第19話 悟ると響
これは少しだけ昔の記憶。
初めて
その仕事は俺にとって衝撃的で、そして目の前の人物の本質を知るきっかけになった出来事。
彼女のあまりに無謀で……そして悲しい生き方に俺は少しばかり苛立っていた。
『なんでそんな名前を名乗ってるんですか?』
『なんでってねぇ。そりゃあ気に入っているからさ。
『見せられたんですよ! 他ならぬ貴方に! しかも名前は中途半端にもじって、言っちゃなんですけどつまらないですよ』
『はっきり言うねぇ。そりゃあ、わたしみたいな婆に流行り廃りなんて分からないけどさぁ。これでもささやかな願いを込めて考えたんだけどねぇ』
『……貴方の願いっていうのは?』
『だからぁ。見ただろう? そういうことさぁ。わたしにぴったりじゃないか。響。うん、やっぱりいい名前だねぇ』
『俺には理解できません……そして見ておいて何ですけど俺は貴方の事が苦手です』
『わたしは悟ちゃんの事好きだよぉ? 境遇も似ているしねぇ。何より昔のわたしにそっくりさぁ。これからは仲良くやろうねぇ』
そう言って彼女は最後に笑った。
その瞳は俺を見ているようできっと何も映していない。
全てが空っぽで空虚で平坦な作られた笑顔が俺に向けられていた。
視界を失ってどのくらいたったであろうか。
赤えいの背に乗り上げてしまった事を理解し、半ば呆然としていた俺は、見渡す限りの暗闇に途方に暮れていた。
もはやできる事など何も無く、やけくそ気味に赤えいの背に積もってしまった砂の上に寝転がる。
断続的に続く震動を背に感じながら空を見上げれば、人工の明かりが消えてしまったためか先程までとは比べものにならない星空が俺を迎えてくれていた。
(油断していた。一体どういうつもりだ……あの婆さん。これは前に依頼で乗った赤えいだろ)
彼女の顔は広い。
会社の中でも文字通り桁が違う年期によって培われた人脈は、人間や怪異の種族の壁をも容易に超えてしまう。
それが海辺によるのであれば尚更だ。
赤えいは仙狸と似ている生き物型の妖怪である。
仙狸が長い間生きて怪異化した山猫に対して、赤えいは時を重ねて尋常ではない大きさに育ってしまった巨大魚の妖怪だ。
初めは海の中に潜られる事を想像し怯えていたが、その様子はない。この後もその心配はないだろう。
海面だけを滑るように泳ぎ続けている。
妖怪化しているため常識は通用しない。
それでもいつの間にか海の中に沈んでしまい見失うという伝承が多いため、少しこの行動は不自然に感じて背後で手引きする者の可能性に気づいた。
一度、違和感に気づいてしまえば辺りに自然と気を配り……微かな歌声を耳が捉える。とても美しい聴く者全てを魅了するような音色。
(人魚。姿は見えないがコレに俺は呼ばれたのか。抵抗できない訳だ)
思い返せばわざわざ波打ち際で星を見る必要などないし、冷静に考えてみると自分の行動は不自然だった。
魅了の歌声に誘われた。そして拉致されてしまったのだろう。
重なる怪異に偶然では済まされなくなった状況、それらに繋ぎをつけることができる行方不明の婆さん。
俺は既に確信しており、半分諦めの気持ちで寝そべりながら満天の星空を見上げる。
(あの人の事だから身の危険はないんだろうけど、本当に困った人だ)
おおよその原因が分かった事で景色を楽しむ余裕も生まれ、赤えいが移動を続ける間俺は天然のプラネタリウムを眺め続けた。
(ん? 動きが止まった)
どのくらいの時間そうしていたのか。
ふいに赤えいの移動がゆっくり止まる。
電波の繋がらない携帯を見ながら立ち上がれば、後少しで日が昇る時間であった。
(お呼びのようだし行きますか)
不規則な震動により移動は控えていたが、止まったという事は黒幕の準備が整った事を意味するのだろう。
「なんだこれ? すごいな……」
日の出にはまだ時間が掛かる。
だがどうした事だろう。
漆黒の海は幻想的な青い光によって輝いている。
夜光虫。
昼は赤潮として知られるそれは、夜になると刺激を受けて発光する幻想的な海洋性プランクトン。
赤えいに触れてしまったからだろう。
一面の海を青く輝かせてとてもこの世の光景とは思えない。
(お陰で足元に気を遣わなくて済む。目当ての人物の下手くそな歌も聞こえてきたしな)
人魚の、人を魅了する歌声はずっと聞こえている。
だがいつからだっただろう。耳をすませばそれに混じって、調子外れの歌声が先程から俺の耳に届いていた。
満天の星空に人魚の歌声が華を添え、発光する海の不思議な光を頼りに歩みを進める。
赤えいの背の端の方、他より少し砂が積もった砂山の上で下手くそな歌を歌いつづけながら……彼女は座っていた。
見た目は二十歳前後だろうか。
目線はずっと光る海に向けられている。
「ーー」
(だが俺は知っている)
彼女は人間の常識では計れない程に年を重ねている事を。
「八尾……いや、八百比丘尼さんどういうつもりですか?」
「それは昔の名だからねぇ。尼は卒業したのさぁ。今は八尾 響と呼んでおくれ。悟ちゃん」
わが社でもダントツの年長者。
群を抜いて危険な依頼を担当して、危険度が不明な依頼にも嬉々として身を乗り出す彼女の正体。
不老不死の怪人が微笑みを浮かべながら、ゆっくりとこちらに目を向けた。
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