第5話 絶望

 誰にも相談することもできず、たった一人で自分の闇を抱え込み、自分の殻に閉じこもる。そんな日々が半年も経とうとしていたとき、母さんが次第に体調を崩していった。寝込みがちになり、咳が止まらない。食欲も落ち、どんどん痩せていく。しかし、僕は自分のことに必死で、その母さんの体調の変化にも気を払うこともできなかった。


 そんな中、とうとう母さんは倒れ、病院へ運ばれた。検査の結果、発覚した病気は「がん」だった。「ステージ4」。「余命半年」。そんな希望の全くない状態を医師から告げられた。


 僕は即座に自分のせいだと思った。僕がこんなに落ちこぼれ、引きこもり、母さんに心配をかけ続けたせいだ。そのせいで、母さんは病気になったんだ。


 母さんは、抗がん剤の影響で髪が抜け、体力も落ちてゆく。そんな状態でも、母さんは引きこもる僕を心配して常に僕の部屋の前で声をかけてくれた。


 これ以上母さんを心配させるわけにはいかない。僕は勇気を振り絞って学校に通うことにした。


僕だけが我慢すればいい。


母さんをこれ以上悲しませないように、学校に行き、楽しく過ごしているように芝居を打って、ひたすら笑っていればいい。


これ以上苦しむのは僕だけでいい。


 僕が戻って来るなり、いじめは再開された。


「きもいやつが何で戻って来たの?」


「男でもあさりに来たんじゃね?」


「うわぁ、襲われないように気をつけよ」


 周囲の生徒たちは、そんな言葉を僕にかけ続けた。僕は学校にいる間、ずっと隅で隠れるようにして過ごした。


 休み時間になれば、急いで図書館へ駆け込み、一番奥の目立たない場所で、本を読んで気を紛らわせた。


 でも、その僕の唯一の逃げ場所も、じきに他の生徒に見つかり、引きずり出された。無理矢理僕の腕を引っ張ったくせに、その生徒は、


「きもちわりぃ。どうしてくれんだよ。お前の穢れが移る」


と、僕の目の前で大袈裟に手を洗ってみせた。




 母さんが病気で身体がボロボロであれば、僕は心がボロボロだった。


 でも、僕は母さんの前では学校でのいじめについて話すことは相変わらず絶対にしなかった。僕は家では努めて明るく振舞った。居もしない友達を架空で設定し、やっと中学で親友ができたと嘘をつき、不登校になったのは「僕が勉強に行き詰ったからだ。今は友達に助けてもらって楽しく学校生活を送っている」と作り話をしては、母さんを喜ばせようとした。


 でも、そんな僕の無理する姿を母さんは見抜いていた。ある日、母さんは僕に言った。


「いっちゃん、いつも無理してお母さんのことを心配させないように頑張ることはないのよ。もし、お母さんがあなたが学校に行かなくちゃいけないとプレッシャーをかけていたのなら、本当にごめんなさい。もし、あなたが学校に行きたくない事情があるのなら、もう行かなくてもいい。あなたはあなたの人生を、あなたの道を進みなさい。誰が何と言おうが、自分を卑下するのはやめなさい。あなた自身を大切にして生きていきなさい」


 僕は心の中の核心を突かれたような気がしてドキッとした。が、その時ですら、僕は自分を誤魔化し、ただただ笑ってみせた。


「なんの話? そんなことないよ。僕は自分のことを卑下なんてしていないし、僕自身を大事にして生きているよ」


 そんな僕を母さんは少し悲しそうに見つめた。その母さんの目を僕は忘れることができない。それが、僕が聞いた母さんの最期の言葉だった。




 その日の夜、母さんの容態は急変し、母さんは息を引き取った。




 僕は母さんが息を引き取った時も、葬儀の時も、火葬場の見送りの場でさえ、一滴の涙すら流れなかった。あまりにも僕の心はボロボロで感情がすっかり壊れていた。


 葬儀が終わり、納骨を済ませ、がらんとした母さんの部屋を眺める僕の心も同様にがらんと空洞になっていた。僕はぼうっと母さんの遺影に向かい、写真の中から笑いかけて来る母さんを見つめ、涙を流すでもなく、一言も発することなくただ座っていた。


