第45話 日常に潜む怪異


 言離神ことさかのかみでは百鬼夜行の発生は防げない。


 神の側の問題ではない。この神はとても協力的で非常に珍しいことに人間を心の底から愛していた。読心の力――言葉を交わさない文字通りを使ったコミュニケーションで嫌というほど理解させられている。


 問題は俺自身にあった。


(願い事が漠然としすぎていたんだ。必要なのは百鬼夜行への理解。何が起こるのか自分でも正確に分かっていないのが決定的だった。この神であればならなんでも出来ると思っていたけど――――考えが甘かった)


 言離神は無言まいりの神として信仰されているだけあって、心が読める俺との相性は中々良い。願いごとに関する俺の浅はかな考えは口に出さずとも伝わってしまう。

 神いわく、俺自身がキチンと理解していない概念。百鬼夜行ことばそのものがあいまいだからで明確に願いを伝える事ができていないという事なのだ。


 目の前に佇む人間を愛する神は相変わらず笑顔を浮かべてこちら眺めている。

 実は、言離神にはもっと通りの良い名が存在する。


 一言主ひとことぬし


 どのような願いごとでも一言の願いならば叶えてくれると信じられている言葉の神さま。


(言葉の神だからこそ言葉というものを最も大切にしていて、それに縛られているなんて。今の時代百鬼夜行を直接目撃した普通の人間なんていない。噂、伝聞が残っているだけで実際何が起こったか詳細な内容を記した書物も存在しない。どうしようもないじゃないか)


 唯一の心当たりは空振りに終わっている。会社の同僚。普通ではない人。そもそも人と呼んでいいか微妙な人物。ひびき。彼女にはさとりの言づての内容が発覚したタイミングで相談を持ちかけたが結果は芳しく無かった。


 昔の響は俗世に関心をもっていなかった。当然、自分から積極的に情報を集めるなんて事もしていない。気が遠くなるほど長い時を生きていた響は記憶に所々欠落がみられる。彼女にとってどうでもいい記憶は既に失われておりその不死身の性質から百鬼夜行は脅威に値せず、それに関する事についても全く興味を持っていなかった。

 そもそも生きることに少しだけ前向きになり世間に関わり始めたのは彼女の基準でつい最近のことらしい。

 考えを整理した後に再び右目に意識を集中して一言主と無言の会話に取りかかる。


(大晦日の災厄――――ダメだ。必要なのは明確なイメージ。失敗した。あの人を右目で観察してから訪れるべきだった。そうすればそれがどういったものか分かる。明確に言葉とイメージが重なったはず。いや、無理か。心の深い部分を読み取るには時間が掛かる。それで気づかれたら終わりだ)


 今回、この百鬼夜行に関連すると思われる怪異の動きの活発化。それを手引きした者……黒幕が存在すると俺はにらんでいる。それは本当に身近に存在したのに今まで誰もが騙され気づかなかったこと。この件が片づいたら会社の全員で話し合わなければいけないことだ。


 黒幕にあたりはつけている。十中八九は黒。これはほぼ確信に近い。

 しかし右目で確認はしていなかった。時間もなかったし、相手にこちらが感づいている事を秘密にして切り札を準備したかった。下手に接触して気づいている事に気づかれる可能性も大いにある。だから黒幕に直接、をぶつける案は早々に諦めていた――――――そしてなにより俺はあの人を信じたかったのだ。しかし残念ながら疑えば疑うほどに疑念はさらに深まっていく。


 そもそも俺はこちらに明確な悪意のない人を見ないと自分の心に決めて生きていたからこそ自己を保てていた。人の身に怪異の目を宿すということ。いぜんのように無差別に右目を使っていたら自分の心が持たない。


 言葉と心。表情と胸の内。本音と建て前。


 そんな残酷な真実ばかり見透かしてしまっていたらきっと気が狂ってしまう。人の世界で生きていられなくなってしまう――――だから恐らくそれを、その弱点をあの怪異に利用されたのだ。


