第38話 結と狸

 

 彼女が蛇に魅入みいられるよりもずっと昔から、獣は彼女の事をずっと見ていた。

 たたりとも違い、呪いでもなく、そしてくこともなかった。


 同族にも早々に見切りをつけられ、死の寒さと孤独で震えていた自分をただ一人――――救おうとした。明確な敵だったはずの人間、その子供。


『……わんちゃん……死んじゃった』


 真新しい服や自らの腕が血で汚れる事など、彼女は全く意に介さずその亡骸なきがらを抱き上げる。

 後ろから追ってきた大柄の男性が、静かに涙を流す孫の様子を見つめながら語りかけた。


『結。その生き物な、犬に似てるかもしれんが犬では無いんだ』


『わんちゃん、じゃない?』


『――だ。明るい時間はお休みしているからな。直接見たのは初めてだろう?』


 生きるためだけに日々生活する獣には全く理解できなかった。

 なぜ、薄汚い己を気にせず抱き上げ涙を流せる? どうして仲間にも見捨てられた自分を救おうとする?


『…………お墓、作ってあげたい。ちゃんと、天国にいけるようにしてあげないと』


『……そうか。じゃあ、じいちゃんと一緒に作るか』


『うん!』


 はじまりは死ぬ瞬間の強烈な疑問から。

 最期の瞬間、頭の中はそれらの疑問で埋め尽くされて……直前まで感じていた孤独、死への恐怖、命が消えていく寒さ、その全てを獣は忘れてしまっていた。


 刹那的な彼女への思い。元々、獣自身に脈々と受け継がれていた種族的な怪異との相性。ひとつの命が失われた瞬間、確かにあったはずのその二つは遭遇した人間の名の力により結ばれて、そこに一匹の妖怪が誕生した。



 月日は巡り、人間という生き物の在り方を知れば知っていくほどに、獣の彼女への思いもまたゆっくりと変わっていく。


 彼女を見続けてから数年たったある日、あの蛇に目をつけられたと知った時は心の底から恐怖した。怪異として生まれ直し数年の、まだ力の弱い自分には何も出来ない。精々が妖怪として元々備わっていた力――祭囃子まつりばやしで解決できそうな人を呼び寄せることくらいである。


 獣はほとんど無意識にいろんな人間に助けを求めた。救難信号を送り続けていた。

 心を宿す物の怪を使う彼女の保護者。海の匂いを感じる永き時を生きる魔女。神秘の右目を持つ若い男性。

 自身が人たちが彼女を守るためにその命を文字通り削りながら奔走している。


 もはや助からない自分を見限ったかつての仲間たち。

 もはや助からないはずの彼女のためにその命をかけて、抗おうとする彼女の仲間たち。

 獣と人間。在り方の違い。


 もちろん、長い間、彼女と周囲の人間を観察し続けてきた獣は全ての人間がそのような行動を起こせるとは思っていない。


 だが……自分の元同族に自分の命を差し出してまで他者を守ろうとした者が果たしているだろうか? 

 目の前で繰り広げられている、ありえない出来事を凝視する。


 それは彼女の保護者――つなぐが失踪した翌日の光景。後日、彼女が周囲に語った幻の邂逅かいこう

 怪異として生まれ直した獣の目を通して見ても、理解できない不思議な光景だった。彼女の頭に手を置きながら繋は言葉を交わしている。


 獣の目で見た限り既に彼の肉体は失われている――あれではもう、現世に留まっていられる時間もほんの僅かしかないだろう。

 だが、以前と比べひと目で分かる違いがあった。そのむき出しになった魂が燃えている。消えかけたろうそくの火が、一瞬激しく燃え上がるようなその輝きは、事情を知らない者がみれば……まるで魂だけの存在であっても生前と見分けがつかないほどに。実体を伴っていると錯覚しそうなほどその魂は燦然さんぜんと輝いていた。


