第5話 万軍は無人の野を征くが如し

帝国、皇国、大公家。三つ巴の三国の闘争は加速し、まず最初の戦火は帝国と大公家の国境、旧エッダのスノリングラ雪原で烽火した。赤竜帝国100万の主将は皇太子シェティ・ザントライユ、軍師参謀として北嶺院文(ほくれいいん・あや)。対する大公家は守将ヘリアン・ディード、副将ヒルダ・シュバルト、参謀スクルド・ウランゲリの3人がかき集めた6万。


大公国の限界動員兵力は20万以下に満たないわけで、総兵力6万といっても正規兵は1万に満たない。ほかはヘリアンたちが私財を擲(なげう)ってどうにかこうにか挑発した民兵であり、兵の練度も武装もおよそ実用に耐えうるレベルにない。


敗戦は必至。ヘリアンもヒルダもスクルドも、決して無能ではない。ないがこの戦局を覆せるだけの天才でもない。どうあっても勝ちの目は見えなかった。


それでも彼女らに降伏の意思はない。敬愛する主君・明染白夜の最終的勝利のためなら、いくらでも捨て石になる。その覚悟がヘリアンたちにはある。かつて大飢饉が大公領を襲ったとき、官戸には十分の備蓄があったにもかかわらず「規則により」官戸が開かれなかったという事態があった。そのとき、父である大公・明染焔からの処罰も恐れず、独断で官戸を開いたのが白夜である。あのときの白夜の行動がなければ、すでに自分たちもその家族もその同胞たち数万人も生きてはいない。だから今、白夜のために命を捨てることなど彼女らにとっては当たり前のことだった。


わずかな勝機は地形にある。隣接する寒帯といっても、旧ヴェスローディア地方とエッダ地方だと違うのだ。雪深いが氷が張るまでに至ることの少ないヴェスローディアに比べ、しばしばエッダの湖は凍る。かつて新羅辰馬が大陸争覇戦役で苦戦させられた先鋒、湖面割り。敵軍主力にこれを決めることができれば、100万の大軍を覆すことも不可能ではない。


とはいえ。


「おそらくですが。敵は湖面割りを使ってくるでしょう」

「湖面割り?」


 戦場まであと数日の幕舎。参謀・北嶺院文は皇太子シェティに向かいそう述べた。彼女とて大陸争覇戦争の体験者であり名将と言われた女。エッダの将が寡兵で大軍を前にしてどう戦うかは頭に入っている。地形図を見て危険そうなポイントを示し、主将たるシェティに注意を促す。


「了解した」


 そう言うシェティの顔も声もどこか上の空なのは、気の所為ではない。おそらくは先遣の密偵が持ち寄った、敵軍司令部の三人……みな、若く美しい女性……に気を取られてそぞろになっている。よくない兆候だった。女を征服したくて闘争心が強化されているのならまだしも、逆に心を支配されてしまっている。これでは十全の実力を発揮できまい。


 緒戦での蹉跌(さてつ)は避けたい。


「皇子、此度の戦はわたしに指揮を任せていただけませんか?」


 やや目に力を込めて、文は進言する。子がないために立皇妃こそされていないが、貴妃の一人だったのだ、当時の立場ならエーリカと互角であり、おもてだって言えば不敬罪で首が飛ぶがシェティなど気分的には姉妹の子供、つまり甥と変わらない。将軍であり、叔母。その威でもってこの場は統帥権を接収しようと狙った文だが、しかし皇子は頑として首を縦に振らない。


「母皇は私に、明染を打倒せよと仰せられた。ならば私が成し遂げなければならない。貴方の仕事は作戦の立案までだ、それ以上は出る幕ではない」


ぶち、と。


 なめ腐った言葉に、このとき文の中でなにかが切れた。往事の、男嫌いの学生会長・北嶺院文に立ち戻ったといってもいい。


「分かりました。僭言(せんげん)、申し訳ありません」


 表面上はひたすら穏やかな老婆を装い、文は幕舎を離れる。


「死ぬなら一人で死んでほしいものだわ……」


 やがて、人のない薄暗がりで。そのつぶやきを聞く者はなかったが。


………………


 その頃、真統新羅皇国。


「残念ですが、その儀はお受けできません」


 天下万民が笑える世界を実現する、そのために力を貸してほしい。その言葉に、覇城すせりは深々と頭をたれながらも、決然と言った。


「なんでですか、ねーさま! 兄さまのそばにいられるんですよ!? さっき、ねーさまだって……」

「新羅公子……いえ、皇帝陛下のことは確かに好もしいと思います。ですがわたくしがここを動くわけには参りません。アカツキの信仰の中心として、信徒たちのよりどころとして。そしてなにより……」

