第36話 悟ると学校の怪 後編


 異様な光景が眼前に広がっている。それは現在、協力関係を結んでいる味方が作りあげた景色。


(――おぉ。すご。こんなん初めて見た。八尾さんだけでもお腹いっぱいだったのに、夏木さんもなかなか……もしかしてあの会社ってヤバい人しかいないのか?)

 

 

 普通であれば、何も無い空間で広げた経典は地球の重力に引かれ自然落下する。バサバサと地面に落ちることになるだろう。


 しかし……経典は空間に浮いている。自然の摂理に反した挙動。

 それどころか経典からその文字までも自我を持ったかのように独立し、浮かび上がったのだ。


 彼が広げた物は経文を象った怪異。名を、経凜々きょうりんりん。自我をもった経文――――付喪神である。


 それは……幼い頃からソレを持ち歩き、気持ちを込めて三六五日、日夜怠らずに読誦どくじゅできる信心深い人間にのみ扱うことを許された奇跡。

 経文に宿った付喪神だけあって、その内に秘められた力は凄まじい。


 とある伝承によれば自身に降りかかった疫病を跳ね返し、近しい者の死、その蘇生すら可能とした――人が扱える力を完全に逸脱した神秘。


 空間に浮かぶ経典がひとりでに広がっていき、繋が読み上げる声に合わせるように経文がおどる。

 浮かび上がった文字は教室内で繋が指定したモノ、人の世に存在してはいけない異物めがけて飛んで行き、対象を埋め尽くしてその全てを覆うように張り付いた。


 繋が行使した付喪神は経文に宿った怪異。存在自体が矛盾した、怪異の存在を否定する怪異である。


 繋の読経により大量に生まれた文字が怪異に殺到する。みるみるうちにその輪郭りんかく曖昧あいまいになっていき、まるで対象そのものにモザイクをかけたよう……その文字ががれた時には夢か幻のごとく綺麗に消え去っている。

 それは断末魔の声を上げることすら許さない、まさに一方的な作業……掃除であった。


 怪異、青行灯と総称された様々な異変が、宙に浮かび上がった文字によって消失していく。


(おー。消しゴムで消されたみたいに消えていく。どんだけだよ……さて――――そろそろか?)


 異変を内包していた教室が浄化され、室内に静寂が戻る。


 あれほど自己主張の強かった机をはじめ、手や天井も全て元に戻るまでそう時間が掛からなかった。

 残心。彼に慢心はない。俺たちに背を向け、青行灯の取りこぼしがないように警戒を続けている。その大きな背中は、長い間この業界で活躍してきたことを感じさせる物であった。



 怪異で気をつけなければいけない事は不意打ち。即ち油断である。





 ーーとある怪異の視点ーー



 ソレはずっと逃亡の機会をうかがっていた。


 予想外の事態と展開。場に混沌を呼び込むのが目的だった己にとって既に八割方、計画は達せられており、事の成り行きは別にどうでも良かった。


 邪魔になるのは二匹。人間のオス。


 一匹はやたら勘の鋭い若い男。逃亡する機会を逸することになった元凶。忌々しい存在。

 一匹は摩訶不思議な攻撃手段を持つ男。青行灯ですら瞬時に消し去ってしまった手際、正面から挑めば絶対に勝ち目が無い。


 じっくり観察した結果、若い男は攻撃には参加しておらずそのすべも無さそうである。ゆえに……脅威になるのは後者。己に対して無防備に背を向けているこの男。


 これほどの手練れ、ばれてしまうのは時間の問題であり、増援が駆けつける前、手の内を知り離脱する絶好の瞬間は今、この時しか無かった。


 未だに教室内を警戒している男の方向にゆっくりと一歩踏み出す。若い男からは完全に死角になっている事を、横目で確認して懐からゆっくりとナイフを取り出す。後は自分達を守るように背をむけている男にコレを突き立てるだけ。


 歴戦の繋であっても、まさか守る対象までは警戒範囲に入っていない。


 刃を突き入れるため、踏み込む足に力を入れたその瞬間……怪異は文字通り、冷や水を浴びせられる事になる



 この現場には居るのは全員普通の人間では無い。





 ーー悟の視点ーー



「!? は? なっっっっ!?」


 だからこそ、最初からソレを警戒していた俺は、この怪しい先生にだけは悟られないように、ずっと使わずに隠し持っていた神社の御神水を一切の容赦なくその顔面めがけて投げつける。


