第2話

 一世一代の求婚をされた紅姫は、あっさりと告げた。


「若様、それは無理に御座います」

「無理ではない! お前を受肉させて人間にし、俺の妻にする! 決めたことだ!」

「私は主様の物。若様の物では御座いませぬ故」

「おい、紅姫!」


 跳躍して屋敷の屋根に乗った紅姫は、やれやれと言わんばかりに首を振る。


「若様……幼少の頃から言動に成長がなさすぎるかと。その手の話に私が笑顔で応えられるほど、もう若様は幼くないのですよ」


 そう。この求婚は通算百四十七回目。彰比古は子供の頃から容姿端麗な紅姫に惹かれ、嫁になってくれ、妻になってくれと度に言い寄っていたのだ。

 しかし、今回は五年振りの求婚で、それなりに現実味を帯びたと思ったのだが。

 彰比古の予想は呆気なく崩壊し、紅姫は屋敷に戻ってしまった。


「……こりゃ、まずい」


 この件を紅姫は淡々と祖父に報告するだろう。そして……


「こんの、阿呆者がっ! 人の物に手を出すなと何度言わせる気じゃ、彰比古ォ!!」


 奥の部屋から祖父の怒号が響いてきた。ここは表だというのに、はっきりと祖父が何を叫んだのかも聞き取れるくらいの怒鳴り声だった。


「あー……っと、とりあえず、逃げるか」


 この状態の祖父に捕まったら、説教と滝行に、読経、座禅まで付いてくる地獄の修行が待っている。

 これだけ元気では当分くたばらないなと、彰比古は内心溜息を吐いた。

 祖父は紅姫のことを、妻のように、娘のように、孫娘のように、愛し、可愛がり、重宝してきた。そんな紅姫を祖父から取ろうとすると、毎回祖父は烈火のごとく怒り狂い、孫であっても紅姫のことでは絶対に譲らんと容赦ない仕置きを断行するのだ。


「……祖父の頑固頭と紅姫の心。どう考えても、後者を陥落させるしかないな」


 これまでは、どれだけ紅姫に言い寄っても子供の戯れと一蹴されてきた。だが、今回は違う。彰比古は本気だ。


「おじい様の道具のまま、紅姫の生を終わらせてたまるか」


 式神の寿命は主の寿命と同じ。主から霊力の提供がなくなれば、式神も消滅する。つまり、期限は祖父の命尽きるまで。


「おじい様のことは嫌いじゃないが……紅姫のことは絶対に譲らないからな。絶対、俺の妻にしてみせる」


 この祖父と孫は大変似た者同士だと、家人の間では周知の事実だった。


 ***


 紅姫が主に報告に向かうと、話を聞いた主は予想通り激怒した。


「主様、あまり大声を出されますな。お身体に障ります」

「引いておれ、紅姫。あの悪たれは一度締め上げねば気が済まん」

「しかし、主様。若様が主様の追跡を予測できないとは思えませぬ。もう逃げてしまわれたでしょう」

「ふん。術者の意地じゃ。暴き出してくれる!」


 高齢の主は寝間着のまま縁側に出て、無数の式符をばらまいた。それらは様々な動物の形に変化し、周辺に散っていった。


「また、そんなに沢山の式を打たれて……」

「良い良い。気にするな。年を食ったとはいえ、この程度の式を操れぬほど耄碌しておらんわい」

「主様……」


 良い意味でも、悪い意味でも、紅姫の主は年を重ねても途轍もなく元気だ。


「紅姫よ、一先ず湯浴みをしてきなさい。妖ものの怨念がこびりついておろう」

「はい」


 血と体液塗れのままだった紅姫は、主の厚意に素直に頷いた。

 まだ夜明け前だというのに、湯殿には汚れ物を引き取る侍女が控えていた。


「すまない。寝ている時刻であろうに」

「いいえ。紅姫様は式神といえど、この御家における姫様も同然ですから。わたくし共のことを気にする必要はないのですよ」


 紅姫は人間ではないが、長年この家にいるためか、いつの間にか家人から敬われる存在になっていた。彼らにとっては、紅姫も当主や彰比古と同様に大切にすべき主人なのだと。

 最初の頃こそ、一介の式神風情を敬うのは止めて欲しいと断っていたが、彼らの好意に折れた。今では、姫様として扱われることも受け入れている。

 紅姫はべっとりと重くなった着物を脱いで、控えていた侍女に渡し、洗い場に向かった。屋敷の湯殿は無駄に広い。戦って汚れることの多い紅姫を想った当主が、改築に改築を重ねて、温泉郷にも引けを取らない立派なものを作らせてしまった。ほぼ、紅姫のためだけに作られたものである。といっても、ここに住む者であれば、誰でも使って良いということだけあって、屋敷に仕える者達からは大変好評であった。