「ふぅ」


 これからの事を考えると気分が滅入ってくる。

 結。仙狸。縁。黒木。響。譲。繋。所長……いろんな人達との過去の出来事が頭の中で浮かんでは消えていく。

 何もかも投げ出して逃げてしまいたい。自分のことを誰一人知らない場所に行ってそこで誰とも関わらず静かに暮らしていきたい。そんな考えが頭を過った時ふと、視線を感じて背後を振り返った。


 結と仙狸。こんな場所までついてきてくれた二人は何も言わない。お互いその瞳は不安で揺れている。当然だろう。まったく同じ外見を持つ一団とずっと無言で対峙しているのだから。状況はまるで理解できないはず…………それでも二人は黙っている。俺のことを信んじてこの場を任せてくれているのだ。


 信じるという事はとても勇気のいる事だ。訳もわからず相手の事を肯定し信じ込む盲信とは意味合いがまるで違う。他人を信じるという事は一度自分の中で疑問を持ち、考えた結果の末にそれでも相手に信を置くと自分自身で決断するという事なのだから。


(まだ信じてみたい人たちが残っている。俺も――もう少しだけ頑張ってみよう) 


 内心気合いを入れ直し、一言主に向き直った時だった。先日懸念していた縁の悪夢、その内容。今回の遠征の発端となった一連の出来事。

 扇。あれを元々所持し、好き勝手やっていた暴虐の神と目の前で静かに佇む神は世間ではあまり知られていない関係ではなかったか。

 それは電撃的なひらめき。考えるまでもなく「それしかない」という直感。もし上手くいくのであれば究極の鬼札を手に入れる事が出来る。突き動かされる衝動に従いその願いを強く一言で頭に思い浮かべた。


「――――――――」

 

 その表情の変化は何を意味するのか。

 俺とまったく同じ顔を持つ一言主はここにきて初めてその表情を一瞬だけ変化させた。しかしその意味を考える間もなく瞬時に言葉の神は再び微笑みゆっくり大きく頷く。そうして現れた時とまったく同じように唐突に踵を返す。


 結と仙狸がいきなり状況が変化した事にギョッとして身を固めるが、その警戒を解くように彼女達とそっくりな姿をした神が一度だけ振り返り小さく手を振る。

 気勢をそがれ、どう反応したらいいか分からないのかそれを無表情に見つめる仙狸。口を開けたまま何も考えていないような顔で反射的に手を振り返している結。かの神が背を向けた瞬間、まったく心を読み取れなくなってしまったため願いごとの行方がどうなったかやきもきする俺。


 そんな三者三様の心の内など無視するように一言主はその場をゆっくりと後にしたのだった。


 それからなんとも言えない空気になった一同は、タイムリミットが迫っていた事もあり休憩を挟みながら山を下りる。


 黙々と歩みを進めているとようやく見覚えのある場所に出た。

 そこは登っている時に一番最初に休憩を入れたところで結が目印のかわりに落書きを施した場所。ここに着いたという事は目的地であるまでもうすぐに辿り着くという事を意味している。

 結もそれに気づいたのだろう。安堵から口を動かす。


「でもさぁ。そんなわけわかんない願いごとで良かったの? なんでも叶えてくれるんでしょ? もっと他にありそうだけどなぁ。神さまも意味わかんないから呆れて帰っちゃったんじゃない?」


「いいんだよ。あれで」


 結たちには道中あの神さまとのやりとりを大雑把に伝えてある。

 彼女達には無言で見つめ合っていたらそのまま引き返して行ったようにしか見えない。不気味で不安になるだろうと思っての配慮だったが……


(っていうか、そこツッコんでくれるなよ。俺も正直自信ないんだから。あまり不安を煽らないでくれ。あの時はあれが正解だと思ったんだけど、時間がたった今ちょっと勢いで決めちゃって少し悩んでんだから)


