02
作品が完成して数日が経ったある日、私は久しぶりに自身の通う大学に足を運んだ。いや、実際には全く通っていないので「籍を置いている」とでも言えばいいのだろうか。
厳しいと思われた受験戦争を必死で潜り抜け、やっとのことで入学できた国立大学であったが、悲しいことに今となっては何の愛着もない。学業に精を出している真面目な学生たちとは目を合わせないよう素早くキャンパスを通り抜ける。後ろめたくはあるが後悔があるわけではない。大学とは自分の人生でやりたいことを探す場所であるはずなのだから、何も用意されたカリキュラムに時間を使うだけが正解じゃないのだ。そんなわけのわからない言い訳を脳内でリピートしながら、私は教室棟と呼ばれる建物に入った。
前述のとおり些かな
私の目的は例の作品を紙に印刷することだった。コンピューター室のプリンターは学生が自由に使っていいことになっている。
鞄を片手にコンピューター室をそおっと覗き込む。そこで講義が行われておらず、他に誰もいないことを確認すると、私は
五分ほど掛かっただろうか。全ての印刷が完了したようでプリンターが静かになった。私はパソコンとプリンターの電源を落とし、まだ少し温かい紙の束を手に取った。
印刷中に何人か教室に入ってきていたため、努めて冷静を装ってはいたが実は内心穏やかな状態ではなかった。今私が手に持っているものは……と考えると興奮で涙が出そうなほどだった。手の震えも尋常ではない。その発作とも言える興奮が治まるまで私はしばらくその場に立ち尽くしていた。
しばらくして落ち着いた私は紙の束を鞄のクリアケースの中に納め、コンピューター室を出た。時刻は正午をやや過ぎたあたり。さて久しぶりに学食で昼食でも頂こうかなどと考えながら視界に映る学生らを眺めていると、私の心はふとある衝動に駆られた。私の作品を誰かに読んでもらいたい。突然そういう強い欲求が私の中に生まれた。いわゆる「客観的な感想」というものが聴いてみたくて堪らなくなった。創作というのは自分を喜ばせるためにあるのではなく、誰かを喜ばせるためにあるのだ。今までの私にはその視点が欠けていたのだとなぜだか突然悟った。
しかしすぐに思い出す。困ったことに私にはその「誰か」の当てがないのだ。入学以来講義にほとんど出席せず、サークルにも所属せず、週に数日のアルバイト以外は自室に引きこもっていた私に学友はいない。大学に限らず私には他者との繋がりというものが著しく欠落していた。地元から遠く離れたこの地に私はいつも独りだった。昔から人との付き合いは苦手だった。社交性に問題があるというのは自覚していたが、ここにきてそれが災いしまさに痛恨の極みである。
そんなこと悶々とを考えながら私の足は自然とキャンパスの中心部に向かっていった。それは何かに導かれているような奇妙な感覚だった。実際にはただ緩やかな坂道を自然と下に向かって歩いているだけなのだが、当時の私は馬鹿なので自分にとって気持ちのいい解釈をしていただけである。だが、その日は運良く物事は前に進んでいった。
向かった先には大講義室と呼ばれる大学内で最も広い講堂があり、私はそこに吸い込まれるように入っていった。丁度昼休憩の時間だったので、その広い講堂には私を含めて四、五人しか居なかった。
私は目を皿にして講堂を見回した。今この場にいる人の中で私の作品を真面目に読んでくれそうな人物が居るかどうかを見定めようとした。人生経験のまるで足りない私に人を見る目があるとは到底考えられないのだが、幸運なことに私はある一人の人物に当たりをつけることが出来た。
椅子に座って本を読んでいる
彼ならば私の小説も真面目に読んでくれるに違いない。そう思ったのは彼が手元に広げていた本が『世界中で読まれている超有名ファンタジー小説』だったからだ。その作品は「眼鏡の少年が魔法学校に入学し様々な試練を超えて成長していく」という物語であり、私も大好きな作品の一つだった。実写映画化もされており世界中にファンがいる。現在シリーズ作が第三巻まで刊行されており、その男性が読んでいるのはその最新刊の三巻だった。
よし、と私は意気込む。彼に私の作品を読んでもらおう。そう考えた。一般的な観点からすると完全に不審者の如き行動であるが、この時の私は謎の全能感に突き動かされていたためブレーキがかからず、そのまま男性の方へ歩き出した。
「こんにちは」
私は男性に
「なんでしょう?」
「その小説……そのシリーズがお好きなんですか?」
「そうですね。この作品の世界観が気に入っています」
見知らぬ男に突然話しかけられたというのに、僅かの動揺も感じさせることなく落ち着いた様子で男性は答えた。あまりに自然に回答され、逆にこちらが驚いてしまうほどだった。私は続ける。
「そういったジャンル……ファンタジー小説をよく読まれるのですか?」
「えぇそうですね。有名どころの作品は概ね押さえてあると自負しています」
「おぉ……」
私は感動した。まさに理想的な人物だった。こんなにも早く巡り会えてしまうとは何か運命的なものを感じずにはいられなかった。私はもう少しだけ彼を観察しようと世間話の体でファンタジー小説についていくつか質問をした。彼の話はどれも知的で造詣の深さを感じさせられるものだった。私の目に狂いはなかった。
程なくして私は本題に入ることにした。
「実は私、ファンタジー小説家を目指しておりまして」
「それは凄いですね。頑張ってください」