「たっだぁいまぁ~! えへへぇ~、すせりん今日もかわいーじゃーん♡」


 酔っ払いオヤジ丸出しの態度で、やたら透けて薄着な、酒臭い青髪の美女がすせりに抱きつき押し倒す。すせりはみじんも動じず、


「……この方のお世話を放っていくわけにもいなかないでしょう。いくら自堕落でも当国の祭神、おそらく上位神格として地上に残った最後のお方です」


そう言い、祭神……サティア・エル・ファリスの水色の神をなでてやった。その姿は女神と巫女というより、他のかかる姉ときまじめな妹というに似ている。


「サティアおばさまなんかどーでもいーんですよぅ! いつもお酒飲んでるか町の賭場でギャンブルしてるかのどっちかですよ? こんなひといらないじゃないですか!?」


ぺし×2。


 軽いが染みる打撃が、緋咲の額をびしりと打った。


「ぇう?」

「今の言葉は撤回なさい、緋咲。この世の中に、いらないひとなんていません」

「そうだな、今の言葉は行きすぎだと、僕も思う。しかしその上で、僕たちに力を貸してはいただけませんか、齋姫? あなたがおばあさまから受け継いだ知略は100万の軍勢に勝るという。そして今、まさにこの国は100万の軍勢を迎えようとしているのです。

ヒノミヤの巫女として、この地を鎮護する、その志は立派です。しかしそれではヒノミヤの、この山以外の土地に住まう人々はどうなりますか? ヒノミヤの民以外は踏みつぶされ、蹂躙されても知ったことではない、と?

 あなたはそんな冷たい人ではないはずです、そして虐げられる民草、天下万民を救う力があるのであれば、そうしない理由はないのではないですか!?」

「………………しかし……」

「んー……あれ、雫じゃん? え、あれ、旦那様? じゃない、髪の色も目の色も違う……んにゃあ~?」


 女神サティア……すでに世界に大影響力を及ぼしうるような力は失い、わずかに「人間よりかはやや特異な力」として触った相手の病やけがを癒やせる程度の力が残っているに過ぎないが、その程度の力が、この世界に残った魔術の究極である。


 さておき。


「お久し~。何年か前に一度、お邪魔したんだけどね~、あのとき会えなかったから30……40年ぶり?」


 牢城雫と女神サティア、時間という誰にも等しく非常に落ちる流れから分かたれた、二人の永遠の少女は、こうして30年以上ぶりに再開した。


………………


「じゃ、またちょい呑んでくるわ、すせりん♡」

「ちょっとサティアを借りるねー、すせりん♪」

「あの……すせりんってやめてくれます?」

「「えー、かわいーじゃーん?」」


 酔っ払いと脳天気による無邪気な攻勢に、きまじめ娘、覇城すせりは敗北する。なんとなーくいたたまれなくなって、乕は慰めの言葉をかけようとしたが。


「慰めでしたらいりません。別にサティアさまを盗られたとか思ってませんから!」


 思わず、という形で恥ずかしい告白をしてしまうすせり。しかし乕は笑わない。笑えるはずがなかった。なぜなら彼女と自分はこれほどに似ている。想って想い抜いて、それでも決して届くことはないのに諦められない。


「あぁ……なるほど、僕と同じですね」

「え……?」

「実は僕も、想いを懸ける女性がいまして……いや、望みがないことはわかっているんですが……」

「緋咲のことですか~? それならバッチリ望みアリ! ですよ! だいじょーぶです、兄さま!」

「……いや、ええ……まぁ……うん、ありがとう、緋咲」


 脱力しながらも、救われた気持ちにもなる乕。雫への思慕とは違う、しかしなぜかほっとする感情もまた同種の感情であることを、乕は感じ始めていた。それを否定して押さえつけるのは、女性は生涯ただ一人という自分への誓い。雫以外の異性を好きになるようなら自分に生きる価値はないと言うような、極端な盲愛が、まっすぐに好意を伝えてくる姪に応えることを拒ませる。


 それを見て、聡明なすせりはおおよその関係性を悟る。


「緋咲」

「? はい、ねーさま」

「勝機はあります、頑張りなさい」

「??? ……はい」


 すせりの見たところ、可愛い妹分に十分の勝機はある。乕はじぶんで理解できていない……というより混同しているが、雫への想いは愛情と言うより母性へのあこがれであって、異性に懸ける恋情とは違う。そこにふたをして無理矢理他人の入り込む余地をシャットアウトしているが、それはつまり無理してないと外れる蓋でしかないということだ。どうしようもなく狂おしく求める感情というのとは違うし、もしそれほどの大激情であったら「あの」新羅辰馬の嫡流が強引にでも手を出さないはずがない。