 さっきはアレがより良い方法だと思った。だが、考えれば考えるほどもっと他に良い方法がなかったのかと、決断に後悔という名の揺らぎが生まれている。

 それを誤魔化すように天を仰ぎ空を見上げれば、いつの間にか空の色は段々と赤みがかった青色に変化していた。


「あたしは悟くんを信じるから別になんでもいいけどね。それより帰ってからのパーティーが楽しみっ。少し休んだらすぐに準備始めるからねっ? 面倒な仕事は後! 後! 年末も大変なんでしょ? だったら、ちょっとくらい遊びを優先しても罰は当たんないって! 今年はずっと忙しかったんだから」


「わかったよ。それなんだけど……今回は俺の同僚にも声をかけていいか? 流石にこう何度も男が俺だけなのはキツい。結たちも知らない奴じゃないし」


 黒木の顔を思い浮かべながら結に提案する。せっかくだから奴にも声をかけよう。その後に控える本命の非常に厄介なお願いをしなくてはいけない。お詫びの意味合いもある。普段の黒木だったら断りそうだが声をかけた理由を事前に説明しておけばきっと参加してくれるはずだ。結や縁とも直接会っているためまったく面識が無い訳ではない。ハードルは低いはず。


「あのキャンプにきてたイケメンの人? 珍しいね? あたしは別にいいけど。あ。でもせっちゃんが苦手じゃなかったっけ。ねぇ? せっちゃんは大丈夫? あれっ。聞いてる?」


 俺たちの会話に参加せずに黙々と先導していた仙狸の耳はどこかせわしない。こちらの話に気を取られているわけではなさそうで、結の質問もスルーしながら彼女はついにその足を止めた。


「動いた」


「なにが?」

「何がだよ?」


 結と俺の疑問が声となって重なった。

 質問に答えず、珍しく高揚している仙狸はその足を再び前に進めながら俺たちに振り返って告げる。


「急ぐ。今ならきっと見れるから」

 

 今までは安全第一のペース配分で随分とゆっくりな進行だった。

 しかし、仙狸の足は人間の安全が確保できるギリギリの速度まで早められる。結と慌てて追いかける。

 

「運がいい。ボクの故郷がどんな場所か二人に見せておきたい」


 それは自慢のおもちゃを親に見せびらかしたい時にする子供がする表情によく似ていたため、彼女の行動を俺たちは咎めることをしなかった。


 そうやって急ぎ足の仙狸についていってしばらく経つと景色が微かに揺らいでいる場所に辿り着く。

 ここが入り口であり、出口。今回の旅の終点。

 普通であれば何らかの感慨が湧きそうなものだが一度目をそちらに向けただけで俺たち三人の足は自然とその場所を通り過ぎ、近くにある背の高い木が少ない見晴らしの良い場所に向かっていた。


 既に俺も結も気づいていた。だから帰る前にソレを確かめたくて仕方ない。結は単なる好奇心だろうが、俺は次回に備え少しでも危険となる要素を知っておく必要がある。仙狸が安全性を担保してくれるなら尚更だ。


 三人が注意を払っているそれは先ほどから徐々に聞こえるようになった音。そして振動。ズシン。ズシンと聞こえるその音が今ではやまびこのようにこの周辺の山々に反響している。最初はそのあまりの大きさで思い至らなかった。が、一定間隔で聞こえる音に心当たりが生まれてしまった。ありえない事だが巨大な何かが歩いている音に聞こえてしまうのだ。


 そして木々で閉ざされていた世界が開ける。

 あまりの衝撃的な光景にごちゃごちゃと心の中で考えていたその全てがふっとんだ。


「うあっ。え、うそでしょ……」

「…………すげぇ」


 太陽がない空は赤く染まりつつあった。

 それを背景にして立つのは圧倒的な威容を誇る巨人。対象との距離がかなり離れているにも関わらずその巨体は嫌でも目に飛び込んでくる。なにせ近隣に存在している山よりもさらに大きいのだ。比喩ではなく文字通り雲を突くほどの大きさである。