『え? どっかいくの? 帰ってくるんだよね?』


『悪いな。父ちゃん、母ちゃんの言うことちゃんと聞くんだぞ? 好き嫌いせずしっかりメシ食べろよ?』


 研鑽けんさんを欠かさず、豪快な性格ながら己に厳しく生きてきた繋は付喪神、経凜々きょうりんりんに選ばれた事から分かるように清廉せいれんな魂を持っている……荒ぶる神にとってそれは、その気を鎮める最高の供物になるだろう。


『――口約束じゃ、ちと不安だからな。お前だけはキッチリ連れていくさ』


 彼女の頭から繋の手が離れ、人間の耳には聞き取れないような声量で呟かれた言葉が獣の耳に届いた瞬間、獣は確かに見た。

 彼女の根本に絡みついて離れなかった蛇が彼に乗り移ったその姿を。


 用は済んだとばかりに繋が彼女に対して背を向ける。

 彼女は事情を理解できていないようで、困惑しながら繋の背中を見守っていた。


 彼女に背を向けたことで、ずっと様子をうかがっていた自分に繋が気づく。


『おっ? そうか。半人前の悟じゃ、少し不安だったが……お前もいたんだったなぁ。ふっ。半人前が、力を合わせてしっかり結を守ってくれるなら、俺も安心して後の事を任せられるってもんだ。ああ。良かった……これで心残りは何も無い……じゃあな――――頼んだぞ』


 そう彼は微笑み、朝の日射しに溶けていくように蛇もろとも消えていった。

 胸に湧いたこの感情を獣は知らない。だが、蛇の件では何も出来なかった無力な自分が――何かとても大切な事を託されたのだとその事だけはハッキリ分かった。



 あれからまた月日は流れ、現在。

 彼女は今も蛇の後遺症によって苦しめられている。


 彼女と出会って十年。きっかけは……ただの疑問から。しだいにそれは興味となり、人間を理解していくにつれてその感情は親しみに変わっていった。


 そして今……あの日、未だに言葉では言い表せない、野生の世界では存在することがなかった繋の献身という価値観に魅せられ、心身ともに獣という殻から解き放たれたソレは、繋の最期を看取った唯一の存在として、彼の意思を繋いでいく者としての自負がある。


 十年かけて人間を学んだ。社会、ルール、その感情、何よりも彼女自身を。


 彼女――結を苦しめているものは精神的なもの。


 繋に対して別れの言葉すら告げることも出来なかった結は、自分が知らない間に守られていた事を、全てが終わった後になってから知った。

 蛇への恐怖より、自分が今後どうなってしまうかよりも……結の心の奥底に残ったものは大切な人に感謝の気持ちも告げる事が出来なかった、後悔の念。

 その刻みつけられた強すぎる感情は、蛇を目撃する度に引き起こされ、トラウマとなって未だに結を苦しめている。


 唯一、解決できる人間がいるとすればそれは……後悔の元となった繋。しかし、もう彼はいない。



 ――――だから、自分が彼になろう。



 託された願い、彼の意思を繋ぐものとして。彼女の心だけは救ってみせよう。以前彼女が……自分に対してそうしてくれたように。


 十年。人間への理解、ひいては結への理解においてこの獣は他の追随ついずいを許さない。


 そして古来より……人を化かし、だまし、惑わせるのは怪異となった獣――――たぬきにとっての本懐である。


 彼女に別れの機会を提供し、そのトラウマを解消して、今度こそ蛇の呪縛から解放する。

 見ていることしか出来なかった無力なあの時は違い、十年の月日と蓄えた力が狸を後押しする。実体がなく普段は見えない己の姿であっても、人化であれば結の前に姿を現すことが出来る。


 全ては結が、過去と決別して未来に歩き出すために……彼女を騙しきってみせるのだ。



 ――――狸は万感の思いを胸に秘めて、今まで幾度となく鳴らしてしてきた狸囃子たぬきばやしの音を響かせながら、怪異として生まれて初めての変化の力を行使した。





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