「ありがとうございます。……それでですね、私のデビュー作になるであろう作品がつい数日前に完成したのです」
そう言いながら私は先ほど印刷した作品が入っているクリアケースを取り出す。ずしりとした重みが心地よい。
「これは……驚きました。本格的ですね。いえ、すいません。決して軽視していたわけではないのですが……」
「わかります。私自身も印刷してみて圧倒されました」
「えぇ。何か気迫のようなオーラをこのケースの奥から感じますね」
ファンタジー小説を愛読しているからだからだろうか。何とも非科学的な言葉を
「お願いがあるのですが」
「お願い、ですか?」
「あなたにこの作品の最初の読者になっていただきたいのです」
「それは大変光栄です。わかりました。お受けいたします」
即答だった。
理由を問われるかと思い、あれこれ考えていた言葉が霧散する。
「それでは次の講義が終わるまで待っていてくれますか?」
「え? 講義の最中に読まれるつもりですか? そ、そのようなことせずとも持って帰って下さって結構ですよ。感想はまた後日にでも……」
「いえいえ、お気になさらず。どうせ午後の講義はこの小説を読みながら聞き流すつもりでしたし問題ありません」
この小説、と例の三巻を指差す。
「しかし……」
「そろそろ講義が始まります。この講義を履修していないならここには居ないほうがいいですよ。次の講師は受講者の顔と名前を把握していますので面倒なことになりかねません」
そう言われてしまい私は講義室から出て行くしかなくなった。
思いもしない展開になったことで少々動揺してしまったがよく考えると都合の悪いことは何もない。むしろ都合が良い展開と言える。私は講義を受ける学生たちとすれ違いながらそそくさと講義室を後にした。
外に出て日差しを浴びる。緊張が解けたからか、ふいに空腹を感じだした。そういえば朝から何も食べていない。
私は学食の方向に足を向け、何を食べようかと考えた。
そうだ、エビフライ定食がいい。いや、月見うどんがいいだろうか。
何を食べても美味しく感じる気がした。今は空気すら美味しいのだから。
九十分後。講義の終了を告げる鐘の音が大学中に響く。私は講堂のすぐ外で彼を待っていた。
「
呼ばれて振り向くとそこに彼がいた。「幻愁院盛悟」というのは私のペンネームであり、小説の表紙にタイトルと一緒に記入していた。彼は私の本名を知らないのでそうで呼んだのだろうが、実際にペンネームで呼ばれたのは始めての経験で、嬉しいやら恥ずかしいやらであった。
「すみません。本名は――と言います」
私は名乗る。
「そうですか。でも先のことを考えるとペンネームで呼ばれ慣れていたほうが良いと思いますよ、盛悟さん。私は山本といいます」
彼、山本氏はそう言って微笑んだ。
盛悟さん、とは何とも気恥ずかしい響きだが、今彼とは筆者と読者の関係なので仕方がない。
「今の時間で丁度半分ほどまで読みました」
「そ、そうですか。どうでしたか? そこまで読んでみて――」
「待ってください。感想は最後まで読んでから言おうと思います」
私の言葉はぴしゃりと遮られた。
しかしそれもそうだと思った。感想や批評は最後まで読んでからするべきだ。折り返し時点の所感など後の展開でいくらでも覆る。やはり山本氏は最初の読者としてどこまでも相応しい。
「だから感想は次の講義が終わるまで待ってください」
「待ちます。待ちますとも!」
私は変な口調で答えた。
山本氏は次の講義も同じく大講義室で行われるので、また九十分後にここで待っていてほしいと言う。私は了承する。
山本氏と別れた後、少し小高い場所にある中庭へ向かった。ただなんとなく風にあたりたい気分だった。
深呼吸し、物語の半分あたりを思い返し、反芻した。
ちょうど主人公が新しい魔法を習得した頃合いだ。だがその魔法でドラゴンは倒せないんだ。ここからが面白い。
再び九十分後。私は先刻と同じ場所で山本氏を待っていた。今度は私のほうが先に山本氏を発見したので声をかける。
「山本さん」
「あぁ、盛悟さん」
「それで……」
「その前に移動しましょう。ここは少々騒がしいので」
確かに講義が終わったばかりの辺りはざわついていて、ゆっくりと話をするような環境では無い。私はどうにも気が
「大学の前の喫茶店でいいですか? あそこなら落ち着いて話が出来ると思います」
「そうですね。行きましょう。」
大学正門を出て徒歩数分の場所にその喫茶店はある。私は黙って山本氏の後に付いて行った。
西洋建築風の扉を開け、中に入ると来客を告げる鐘の音がカランカランと鳴り渡る。私は初めて入る店だったが、山本氏は慣れた様子で窓際の席に座り、メニューを開くことなくアイスコーヒーを注文した。私も同じものを注文する。
すぐにコーヒーが届いた。よほど喉が渇いていたのだろう、山本氏は一息でそれを飲み干した。私は一口だけ口をつけて、ブラックコーヒーはあまり好きではないことを思い出した。
「……さて、盛悟さん」
喉を潤した山本氏がおもむろに切り出す。私は本当に幸運だ。こんなにも早く感想を聞けるのだ。コンピューター室から出たときはこんなに物事がとんとん拍子でうまく進むとは思いもしなかった。
「この作品、全て読ませていただきました」
「はい」
山本氏が鞄からクリアケースを取り出し、テーブルに置いた。
「まず、この作品を一言で言いますと――」
「はい」
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