第三章
第20話 ムーランの日常
アンジェラ発情事件から数日、今日もまた孤児院はいつもと変わらない一日を過ごしていた。
早朝、次々と起き出す子供達に紛れてケインは地下室へと向かう。
朝の祈りを捧げるため、ではない。
地下室にはケインとアニー、そしてレインしか知らない秘密があった。
明かりのほとんどない地下室の神像の前には、真っ黒な影が佇んでいる
「定時連絡です。連合国は一月後に進軍します。それまでの間に別動隊を各都市へ派遣するとのことです」
「一月後か、その別動隊はここを通ってくるんだろ? 規模は?」
「百名ほどですが、精鋭です」
ケインは頭を掻いて愚痴をこぼす。
「多いな......バレる可能性が高い。おいっ! ほんとに精鋭なんだろうな?」
「ご安心を、一度に移動するわけではございません。深夜の出入りを制限していただければ十分でございます」
影はピクリとも動くことなく話を続けた。
「ならいい。レインにも報告しておく」
ケインはそのまま地上へ戻っていくと、淡く光った神像にいくつもの線が走り、影を引きずり込んでしまった。
その様子はまさに、巨大な魔導具であった。
§
子供達が全員起床した頃、ムーランはいまだ熟睡中であった。
彼はもともと朝が強いほうではないのだ。
コンコン。
寝室をノックする音に、ようやく彼は目を覚ます。
「ムーラン様、朝ですよ。朝食を用意しています」
彼を起こす役目はレインが誰にも譲ることなく死守していた。
ムーランの寝顔を見るのがレインの幸せのひと時である。
寝ぼけ眼のムーランは、レインを先に食堂へ向かわせ院長室へと向かう。
すこし散らかった部屋で綺麗に整列した魔水晶が今日も子供達を映し出していた。
まだ眠っているアンジェラ、食堂で朝ごはんを食べる子供達。
この孤児院のすべてをのんびりと眺めることが、彼にとっての至福の時間だ。
食堂ではごはんを食べ終えた子供が、次の子供と席を代わる。
三十人以上の子供達が同時に食事できるほど、孤児院の食堂は大きくはないからだ。
「にひひっ、ひひひひ」
彼はそのことが妙に嬉しかった。
食堂に入りきらないほどの自分の子供達。
ムーランは魔水晶越しに彼らの頭を撫でる。
ふと視線をズラすと、机の端に手紙と包が置かれていた。
親愛なる者へ
運命の日は近い、我々は貴方を歓迎するだろう
M・M
手紙には孤児院の紋章が描かれていた。
M・M......メーフィス・モートル
スラムを徘徊中に偶然出会った異国の商人の名前である。
最初はよそよそしかったが神像を買いたいと言うと、とてもフレンドリーになったのだ。
あの手のひら返しは同じ商人として笑い者だが、何年も送り物を送ってくる義理難さは素直に感心する。
ムーランは包の中を確認することなく、物入れへと投げ込むのだった。
レインと入れ替わるように子供達が食堂を後にする。
もう院長であるムーランを待つルールは存在しない。そんな時間は鍛錬に充てるべきだとレインが決断したのだ。
その代わりにアニーとケイン、そしてレインは彼と一緒に食事を取ることにしていた。
「院長様、今日は一段と遅いですね」
アニーがまだ手付かずの魚をお箸でつんつんと突いた。
「アニー、行儀悪いぞ。すこしはレインを見習ったらどうだ?」
ケインのほうがアニーより一つ年上なこともあり、彼は少々口うるさい。
「知らないの? レインさんは夜中から起きてるから、こういう待ち時間にちょくちょく寝てるんだよ?」
たしかにレインは座ったまま目を瞑っていた。
ケインはジッとレインの寝顔を見つめる。
長い睫毛に、整った顔立ち、それに柔らかそうな唇。
途端にレインはパッと目を開けて立ち上がった。ケインはすかさず視線を逸らしたが、見ていたことがバレたに違いないと鼓動を早める。
「ムーラン様、こちらです」
だが、レインはそんなケインに見向きもせずこちらへ向かってくるムーランへ挨拶をした。
「おはようございます。ムーラン様」
「おはよう。にひひ、さぁごはんを食べようか」
ムーランは朝から葡萄酒派である。
ダイコンの浅漬けと葡萄酒は、彼にとってベストパートナーなのだ。
自分の食べた食器を自分で洗い、片付ける子供達。
忙しなく動いている彼らをにんまりと眺めつつの朝食。なんとも幸せな日常である。
だが、最近はもう一つ楽しみがあった。
「あー、頭が痛い......」
二日酔いアンジェラである。
彼女はとてつもなく酒に弱かったのだ。
毎日一緒に夕食を食べてはいるが、いつもお酒は飲まない。
だが、週に一度ほど彼女はムーランと共にお酒を嗜むのだ。
二日酔いに苦しむアンジェラを見ながら思う。
もし友人がいたらこんな感じなのだろうかと。
侍女を帰らせたため、彼女の世話をする者はいない。
「あぁ! アンジェラ様、しっかりしてください! だれか水!」
しいて言えばアニーが彼女の世話係だろうか
ムーランは騒がしい食堂の雰囲気を全身で味わいながら地下の神像を想い願った。
こんな日が、ずっと続きますように。
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