 洗い場で身体の汚れをよく落としてから、外風呂に向かう。ここは宿屋でもないのに、外風呂と内風呂がある。以前、彰比古が冗談めかして、仮に術師の大家として没落しても、ここで湯屋の商売をすれば十分に御家を維持できるだろうと笑っていたことを思い出す。

 確かに、これを身内だけで使っているのは、勿体ない気もしなくはない。


「ほぅ……」


 湯の中に身を滑り込ませて、紅姫は息を吐いた。式神であると言うのに、年を重ねれば重ねるほど、この身にも人間らしい感覚が身に付いていった。造られたばかりの初期はまさしく、人形としか言いようがなかった。主の命を淡々とこなすだけ。主から愛され、主の娘夫婦から女の子扱いをされ、優しくされても、応えることはできなかった。そのような機能は、当時の紅姫には存在しなかった。そんな日々に変化が生まれたのは、彰比古が生まれた頃か。


「……婿殿」


 当時のことは、あまり思い出したくはない。式神故に感傷的になることが少ないとはいえ、振り返ると苦々しい思いが込み上げてくる。

 決定的だったのは主の娘……雪乃が彰比古の出産に臨んでいた時だ。


『雪乃、雪乃……頑張れ、頑張れ……』


 雪乃は寝室で陣痛を耐えていて、紅姫は彼女の夫と共に寝室に面する縁側でその時を待っていた。雪乃の夫は気の優しい男で、穏やかな人柄は村で評判であり、紅姫のことも妹のように可愛がっていた。

 紅姫は妻の無事を祈る彼の傍で大人しく端座していた。主から彼の護衛と、寝室の防衛を命じられていたからだ。そして、主は隣室で安産の祈祷を行っていた。

 しかし、そんな時、近くの山に鬼が出たと村人が泣きついてきたのだ。

 当時、主は祈祷で手一杯だった。そのため、紅姫に白羽の矢が立った。しかし、村人の話では鬼の体長が大木を超えるとのことで、紅姫だけでは返り討ちに遭いかねないと主は危惧した。だが、そんな主の不安を紅姫は否定した。


『私は必ず生きて戻ります。主様は姫様の祈祷に専念なさって下さい』

『しかしな……』

『主様、奥方様の二の舞にはさせぬと豪語なさったのは主様に御座います。ご自身の発言には責任を持って頂かねば』

『ぐっ……』

『義父上。僕が彼女の手伝いをします。それなら良いでしょうか』

『何……?』


 雪乃の夫も術師の家系に生まれていた。そのため、戦闘力が皆無という訳ではなかった。ただし、戦闘が上手いとも言い難かった。


『今、雪乃は必死に戦っています。僕は、待つことしかできない……だから、せめて僕も戦いたいのです。お産中の雪乃を守るために戦う、これは本望です』


 主は彼の戦闘経験のなさを知っていたため渋面を浮かべたが、覚悟を決めたその顔を見てもなお反対することはできなかった。


『分かった。雪乃は儂が見ておる。お前達は鬼を調伏して来い』

『ありがとうございます、義父上!』


 紅姫は主の決定に無言で従った。そして、結果的にそれを後悔した。

 鬼は倒したものの、雪乃の夫が戦闘中に鬼の手で命を落としたのだ。

 彰比古を無事に産み落とした雪乃は夫の死を聞いて、酷く消沈してしまった。


『あなた……あなた……っ、どうして……』

『姫、様……』


 紅姫は自分の声が震えていることが不可解だった。事実を告げただけで、何故これほどに動じているのか。


『申し訳、ありません……私が付いて、おりながら……』


 深く頭を下げると、畳に何故か染みが出来た。これはなんだ。何故、目から水が出ている。これが、涙なのか。


『……紅姫? 貴女、泣いているの……?』

『姫……』

『……っ、いらっしゃい、紅姫』


 傍らで生まれたばかりの彰比古が眠る中、雪乃は初めて自身の中に生まれた感情に戸惑う紅姫を娘のように優しく抱き締めた。

 後悔と罪悪感、申し訳なさ、それと温もりに対する困惑まで込み上げてきて、紅姫はされるがままになるしかなかった。

 それももう、二十年も前の話だ。雪乃はあれから数日後、主の祈りも虚しく、産後の肥立ちが極端に悪かったことから、静かに息を引き取った。


「……私は」


 式神としてそれなりに長生きしてきたため、人間に近い人格を保有する程度に変化してきた。だからこそ、胸に様々な感情を抱くようになっている。それは嬉しいこともあれば、辛いことをも運んでくる。本来の式神なら、こんなことに悩まされることはなかった。

 紅姫は複雑な感情を抱けるようになってしまった自身の生を早く終えたいとすら思っている。


「私は幸せになることなんて、出来ないのですよ。若様」


 ぽつりと呟いた言葉は湯けむりと共に消えた。

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