 ダイダラボッチ。


 世界各地で目撃例のある巨人だが日本にも相当昔から巨人の伝説は残っている。おそらく怪異として考えれば最古の部類に入るだろう。

 ダイダラボッチに関していえば日本の名だたる山々を作った事に加え足で踏ん張った後が沼となり、流した涙が湖となったという、その巨体に相応しい逸話が数々残っている。

 東京都の世田谷区にある代田橋だいたばし、埼玉県さいたま市にある太田窪だいたくぼはダイダラボッチがその名前の由来になっている事を考えるととても影響力のある怪異と言えた。

 

 夕暮れの中、山の合間をダイダラボッチが行進するのに合わせて仙狸が俺たちにゆっくり振り返る。その顔にはとても珍しい事にはっきりと分かる笑顔が浮かんでいた。


「悟。また来よう。今度は夜に。二人っきりで」


 呆然としている俺に、仙狸は悪戯が成功した時に浮かべるような顔で小さく笑いながら言う。

 その貴重な笑顔の背後に佇む規格外のスケールは多分一生忘れられそうにない。そんな赤く染まった景色を存分に脳裏に刻みつけながら、俺たちは太陽のない世界に一度別れをつげた。

 

 揺らいでいる場所をくぐれば当たり前のように存在する太陽と、ソレがある限り決して離れられない影が生まれる世界へ繋がる。出来上がったばかりの影に俺は視線を落とし、テンションの高い結の話を聞き流しながらいつも通りの日常へ帰還していった。


 数多あまたの不思議な出来事を経験して元の日常に帰還した俺たちは車で帰宅の途についた。用件も済んだのでとんぼ返りである。流石に疲れもあったので時折パーキングで休憩を小まめに挟みつつ結を自宅まで送り届けそのまま自宅に戻る。俺以上に気を張っていたであろう仙狸が目をこすり、あくびをしながら自室へ戻っていくのを見送ってから黒木に連絡を入れた。普段であれば電話をするのを躊躇ちゅうちょする時間帯だったが事態は火急を要するため戸惑いは無かった。


 すべてを話し終え絶句する黒木が落ち着くまでゆっくり待った後、これからについて二人で話合いを行う。付け加えるようにパーティーの誘いを入れると「そういう事なら」と二つ返事で了解を得ることが出来た。

 電話を終え、何か腹に入れようと立ち上がると急な立ちくらみに襲われる。


(やば、いな。流石に限界だ)


 連続の長距離のドライブに加え気を張りっぱなしの登山、神との邂逅など様々な事態に遭遇したため流石に疲れた俺は夜食を見送り翌日の夕方まで泥のように眠った。


 物音で眠りから覚める。カーテンを開けると空は夕焼けで赤く染まっていた。自室から出てみれば、居間の様子は女性陣の手によって飾り付けがなされ元の殺風景な部屋とは似つかない部屋に様変わりしていた。結の他に縁と座敷わらしの姿もキッチンの方に見受けられる。

 結が合鍵を使って侵入したのか、仙狸が招き入れたのか珍しく深い眠りについていた俺には分からない。そうこうしている内に黒木も合流し、慰労会なんだか早すぎるクリスマスパーティーなんだかよく分からない謎の親睦会が始まった。

 

 パーティーはこちらの想像以上に盛り上がった。結と縁が協力して手作りしたケーキは素人が作ったとは思えないような代物だったし、事前に準備していた山盛りの肉に仙狸は大興奮である。凄い勢いで消えて行く料理を黒木と雑談を交わしながらつまんでいると結が山での出来事を縁に向かって聞かせているようだった。


「でねでね。あたし達と全く同じ顔した幽霊を見つけたと思ったら、今度はマジあり得ないくらいデカい人が歩いてて……もうホント、マジでやばい。あっ! あぁっ。衝撃的すぎて写真とってくるの忘れた。ショック」


「うーん。何かよくわかんないけど、結ちゃんが楽しそうで良かったよ」


「いやぁ。でも本当に大変だったし疲れたんだから。そいや、縁ちゃんの方はどうだったの? ケサラなんとかっていうの捕まえにいったんでしょ?」


「うん。なんと言えばいいのかなぁ。言葉では説明しづらい感じになっちゃってて……実際に家にきて見てもらった方が早いかも。結ちゃん明日、学校終わったら時間ある?」


「もち。いいよ。縁ちゃんの家に行く前にちょっと寄り道してクレープ買っていい? なんか美味しいって話題になってる場所があって……」


(大分盛り上がっているな。この様子なら大丈夫だろう)