「っ! ぐっ!? ――――っっっっ!」


 ジュっと火に水をかけた時のような音を聞いた。



 水をかけられた先生がナイフを取りこぼし、両手で顔を押さえてフラフラ後退する。

 指の隙間から苦しみと憎悪に染まった先生の瞳がにすーっと細まるのが見えた。

 それは猫などにみられる夜行性の生き物が、暗所で光りをとりこむための特徴的な瞳孔。人間の目で起こっていい現象ではない。それ以前に……もっと分かりやすい特徴が目に飛び込んできた。


「お前……そうかっ。変化。人化のたぐいか……」


「――――っ!」


 驚愕から立ち直った繋が、納得の表情を浮かべて先生に対して身構える。

 御神水をかけられた部分。その部分だけが乾燥した大地の亀裂みたいにひび割れている。それは鱗。人類にあっていいものでは無い。


 夜行性の生き物にみられる縦長の瞳孔。魚類や爬虫類などに多い体全体を覆う鱗……コイツの正体はヘビ。ヘビの妖怪――――アカマタ。


 アカマタは人をだますことで有名なの妖怪。


 特徴として美男美女にに化け、言葉を巧みに使い、だましておとしいれることを得意としている。女性には変化で自身の正体をいつわり、その話術を使って信頼させ、おのれの子供を産ませたり……時には人を殺害してしまったりと、あまり良い印象がない妖怪だったりする。

 巧妙な変化を使い、人をおとしいれるタイプはそれだけで脅威である。特にこのような混沌とした場では見破る方法はほぼ皆無だ。


 だが……もしも、それさえ看破する事が出来たとすれば、コイツの取れる行動は……


「!? おいっ くそっ! 逃げるなっ。――――悟っ! 追うぞっ」


 こちらに即座に背を向けて教室のドアに向けてアカマタは駆け出す。

 逃走。この状況で人化を見破られたアカマタにできる唯一の悪あがき。人を変化で騙して話術で取り込む事に特化した妖怪にとって、最早この場所は死地であり、逃れる以外選択肢などない。

 それゆえにアカマタは脇目もふらず教室を飛び出していった。その足音が一秒ごとに遠ざかっていく。


「繋さん。多分、慌てなくても大丈夫ですよ。だって……」 




「――――はぁい。いらっしゃいませぇ。残念でしたねぇ」


「なっ!????」


 聞こえるはずのない声が廊下に響渡った。


「まったく、倉木ちゃ…………悟ちゃんは人使いが荒いねぇ。社会に出たら年配の人はもう少し労ってあげないとダメだよぉ」


 繋と一緒に廊下に顔を出せば、そこに居るはずのない人物……飛び降りた生徒を身体で受け止め、見るも無惨な姿になっていた八尾 響がアカマタを決して逃がさないように抱きしめている。


(――――間に合った、か)


 響の衣服にはいまだに、血まみれであり所々破れて目も当てられない状態だ。

 しかし、響本人はピンピンしている。彼女は人魚の肉を食べ不死身となったから。


(復活するまでの時間が分からなかったから、保険のつもりだったけど、上手くいって良かったよ)


 アカマタは必死に抵抗している。だが、首の骨が折れる痛みにも一切、躊躇ちゅうちょしない狂人のハグから逃れることはできなかった。目の前で暴れるアカマタなど存在しないように、彼女は笑いながら俺に対してウインクを送ってくる。


 その際、響が持っていた紙切れがヒラヒラとこぼれ落ちる。


 事情を唯一知らない繋が、響に近づいて行き、その紙切れを拾い上げた。


「おいおい。響さんがどうしてここに? ん? これはっ!」


 繋が内容を確認して目を見開く。


 見なくても俺はその紙に書いてある内容を知っていた。その紙にはこう記されている。


『四階へ。治ったら念のため待機。怪談ブームを広げ、時には意図して黙認し、怪異が発生しやすい状態にした元凶、黒幕がいる可能性あり。応援願います』


 それは落ちてきた生徒から断片的に読み取った情報。


 俺たちが到着する前、生徒たちしかいない現場で担当教師に擬態したアカマタがとった行動の一部始終と、生徒の目を通したここ数日の学校の様子……そこから導き出された答え。

 本来であれば、決して伝えられる事のなかったはずの情景は、神秘の右目により、出会った瞬間に白日の下に晒されていた。


 奇妙なかたちで種明かしが為された事により、場に沈黙が降りる。

 だからあえて空気を読まずに俺は、ため息を堪えて二人に向かって話しかけた。



「――――何て言うか、コレで俺が言った事少しは信じてもらえましたか?」


「ねぇ。悟ちゃん。わたしたちさぁ、とっても良いチームになると思わない?」


 アカマタを拘束していた響の返答を聞いて、今度こそ俺はひとつだけ大きなため息をこぼしたのだった。


















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