その5 「逃げる」ことは「負け」じゃない
※現在、モラハラ被害を受けている方へ※
ストーリー内でモラハラ被害者と加害者が1対1になるシーンがありますが
現実でこのように加害者とサシで対決しようとするのは 絶 対 に お勧めしません!!!
加害者と話し合いをしなければいけなくなった場合は必ず、信頼できる第三者を間に置きましょう。友人でも警察でも構いません。
*******
はっきりと、一言一句、私は毅に告げる。
私の言葉の意味が全く分からないというように、毅は頭を激しく振った。
「はぁ? ゲーム?
何を言ってるんだ。そんな幼稚なもの、まだやってたの?」
軽蔑の視線で私を見据える毅。
その背後の本棚には、毅が好きなアニメキャラのマスコット。全身白い毛で覆われた青い目の、猫っぽいぬいぐるみが、30センチほども幅を取ってでーんと置かれていた。確か、じゅーべぇちゃんとか言ってたっけ。
幼稚はお互い様じゃないか。思わずそうほくそ笑みながら、私はさらに言ってのける。
「毅。私がずっとゲーム好きだったの知ってた癖に、私にゲームやめろって言ってきたよね。
自分が興味ないからって、私にまでゲームやめろって言ってきたよね。
だから私、仕方なくやめてたけど……
でも、やっぱりゲーム、やりたいの。
私、何度も説明したよね。私の好きなゲームの、エンパイア・ストーリーズって……」
「知らないよ、そんなもの!
そんな頭の悪いