そっか・・・

ninjin

そっか…

「そっか、それは面白かったんだろうね」

 僕がそう相槌を打つと、美樹は嬉しそうに微笑む。

「それで、その先はどうなったの?」

 僕が更に訊ねるので、美樹は言葉にはしないが、如何にも「急かさないで」とでも言うようにグラスのアイスティーをひとくちストローで啜ってから、少し溜めを作ってちょっと意地悪そうな表情をする。

「じゃ、和也くんはどうなったと思う?」

 考えても分かる訳がないのだが、一応、三秒ほど考えるフリをしてみるが、それはその様子を美樹に見せるため。

 そしてそれから、初めから決まっていた台詞を言うのだ。

「分かる訳ないよ、そんな可笑しな話、聞いたこと無いし」

 そんな僕の台本通りの受け答えに、美稀は然も満足そうに「ふん」と可愛らしく鼻を鳴らし、「それじゃ、教えたげる」と何処となく嬉しそうだ。

「先ずね」

 そう言って、更にアイスティーをひと口。何処までも勿体を付ける美樹は、その仕草だけで可愛らしいのだが、恐らく、当の本人はそんなことはまるで意識していないはずで、ただ僕に質問されて、それに答える自分、そして、面白話をした後の僕の反応を想像して、それだけでもうワクワクが止まらないのだ、恐らく。

 今日は、僕は何処までもそれに乗っかる。

「勿体付けずに、早く教えてよ」

 僕が急かす。

「いいわ。そう、さっきも言ったけど、その台湾リスを見かけたのって、昨日が初めてじゃないのよ。実は、先週も、先々週も、同じ曜日、そう、金曜日の午前十時頃、もちろん同じ場所で」

 僕は「うん、うん」と相槌を打つ。

「一番最初に会った時は、本当に急なことだったから、そうなの、急にあたしの目の前に飛び出してきて、あたしはつい『キャッ』って叫んで、思わず蹴っ飛ばしそうになっちゃったんだけど、あっちは全然気付かなかったみたいで、そのまま走って素通りよね。そして、自分の家?うん、きっとそうね、大きな木の根元に、本当に扉みたいな、絵本で出てく風の、楕円形を半分にした感じって、分かるかな?こんな形」

 美樹がそう言って、両手の指で楕円の半分の形を一所懸命作って、僕に説明しようとするのだけれど、どうもその形が上手く作れずに、四苦八苦しながら「ね?分かる?こんな形」と、もう一度念を押すように僕の目を見詰め返すので、僕は「うん、大丈夫、よく分かるよ」と答える。

 すると、美樹は安心したように、更に話を進めるのだ。

「そしてね、そのお家の入り口の前で、立ち止まって振り返って、こっちを見たの。あたし、またびっくりしちゃって、また『キャッ』って叫んだら、今度はあっちも気付いたみたいで、暫くお互い目が合っちゃって、二人ともジッと身動き出来なかったんだけど、彼?いえ、彼女ね、それは今日分かったんだけど、またそれは後で。そう、だからその時はまだあたしの中では彼、ね。彼は、あたしが何も悪い感情を持っていないって分かったみたいで、ちょこんって会釈をして、お家の中に入って行ったの。あたしは、本当はそのお家の中を覗いてみたかったんだけど、でもね、初対面じゃない?そんな時、いきなり相手のお家を覗きに行くのも、何だか失礼な気がして、その日はそのまま帰ったの」

 そこで一息つく美樹に、僕は今の自分が出来る最大の微笑みを投げ掛け(上手に出来ているかどうかは、自分では分からないけど)、「そっかぁ、初対面だしね、きっと僕だってそうしたと思うよ」、そう言って彼女に同調をしてみせる。

「でしょ?そう、和也くんもちゃんと分かってきたじゃない。あたしがいつだって言ってる、決して相手に対して失礼なことはしちゃいけない、ってこと」

 美樹は嬉しそうだ。取り敢えず、僕の回答は合っていたみたいだ。

「何処まで話したっけ?あ、そうそう、まだ初日にその人、あ、台湾リスのその人に会っただけだったわね。それでね、次はもう先週の話なんだけど、先週の金曜日も、やっぱりあたし、薬局でお薬貰って、何故だか同(

じ時間に、同じ場所を歩いてたの。さっきも言った、駅の裏の川沿いの道を」

 さっきは「川沿いの道」とも言ってなかったし、「薬局でお薬を貰った」部分も無かったけれど、そんな事は気にすることでもない。僕にも、美樹にとっても。

「でもね、先週は、もうあたしには分かっていたの。その前の時とおんなじように、あの人が現れるってことが。そうしたら、案の定、あの人、先々週と全く同じように、あたしの前を大急ぎで走り去ろうとしたの。でも、あたしももう知ってるじゃない?そういう風になるってことを。だから、あたしはあたしで、ちゃんと立ち止まって、あの人を決して蹴っ飛ばさないように、そこで待っていたの。そしたらどうよっ、走って通り過ぎようとした彼が、あたしの前で、慌てて立ち止まって、こっちを見て、とってもちっちゃな声で『ども』って言うじゃないっ。実は多分、あたしだけじゃなくって、彼もあたしがそこに居るって、そんな予感がしていたんだと思うわ。でもあたし、またビックリしちゃって『キャッ』って、思わず叫んじゃったの。そしたら彼ったら、その私の声に驚いたように、ピョンって飛び跳ねて、それからまた一目散に自分のお家の方へ駆けて行ったの。お家の前でもう一度あたしの方に振り返って、今度はなんて言ったかよく聞き取れなかったけど、何か小さく口を動かして、多分、『では、また、ごきげんよう』って、言ったんだと思うわ。きっとそうよ。だって、口の動かし方と、言葉の数がピッタリだったんだもの」

 そう言って美樹は、自分でも再度納得したように『うん、うん』、と、頷くような仕草をして見せてから、今度は僕に『ね?貴方もそう思うでしょ?』とばかりに目で合図を送って来る。

 勿論僕はそれを否定せずに、両の眉だけ動かして、それに答えるのだ。

 美樹と僕の目が合い、暫し視線を合わせたまま、僕はこのまま時刻ときが止まればいいのに、そう思ってしまう。

 美樹の嬉しそうな、そしてちょっと悪戯っぽく、それでいて優しく可愛らしいその瞳を、ずっと見ていたいと思う。

「それでね、今日の話なんだけど」

 美樹は突然に話し始める。僕は視線で、話を促す。

「そう、今日はね、あたしから話し掛けようと思って、初めっからちゃんと準備をしておいたの。昨日までずっと、最初の言葉は何にしようかしら?って考えていたんだけど、そこは何となく良い言葉が思い浮かばなくって、結局『ごきげんよう』って言うことに決めて、後はプレゼントよね。折角、初めてお家に招待して貰うんだから、そこはちゃんとしておかないと。初めは薬局の向かいのお花屋さんで、お花を買って行こうかしら、って、そう思ったんだけど、それは止めたわ。何故って、お花の趣味って、人それぞれでしょ?色の好み、香りの好み、地味なのが好きな人とか、派手好きな人とか・・・。それにね、あんまり大きな花束だと、初めてのお宅に行くのに、相手から却って恐縮されちゃうんじゃないかって、そんな風にも思って、結局、お花屋さんの隣のお店で、クッキーを買ったの。だってほら、クッキーだったら、嫌いな人って居ないじゃない?それにクッキーなら、紅茶にも合うし、コーヒーにだって合うでしょ?それから、子供が居れば、ミルクにだって合うわ。だから、クッキーにしたの」

「そうなんだね。クッキーは良いチョイスだと、僕も思うよ。ところで、そのクッキーはどんなクッキーだったの?君の好きなチョコチップかい?」

「ううん、今日は違うの。あたしはチョコチップが好きだけど、それじゃ自分が好きなものを買って行っただけで、プレゼントにはならないから、今日はバタークッキーにしたわ。でもそれで本当に良かったのかしら?」

 僕は一瞬『どうだろう?』と答えそうになってしまった。そして、喉まで出掛かったその言葉を飲み込むのだ。


 医師が言う。

「曖昧な返答は、極力避けてくださいね」

 僕はうなだれたまま、黙って頷く。

「どうしても返答に困ったときは、『何で?』とか『どうして?』とかではなく、ハッキリと『分からないから、教えて』というような会話を心掛けて、美樹さんの話を促すようにしてあげてください」

 医師の言葉を聞きながら、僕はまだ顔を上げることが出来ずに、ただ小さく「分かりました」とだけ答えたが、実際には何が『分かった』のか、自分でもよく理解していなかった。

「それと、あとは、お子さんのことですが、表層の意識では『忘れている』或いは『覚えていない』と思われますが、いつか、どこかのタイミングで、そのことを思い出される可能性が充分にあります。勿論、思い出すこと自体は、ご主人や、周りの皆さんにとっても喜ばしいことではあるのですが、その時に、どういった状態になるかは、それは私にも分かりません。ご主人も、その時には、慌てること無く、直ぐに、私のところ、若しくはそれなりの施設にご連絡ください。ハッキリしたことは申し上げられませんが、恐らく、思い出した時には、ご本人が混乱される可能性が高いのです。ですから、ご主人も、その時は落ち着いて、応対なさってください」

「美稀は・・・、美樹はもう、治ることは・・・元に戻ることは、ないんでしょうか・・・?」

 僕は乾ききって、何か綿のようなものが詰まっている感覚さえして上手く動かすことの出来ない喉の奥から、掠れた声を絞り出すように質問をする。

「・・・・・」

 今度は医師が黙ったまま、僕を見詰め返す。

「ダメ・・・なんです、か・・・?」

「いえ、決まった訳ではありません・・・。が、実際に、私共にも・・・。ただ、過度な期待は・・・。それでも、私たちも、お薬の治療を含め、プログラムを組んで、時間は懸かるかもしれませんが、出来る限りのことはやっていきます。それには、やはり、ご主人、ご家族の協力がとても大事になって来ますので、力を合わせて、やっていきましょう」

 そうか・・・。『過度な期待は・・・』か・・・。そうか・・・でも、ハッキリ言って貰って良かった・・・。

 美樹と僕には、二人以外、家族は居ない・・・。あの日以来・・・。

 美憂みゆうと、幸樹こうき・・・。

 その日は、僕はどうやって家に戻ったのか、後になっても、全く思い出せない。


 ふと、あの日の医師の言葉を思い出していた。

 どうにかここまでやって来た、そういう表現が正しいのか、それとも何か他に言い様が在るのだろうか。

 特に何かを意識して、一所懸命に生きて来たのとは違う気もする。

 決して流されるままの日々でもなかったし、しかし、だからと言って努力して何かを変えようとし続けてもいない。『努力』とか、『変革』等と言う言葉は、他人が使う分にはどうということはないが、僕がその言葉自体を使わなくなったのは、あの日から一年くらい経った頃だろうか。

 そして、『奇跡』が起こらないということも、今は何となく理解している・・・。

 それでも、僕は美樹と二人、こうして、ここまでやって来た。やって来てしまった。やって来られた・・・。

 あの日から、もう、五年か・・・。

 あの子たちも、生きていれば、小学校二年生なんだな・・・。ミユウ・・・コウキ・・・、君たちは、今、どうしているんだろう?ママとパパを見守っていてくれるのかい?


 一瞬、過去と現在の意識が交錯し、窓際のレースのカーテンがふわっと揺れたのと同時に、美樹の視線を感じて我に返る。

「ねぇ、和也くん、どうしたの?まだお話の途中だよ。ここからが今日のお話で、面白いところがたくさん在るの。良い?話して」

「ああ、そうだね。そうそう、バタークッキーは大正解だったと思うよ。きっとその人だってとても喜んだんじゃないかな?ね、そうだったでしょ?」

 僕の問いかけに、美樹はちょっと不思議そうな顔をしてから、「そうね」と、実に素っ気ない。もう既に『クッキーのくだり』はどうでも良いか、それとも忘れてしまったか・・・。

 でもそんなことは、僕にとっても、大した問題ではない。気にすることもない。

「そしてね、とうとう今日ね、彼が、『彼女』だったことが判明したのっ。そうっ、彼は『彼』じゃなくって、おかあさん、だったのよっ。そう、『彼女』だったの。分かる?あたしが言ってること」

 そう言ってクスクス笑いをする彼女に、僕は「うん、分かるようで分からないから、その先を教えて」と笑顔で返す。

「いいわ、教えたげる」

 そう言って美樹は話を続けた。

「今日もね、いつものあの場所で、あたしが立ち止まって待っていると、彼は、あ、まだこの時はあたしの中では『彼』ね。彼は、いつものように、いえ、いつも以上に慌てて駆けて来たわ。あたしは先週と一緒で、決して失礼が無いように、挨拶する準備をしていたの。そしたら、彼ったら、あたしの前で、止まるか止まらないか分からないくらいのスピードで、ちょこんと会釈だけして、一目散にお家の方へ駆けて行ったの。違うの、それが失礼だって言いたい訳じゃないの。だって、彼、大慌てだったのよ、それでね、口の右端から、尻尾を生やしてっ」

 美樹は自分で言っていて可笑しくなったらしく、今度は小さくだが声を立てて笑い出す。

「ごめんなさい、思い出したら、可笑しくなっちゃって。でもね、尻尾って普通、お尻に生えてるものじゃない?それが、お口の端から、あのもふもふがピロンッって・・・」

 どうも思い出す映像が可笑しすぎるのだろう。クスクスと笑いが止まらず、美樹はそれ以上話し続けることが出来ない。

 そんな美樹の様子を見ながら、僕もその台湾リスの出で立ちと、それに目を奪われる美樹の姿を想像してみる。

 ・・・白いフレアスカートの両足をきちんと揃え、ハンドバッグを両手で身体の正面に携えて、日傘替りの麦わら帽子は、ちゃんと表情が相手に見えるように、少しだけつばの部分を上に向けている美樹・・・。そして、美樹がお辞儀をしようとした瞬間に、その目の前を、凄いスピードで駆け抜けていく台湾リス・・・然も、口の右端から尻尾をピロンッと生やして・・・。

 音もなく、古い無声映画みたいな映像が、僕の頭の中に浮かび上がり、それは何だかコメディみたいで、つい僕も笑ってしまう。

 そんな僕を見て、美樹も嬉しくなったのだろう。

「ね、ここまででもきっと面白いと思うの。でもね、この先は、もっと可笑しいのよ」

 そう言った彼女は、笑いを堪えるようにして、続きを話し始めた。

「一度、お家に入ったその人は、直ぐにまたお家から出て来て、今度はちゃんとあたしの前までやって来て、ぺこりと頭を下げて言うの。『先ほどは、大変失礼いたしました。なにせ、坊やたちを家に運ぶのに手いっぱいで、主人は仕事で留守にしてますし、今日は私一人で、何から何まで』。あたしは思ったわ、いえいえ、失礼だなんて、お気になさらずに、って。でも、そう言おうとして気付いたの、あれ?お口から尻尾が生えていない、って。そうなの、尻尾が生えてたんじゃなくって、坊やを咥えてお家まで運んでたの。そして、彼は『彼』じゃなくって、おかあさんだから、『彼女』だったのよっ。それから、あたしは、ちゃんと謝ったわ。彼女のことを、『彼』って間違っていたこと、口から尻尾を生やした変な人だって思ったこと、それからいっつも会う度に『キャッ』って驚いちゃったことも、みんなちゃんと謝って、折角だから、謝りついでに、坊やたちをお家に運ぶのを手伝うことにしたの。でね、草むらから坊やたち二人を掌に抱っこして、彼女たちのお家まで運んであげたんだけど、可愛いんだよ、その子たちったら、あたしの掌の上で、もぞもぞしながらあたしの指を舐めてみたり甘噛みしてみたり、そして、すっごく温っかいの。心臓がとくんっとくんっって動いてるのも分かるの・・・」