 視線を巡らせれば仙狸はパーティーが始まってからずっと食べ続けているし、座敷わらしも皆を眺めて楽しそうにしている。


(さて。いくか)


 黒木と視線を交わしどちらかともなく立ち上がる。お互い外套に手をかけると一瞬周囲から注目を集めるが、不自然にならないよう事前に用意していた台詞を口にした。


「……料理と飲み物が少なくなってきたと思って。俺と黒木は追加の食材の買い出しに行ってくるからあんまりハメを外すなよ。少し時間が掛かるかもしれないから何かあったら携帯に連絡してくれ」


 目的地のスーパーをつげればどこか納得したような反応を示しながら各々が俺たちへの関心を失った。再び居間には穏やかな空気が戻ってくる。部屋から響く賑やかな笑い声に見送られながらゆっくりドアを閉めた。


 太陽の照らす暖かく優しい時間はこれでおしまい。これから始まるのは浮かび上がった影と向き合う時間。助手席に座り運転する黒木の横顔に目を向ければ、能面みたいな真顔が張り付いていた。きっと自分もそんな顔をしているのだろう。もちろんスーパーは当たり前のように素通りし二人とも視線さえ向けなかった。

 無言で運転する黒木に一言断りを入れた後、同業他社で顔見知りの人物に連絡を入れる。

 情報の共有を終え、しばらく話した後に電話を切った。厳しい表情でずっと正面を睨みつけるようにして運転していた黒木が口を開く。


「……どうだった」


「完全に知らなかった――――黒なんだろう」


「そうか……残念だ。そういえば彼女には声をかけなくてよかったのか?」


「アイツ結構前から楽しみにしてたんだ。声なんて掛けられないだろ?」


 はしゃいでいた仙狸の顔を思い出す。出会った当初より本当に表情が豊かになった。

 これからの事を考えれば連れてきた方がいいのは確かだ。でも今日一日くらい暗いことは何も考えず純粋に楽しんでもらいたかった。それは黒木にも伝わったのだろう。


「……それもそうだな。あの子があんな風に笑うとは思わなかった」


「ああ」


 結たちの学校が創立記念日で休みだとしても世間一般の人々にしてみれば普通の月曜日の夜。十二月の街は既にクリスマスへの準備を整えはじめ、所々イルミネーションで飾り付けられ普段よりも夜を鮮やかに照らしている。出来る事もなくなりボーッとそれらを眺めているうちに車はついに目的地である会社に到着した。


「じゃ、行ってくる。念のため言っておくけど、ちゃんと起きてろよ?」


 鬱屈とした空気を改めるためにそう茶化しながら黒木に声を掛ける。

 はじめから結果は分かっていたが黒木はニコリともしない。彼はただ通話中の状態のスマートフォンをスピーカー設定にして、腕を組んで目を閉じたまま頷くだけだ。

 そうして車の中に黒木を残し、俺は気が重くなりながらも一人で会社に向けて足を進めた。



「お疲れ様です。こんな遅くまで本当に大変ですね」


「おお。悟か。お疲れ」


 会社の中に残っているのは所長一人しかいなかった。時刻は夜八時になろうかという頃合いで元々少数精鋭の会社である。事務員などを除いてバックアップやサポートを担当する人間は非常勤の者が多いし、俺たちのように特化している専門職は会社の中で仕事をするより現場に出ている時間の方が長いのでなにも不思議な事ではない。こんな時間まで会社に残って作業している所長がおかしいのだ。

 所長はパソコンに顔を戻し仕事を再開しながら口を開く。


「早速で悪いが付喪神の件はどうだった? ちょうどお前にメールを送ろうかと考えていてな。手間が省けたよ。簡単にでいいから報告してくれ」


「ええ。万事上手くいきました。想像以上の成果を出せたと思います。会社の人間が一丸となって取り組めば百鬼夜行なんて発生前に潰せることでしょう」


「なに? それは素晴らしいな。是非詳しく教えてくれ」


 所長は作業を中断して立ち上がり再びこちらに顔を向ける。

 その顔には人好きのするとても良い笑顔が浮かんでいた。


「ええ。ところで、所長。それをお伝えする前に俺からも確認があったんですけど」


「ん? どうした?」


 

 口調は何でもない事を聞くように。


 しかし、聞かなければいけない内容は今までの心地よい日常を完全に破壊する一撃となる……言葉の弾丸だ。


 気づきの報告。


 もとい、そのを始めるとしよう。



「貴方が手引きしている百鬼夜行。計画は順調に進んでいますか?」


「…………おいおい、何を言っ――――いやぁ。参ったなぁ」


 彼を初めて右目で真っ直ぐ見つめる事で、その言い訳を正面から切り捨てる。


(――――知りたくなかったよ……こんなの)


 最近、鈍い頭痛がある。頭の中で同じ言葉がずっと反響しているのだ。

 それは先日、関西の遠征に行く前の出来事。会社の駐車場に残っていた結が何気なく口にした言葉。それがいつまでも耳にこびりついて離れない。


『さっきお市さんも一緒に連れていったじゃん? だからね……見えなかったの。あたしには悟くん達が建物の前で立ち止まって――会社の壁に向かって話しているように見えたよ? でも居たんでしょ? あそこに。違った?』


 振り返ってみればおかしな事は山ほどあった。


 遅々として進まない百鬼夜行への対策。

 被害が直接出るまでは先手を打って行動しない対症療法的な怪異への対応。

 彼の手の中で握りつぶされた不都合な情報の数々。


 相手に疑問を持つ事を許さず、無意識に信頼してしまう不思議な空気。


 所長という立場のみの呼称。誰も彼の名をしらない。


 決して名を明かそうとしない不審人物を誰も疑う事ができない矛盾。


 部屋を出ると誰も記憶できなくなる、あやふやな人相。


 全ては、人の認識というシステムの改竄かいざん

 見える人や憑かれた者など特定の人物には絶大な効力を発揮する一方、人化ではないためそもそも見えない人にとっては効力を発揮しない力。なぜなら見えない人間に自分の人相を誤魔化したり、信頼させる必要はないのだ。見えないのだから。結のように状況によって見えたり見えなくなったりするイレギュラーな存在など想定の埒外らちがいだろう。


 今考えてみればお市さんを引き取ったのは非常に幸運な事だった。でも、それだけじゃ足りない。今は見えないが過去見えた経験のある結といわくつきの不気味な市松人形でしかなかったお市さんのえんが繋がる事で、人形の持つ不思議な力の発見に繋がったのだ。


 なにより決定的だったのはアマビエの予言である。


 『むぼうに、きをつけろ』考えもせずに行動を起こす無鉄砲という意味の無謀むぼうではない。



 正しくは無貌むぼう。意味するそれは――――顔無し。顔が……無い者。



 瞬間、頭の中でパズルが組み上がるようにすべてが繋がった。どこかボンヤリとしていた勘ぐりは怪異アマビエの裏付けにより強烈な疑問へと変わり、その強い不信が歪められた認識の壁を打ち破った。



 その正体は何者になることも出来ながら何者でもない者。



 長い間人間社会に溶け込み、信頼を得て、怪異に関わる人間達の業界で絶大な地位を得た。裏で暗躍して人知れず悪行を重ねる怪人。日常に隠れ潜み徐々にその支配を広げていった妖怪。その者の名は



「人心を惑わし、顔を自由に変えるもの。そしてその本質は何も無い顔面の持ち主――――のっぺらぼう。所長。それが貴方の正体だ」



 俺が所長に向かってそう告げた瞬間、彼の顔についていた全てのパーツはまるで初めから存在していなかったように綺麗に消失した。






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