第31話 悟ると狸囃子


「おーい」



「…………」



 二階へ続く階段の奥、その先の暗がりから、成人した男性と思われる声が聞こえてくる。はっきりと聞き取れる音量でありながら、無機質で抑揚のない声色。壊れたカセットテープが繰り返し再生されているような、生きている物のあたたかさを一切感じさせない声音。



「おーい」



(さっきの叫び声で一階にいる事に気づかれたか。ついてない。まぁ、先輩は無事この家から逃げる事が出来たようだし……最悪の状況ではない)


 声は同じトーン、同じ間隔かんかくで何度も繰り返される。応答せずに無視を決め込み、階段から視線を逸らさないようにしてジリジリと後退していく。



「おーい」



 だがこの日は、とことん運に見放されていたようだった。

 物音を立てないよう、慎重に出口に向かい後退していたがこの暗闇である。気づかないうちに床に散らばった小さなガラス片を踏みぬいてしまい、「パキっ」と音のない空間に小さな……でも致命的な音が響いてしまった。



(……あ。しまっ)








「おい」







 ここに来て初めて男の声に感情の色がのった。残念ながら好意的なものでは断じてない。自身が求める相手が近くにいる事を確信して出る威圧的な声色。

 目を離したわけでは無いのに、気づけば階段の暗がりの中に真っ黒な人影が浮かび上がっている。距離は十メートルも離れていないだろう。人であるならば必ず聞こえなければならないはずの、階段を降りる足音は一切無かった。


 ソレは影としか言い様がなくその輪郭りんかくから、かろうじてヒト型だろうと推測できる。その黒い物体が、こちらに向かって右手を挙げてまるで挨拶でもするように立ち尽くしている。


「おいっ」


 常識的な判断をするのであれば、決してソレから目を逸らすべきではない。恐怖で身体は動かず、金縛りにあったように硬直し、声も出せなくなるのが全うな人間である。

 しかし、相対する者はそれなりに場数を踏んでおり、端的にいえばこのような状況にも……悲しい事だが慣れていた。



(…………そうか。なるほど)



 ここにいたのが普通の人間だったなら、哀れな犠牲者がさらに追加されただけであっただろう。多少霊感があって、ただの人間でもそれは変わらないはずである。


 その怪異にとっての不幸は、相手は普通の人間ではなく……その右目は相手の真意を見抜く妖怪の目であったこと。目の前の右手を挙げたまま固まる黒い影が、文字通りである事を即座に見抜いていた。



(本命は……背後っ)



 もし、この階段から呼びかける影に集中していたら、いつの間にか目の前の幻影を見失い、後ろの元凶にやられていた。それがこの怪異の在り方。

 影は現れた時のように音もなく消え去って、そして背後の存在に気づかないままあっけなく、いとも簡単に犠牲者は増えていく。


 死して尚、現世にとどまったモノは本来の在るべきかたちを忘却し、その形状に頓着とんちゃくしなくなっていく。そしてこのはこの惨劇さんげきを生んだ加害者の影。その元凶である本体が、真後ろにいることをその目でしっかり読み取っていた。


「このっ!」


 ふり向きざまに、ひそかに用意していたペットボトルの中身を狙いをつけずにばらまく。中に入った液体は、本日講義をサボってまで用意した御神水ごしんすいだ。

 神様がの神社ではなく、その目でキチンと現役で神様が神社を厳選して選んだ筋金入りでの御神水である。

 悟自身にお祓いをしたり、正式な供養をする技術はない。しかし、その右目で本物を見抜き同様の効果を持った道具を揃えることは可能だった。神様の神威かむいがしっかり込められた清水である。


 その効果は覿面てきめんであった。




「ヴぉ、ヴぷふう、……ヴヴ……ブブっ、ぶぷヴっっ」

『おーい。……おいっ!!!! ああっ……ごめんっ。……ごめんなぁっ』



「うっ」



 ソレは、既にヒトのかたちをしていなかった。

 死後、還るべき場所に還れなかった者の成れの果て。時が経つにつれ、生前の姿を忘却していき……最後に残った強い感情だけで、現世に無理にとどまっているモノ。もはや思考する力などなく、残った唯一の強い感情のみを原動力にして、反復運動のようにただ一つの行動をくり返す壊れた機械。悪霊。その妄念で被害者すら無自覚にこの世へとどめてしまった地縛霊じばくれい……それがこの廃墟に住み着いていたモノの正体だった。


 常人には理解不能で意味の分からない言葉を……その右目は正確に読み解き、さらに奥底の感情をはっきり映し出す。後悔、悔恨、絶望そして恐ろしい覚悟。



『何でも昔そこでな、一家心中があって……今や知る人ぞ知るスポットになってるって話』



 バイトの際、先輩が声を潜めて噂していた話が頭の中で反響する。

 