 父さんは母さんを失った悲しみに暮れる余裕もなく、仕事に出る。僕が起きた頃には父さんは家にはおらず、僕が寝た後に家に帰って来る。


 忌引きで学校を数日休んでいる間、僕は、母さんの代わりに父さんのために食事を作ることにした。母さんが遺した料理本を読みながら、無心で食材を刻み、炒め、茹で、味付けをする。父さんは、そんな僕の様子を見て、僕が母さんの死を乗り越えて頑張っているのだと解釈していたようだった。


 でも、僕は、母さんの死をそんなに簡単に乗り越えてはいなかった。そもそも、母さんの死を「乗り越える」ということの意味さえよくわかっていなかった。


 ただ、父さんに、僕が学校でいじめられていたこと、僕が男が好きであるという問題を父さんに悟られないのであれば、それでよかった。


 それ以上深く考えることはしなかった。


 というより、この時の僕は深く考えることすらやめていた。ひたすら「無」になりたかった。何も考えたくなかったのだ。料理はそんな僕の要求によく応えてくれた。




 学校でのいじめは、相変わらず続いていた。しかし、僕が母を失ったという事実に、少しは心を痛める生徒もいたようで、次第に僕をいじめる生徒は減っていった。他の生徒がいじめなくなると、つられて他の生徒もいじめに興味を示さなくなる。僕を最後までいじめていたのは廉也とその一派だけだった。


 でも、そんなことはもう僕にとってはどうでもよかった。


 僕は、ただただ無感情のまま学校に通っていた。


 いじめても、ただそこに居るだけで反応の薄い僕に、最終的にはいじめの中心にいた廉也自身が飽きたようで、もう僕に関わってくることもなくなっていった。




 学校に行き、誰とも話さずに授業を受け、休み時間になれば、図書館で本を読む。家に帰って宿題をする。父さんと僕の食事を用意し、風呂に入って床に就く。そんな日々が続いていた時、僕はふと小学校の卒業文集を自分の部屋の本棚で見つけた。


 そういえば、あの時も僕は小学校で友達もおらず、たった一人で図書館で時間を潰していたっけ。成長しないな、僕。


 僕はそんなことを思いながら「へへ」と、乾いた笑い声を力なく上げ、パラパラとページをめくる。


 すると、「お父さんお母さんからのメッセージ」というページが目についた。僕がそのページにぼんやり目を通していると、母さんの書いたメッセージが目に飛び込んできた。


「卒業おめでとう。いっちゃんは好きなことを思い切りやり抜いて素敵な人生を送ってください」


僕はその瞬間、母さんが僕に最期に告げた、あの言葉が頭の中を駆け巡った。


「自分の道を進みなさい。自分を大切にして生きなさい」


一気に僕の心に母さんへの罪悪感が溢れかえった。最期の最期まで母さんは僕の人生の幸せを祈ってくれていた。それなのに、この出来損ないの異常性癖を抱えた僕が、不登校になり、心配をかけ続けたせいで母さんを死なせてしまった。


 僕の心は苦しく、はち切れそうになった。


「もういいや。僕も母さんのところに行きたい」


とふと口をついて出た言葉に、僕ははっとした。


 そうだ。もういいんだ。このまま異常な性癖を抱えて、みんなから後ろ指をさされつつ生きていくよりも、もう母さんのいる場所に僕も行ってしまいたい。




 僕はよろよろと歩き出した。気付くと、僕はあるマンションの屋上に立っていた。もうこれで終わりにしよう。全てを。僕は屋上のへりに立ち、目を閉じた・・・。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る