 そこまで話すと、美樹は「ん?」と少しばかり眉間に皺をよせ、こめかみに指を宛てて口籠る。

「どうしたの?頭でも痛いの?」

 僕が声を掛けると。彼女はこちらを見て、こう言った。

「ううん、何でもない・・・。何かね、今、思い出しそうなことがある気がしたんだけど・・・。でもそれって、思い出しても良いこと、なのかな?って、思って・・・」



 僕の記憶も、断片的でしかない。

 家族四人で、初めての宿泊を伴う自動車旅行の帰り、深夜の高速道路を自家用のミニバンで走行していた。

 助手席には妻の美樹、後部座席の仲良く並んだチャイルドシートには幸樹と美憂がスース―と寝息を立てていた。

 そして、何の前触れもなく、いきなり後部から前方に凄い勢いで押し出されるような衝撃があり、車のハンドルは自由を奪われ、僕は何が起こっているか解らず、必死でハンドルを固定しようとするが、全く思い通りにならない。

 車がスピンしているのは分かるのだが、音も聞こえず、窓の外の景色がグルグルと回っている映像だけが、今も目に焼き付いている。

 恐らくは、美樹は悲鳴を上げていただろうし、車のタイヤはアスファルトと擦れてキリキリと鳴いていただろう。車両後部に追突されたときの衝撃音も凄まじいものだったに違いない。でも、僕はそれらの音を、全く記憶していない。

 僕らの乗ったミニバンは、フロント、側面を二度、三度と何かにぶつけながら、最後は僕の乗る運転席側を、ガードレールに沿わせるようにして停止した。

 嫌な予感がした。

 僕は慌ててシートベルトを外すと、助手席側に身体ごと伸ばし、その助手席のドアを押し開け、先ず、美樹を突き飛ばすように車外に押し出し、僕も直ぐに飛び出した。そして直ぐに後部座席のドアに手を掛けようとした瞬間、『ドカンッ』という爆発音と爆風に僕は吹き飛ばされてしまった。