「ブブっ、ぶぷヴっっ」

『ごめんっ。……ごめんなぁっ』

 

 こぼれ落ちる眼球。その空いた空洞から血の涙をこぼしながらも、怪異は遭遇そうぐうした時から同じようにずっと許しをう。

 それはきっと自身に向けられたものではない……先ほど天井に並んだ三つの顔が頭の片隅によぎった。


「……。貴方にも苦悩はあったんだろう。後日、ちゃんとした方々に供養はお願いする。謝罪はで本人たちに直接言ってくれ」


 残りの清水を怪異に向かって振りけば、その霊はゆっくりと空間に溶けるように消えていった。最後までむなしい詫びの言葉を、誰かに向かって繰り返しながら。


 さっきの部屋に戻ってみると、天井の三つの顔は消えていた。元凶が去ったことで解放されたのだろう。同様の神社で手に入れて、使わなかった御神塩ごしんえん……清め塩を廃墟の一階部分に振り撒いて、その建物を後にした。



(ふざけるな)



 朽ちた家屋を振り返りながら、さっき読み取った一連の怪異の記憶を思い起こす。ここを訪れる前、今日神社で道具を探しながらも、この廃墟に関係しそうなニュースを調べていたが……記憶を見たことで確信した。


 あの一家の惨劇はこの廃墟で起こった出来事


 一家心中は確かに起こった。こことは違う別の場所で。



 どうして、別の場所で起こったはずの地縛霊がここにいるのか? 呼ばれたのだろう。


 どうして、廃墟の噂が最近になって広まったのか? 呼ばれたのだろう。そして廃墟の霊の一部に憑かれその噂は広められた。


 どうして、何のために呼ばれたのだろう? 恐らくこの場をけがれた場所にしたかったから。


 では呼ばれたのだろう?




(気に入らない。その姿だけでもこの目で見てやる)


 頭のなかで、自問自答しながら歩みを廃墟の奥……古い社へ向ける。

 この時の俺は、一つの案件を曲がりなりにも解決した事で少し増長していた。正確には廃墟の地縛霊に同情し、それを呼び寄せ、ただの道具にしようとした存在に腹を立てていた。それがどれほど危険な事か理解もせずに。


 微かに、だがしっかりと聞こえる祭り囃子ばやし。太鼓に笛の音色が合わさり、人間の無意識へ干渉し働きかけて、誘惑して人々を誘うで存在しない幻のお祭り。


 怪異、狸囃子たぬきばやし


 その狸囃子の特性を利用し、数多のモノを呼んだ諸悪の根源がそこにいるはず。

 ソレは廃墟の中にいる時ですら感じていた、信じられない最悪な気配。ただの怪異、妖怪には放てない……圧倒的な死の空気。




「ーーーーっ!!」


 猛烈な悪寒。洒落になっていない。コレと比べれば先ほどの廃墟に巣食っていた存在など、塵芥ちりあくたのようなものだ。その在り方が根本から違っている。



 そしてソレはそこにいた。



 年齢は中学生くらいの女の子である。本来であれば、活発であるのだろう。その痕跡こんせきを随所に残しながらもしかし、その顔には……なぜか出来の悪い能面のような無表情がはりついていた。その少女が、なぜか強く爬虫類を感じさせる感情のない瞳で、こちらを見下ろしている。


 時刻は草木も眠る丑三つ時。場所は心霊スポットとなっている廃墟のさらに奥。普通の人には見ることすら出来ず、普段から身近に怪異を感じる者にしか気づけない隠された神社。

 そしてなにより最低最悪なことに……その顔は、いつかどこかで見た面影がある。

 恐怖で身体が震える。だが、意を決して、そのおぞけの走る空気を放っている存在へ呼びかけた。



「……お前……だれだ? ………………なのか?」



 社へ続く階段の下から見上げる悟と、圧倒的な気配を振りまきながらも、感情の消えた蛇のような目で見下ろす少女。その視線の無言の交錯こうさくは長く続かなかった。



 判断を誤った代償は大きい。



 相対して姿をだけで保てなくなる意識と、かたむき崩れ落ちる自身の体を、どこか他人事のように感じながら、それでも少女の顔を記憶に刻み込む。


 その意識が完全に途絶える前……どこか場違いな車のエンジン音が耳に届いた気がした。




 これが、遠く離れて暮らしていた従妹との偶然の出会い。忌まわしい存在に魅入みいられていた頃の、夏木 結その人との再会を果たした瞬間の記憶の全てだった。




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