 よって、最後に新羅乕は牢城雫から巣立ち、晦日緋咲のもとに収まるだろう。もっとも、緋咲には雫以外にもライバルがいるようだが。


………………


「っくし……!」

「風邪ですか、梁田さん」

「いえ……そんな事もないはずなのですけど……うぅん」


 夜、京師柱天の一室にこしらえた事務室で、梁田詩(やなだ・しい)はいぶかしげに首をひねる。皇国財務長官に任ぜられた詩の仕事は広義には皇国の帳簿係であり、一弊の誤差もなく正確に収支と支出とを把握できていなければならない。国じゅうの臣民全員の税金納税状況も理解している必要があり、彼女の仕事に遅滞が出れば皇国の財政事情が大きく傾く。軍の最重要たるは兵站方だが、その兵站を管理する金を出す許可は彼女の意にかかる、といわれればその重要性はわかるだろう。天性の聡明で一人にして10人ぶんのはたらきをこなす詩だが、やはり働きづめは疲れる。


 こういうときは皇子……いえ、陛下とコーヒーでも飲めれば一息に疲れが抜けるんですが……あのお姫様と一緒にヒノミヤですしね……はぁ。うらやましくなんかありませんが。


 コーヒーという、炭酸ジュースと並んで世間一般的になった飲料がアカツキで最初に飲まれたのはヒノミヤ事変直後、ラース・イラ騎士団撤退の時のことである。彼らが嗜好品として残した黒い粉、これが焙煎したコーヒーだったのだが、最初だれもこれが飲み物のもととは分からず、色からして敬遠していた。それを接収して退陣前の士兵たちに振る舞ったのが、梁田篤の妻であり自身も将才商魂豊かだった梁田詩織、詩の祖母であり、これがアカツキ最初のコーヒーショップである。新羅皇家と梁田家のつながりを現すようで、おばあちゃん子である詩はそういういきさつもあってコーヒー党であった。


 乕と一緒に午後の一杯、という幻想は叶えられないので、仕方なくひとりさびしくコーヒーを淹れた。10年以上やっているだけに、濾し具合はなれたものだ、気もそぞろな顔をして、見事に香り立つコーヒーを淹れる。ずず、と啜ったが、やはり今日は味気ない。コーヒー自体ではなく、詩の感情の問題だ。子供は相手にしないと緋咲をあしらいはしても、こういうとき緋咲の方が乕に近いのを思い知らされる。もちろん自分がここでこうしていることも、おおいに乕のためになっている自負はあるが、やはりどうしてもどこかに敗北感・劣等感を感じてしまう。


「くぁ……さて、もう一仕事……」


 そう言ってのびをした刹那。


「敵襲!」


 悲鳴のような注進が入った。しかし敵が国境線を越えるにはあまりにも速すぎる。ハゲネとヘラクリウスは今頃、まだ旧ラース・イラの横断中なはずだ。あと半月はかかる道程である。


「何処から!?」

「海です! 東方沿海から上陸、上陸と同時に騎乗し、あと1週間で一挙京師を衝く勢い! その数60万!」

「ろく……!? そんな、まだ準備も整っていないこの状況で……」


 海……帝国に海将は多い。八葉大陸アルティミシアといえど川や湖はあり、大陸を縦横に巡る水路があるのだからそこを利用する将領や、あるいは川賊湖賊が存在するのは自明。だがここまで大規模かつ大胆な用兵をしてくる人間は、詩の知る限り二人だけだ。


 すなわち、梁田詩の実の祖父・梁田篤と、その下で長らく経験を積んだ海将・上杉慎太郎。彼らは新大陸踏破のため、明染焔の隷下遠征の途上にあったはずだが、どうやら帝国の危急に転身してきたらしい。


「現在八幡平野を無人の野を行く速度で疾走中、京師まであと5日の距離で旌旗(はた)が翻りました! 白旗に磨羯羅(まから)の紋、山中梁田氏と、赤地に扇の紋、扇谷上杉氏です!」


 予想は確信に変わる。帝国でも有数の戦巧者参戦。さらにあと2週間日もしないうちにハゲネたちの100万が呼応して挟撃してくる。事態は限りなくシャー・ルフ(王手)。皇国鳴動の夜であった。

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