 一度は仰向けに倒れてしまった僕は、それでも再び車に向かおうとしたが、誰かに羽交い絞めにされて身動きが取れなくなる。

 美樹も見ず知らずの誰かに身体を抑えられながら、燃えさかる車に向かって、泣きながら必死に叫んでいる。

「美憂っ、幸樹っ」

 周りの音は何も聞こえないのだが、その叫び声だけが、今でも耳に残って離れない。

 その後のことは、やはり、全く覚えていない。


 僕が病院で目を覚ましたのは、それから二日と半日経ったお昼前のことだった。

 そこが病室であることは直ぐに理解したが、自分の身体が全く動かすごとが出来ないことに面食らった。

 体中、酷い筋肉痛のよな痛みで、声を出すのも辛い。それでも、確かめなければならない。

 目の端に見える、後ろ姿の看護師に向かって、必死に声を絞り出す。

「美稀・・・、それと、こども・・・たちは・・・?」

 看護師は驚いたように振り返り、僕の方を見て、「今、先生を直ぐ呼びますね」そう言って僕の枕元にあるボタンを押す。ああ、恐らくナースコールのボタンだ。

 それから何やらチャカチャカと僕の指を何かで挟んだり、手首に何かを巻き付ける。

 僕は思う。そんなことはどうでもいいから、僕の質問に答えてくれ、美樹は?子どもたちは?しかし、それ以上、声は出ない。

 間もなくして、医師らしき白衣の男性が病室に現れた。

 僕はただ、美樹と子どもたちのことが知りたかっただけだ。だから必死で声を出そうとしたし、ベッドから起き上がろうとした。

 医師らしき男性が何か大声で叫ぶと、紺色の服を着た医師では無さそうな男性が病室に飛び込んできた。

 僕は何故だか、その二人に身体を押さえつけられ、身動きが取れない。

 腕にチクリと痛みを感じ、僕はそのまま、眠くなった。

 ただ、僕は、美樹と子どもたちのことが・・・。


 それから数日が経ち、僕は医師から、これまでの経緯と、現在の僕の身体の状態、それから、美樹が今何処でどうしているかの説明を受けた。

 子どもたちのことは、医師に訊いても答えてくれることは無く、そのことは、警察が「残念です」とだけ伝えに来ただけだった。

 僕は車椅子に乗って、毎日、一日に二回、美樹に会いに行った。そんな病院での生活が、二月ほど続いた。

 三月目に入って、僕は病院を出て、一カ月間、自宅で療養生活を送った。そして、毎日美樹に会いに行った。

 その間、美樹はずっとベッドに横たわったまま、目を醒ますことはなかった。

 やがて半年が経とうという頃、会社に復帰していた僕のもとに、病院から電話が入る。

「奥様、目を醒まされましたっ」



 美樹に、僕と美樹が夫婦だったこと、今も夫婦であることを伝えるのに、半年以上懸かった。そして、今も、それをちゃんと納得しているのかどうかは、本人にしか分からない。

 それでも僕は、それはそれで構わないと思っている。

 子どもたちの話は、当初、僕等が夫婦であることと同じくらい説明をしてみたが、彼女はその話を嫌い、その都度、頭痛が酷くなるようなので、それは半年も続けることなく、止めにした。

 自宅マンションにあった全ての写真は、片付けて、物置に仕舞った。

 裁判が行われるという通知が来たが、そんなことは僕等にとってはどうでも良いことのように感じたので、警察の聴取にだけ応じて、あとは全て知り合いの弁護士に任せた。

 美樹が自宅に戻って、二人だけの生活を始めて、四年になる。

 美樹も僕も、日々の生活には慣れたのだと思う。

 僕は会社に通い、美樹は家で好きに過ごしながら、買い物をして、料理を作る。たまに、二人で外に出て、レストランで食事にも行った。

 ただ、美樹の記憶は戻らないし、僕は、人の声以外の音が聞こえない・・・。


 彼女の記憶が戻らないことと、僕が音を感じないことは、神様がくれた、せめてもの優しさだったのかもしれない。

 僕等が、そのことを、ちゃんと受け入れられるようになるまで・・・。

 いや、神様じゃなくて、ミユウとコウキが待っていてくれていたんだ、きっとそうなんだ、ふと、そんなことを思う。

 ママのこと、もう少しだけ、待っていてあげて。きっと、きっと、僕が、パパが、君たちのことを思い出させてあげるから・・・もう少し・・・。

 涙が止まらない・・・。


 美樹も、泣いていた。

 そして、「あなた・・・、ごめんなさい」と言う。

 僕は「謝るようなことじゃないよ」、そう言って、彼女を見詰め返す。

 美樹は溢れ出す涙を拭うこともせず、瞬きさえも必死に堪えて、僕の眼差しを受け止めようとしていた。

「・・・あの子たち・・・」

 僕は美樹を両腕できつく抱きしめた。

「いいんだよ、あの子たちも、君を待っていてくれてたんだ・・・」

 精神科の医師は、美樹に子どもたちの記憶が戻ったら、直ぐに連絡をしろと言っていたが、そのような必要は無かった。病院へは明日にでも行けばいい・・・。

「辛くないかい?」

 美樹は僕の腕の中で、声も立てずに涙を流し続けているが、きっと彼女にも分かっているのだ。

「ゆっくりで、いいんだよ。ゆっくりで・・・」

「あたし・・・あたし・・・」

 僕は黙ったまま、美樹の髪を撫でる。


 僕は、ハッと、あることに気付いた。

 ああ、そっか、そうだったんだね。僕は・・・、パパは、勘違いをしていたみたいだ・・・。

 そうだったんだね・・・、今、分かったよ・・・。

 君たちは、ずっと、そこに居てくれたんだ・・・。

 パパは君たちが、どこか遠くで待っているって、そう思っていたけど、君たちはずっと、ママの心が壊れないように、そしてパパが寂しくならないように、ずっと、そこで待っていてくれたんだね・・・。

 美樹の涙で濡れた瞳を覗き込むと、美樹にも、それが分かっているようだった。


 いつの間にかすっかり暗くなった部屋に、開けっ放しだった窓から、少し強めの南風が吹いこみ、レースのカーテンが大きく揺れ、そして、カーテンレールのランナーが、『カチャカチャ』と音を立てた・・・。

 それから、その風は、ゆっくりと部屋を一周すると、そのまま、静かに、窓の外へと消えて行った・・・。

 美憂・・・幸樹・・・。


 僕と美樹は、いつまでも、風の出て行った、窓を見詰めていた・・・。





   おしまい

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そっか・・・ ninjin @airumika

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