です」とだけ繰り返すわけにもいかない気がした。


 僕は、学校でいじめられていたこと。引きこもり、それが原因で母さんが病死してしまったこと。母さんの死に責任を感じていることを話した。さすがに、僕がクラスメートの男子を好きになったことがいじめの原因であったのだと打ち明けることはできなかったが。


 僕はそんな自分の境遇を話すうちに再び涙が溢れて来た。僕が泣きながら話していると、翔も一緒に泣いていた。僕はびっくりした。僕のことで泣いてくれる人なんて、今まで誰もいなかった。友達も教師も誰も僕の味方にはなってくれなかった。家族にも僕は泣いている姿を見せたくなくて、僕はずっと部屋に引きこもって感情を押し殺していた。


 翔は僕をそっと抱き寄せた。


「そうか。いろいろあったんだな。つらかったな」


僕はその翔の言葉を聞いて再び激しくむせび泣いた。いじめに遭い、母さんを亡くしてからずっと心に蓋をし、涙を流すこともなかった僕は、泣きながら自分の失っていた感情が再び戻って来るような感覚を覚えた。

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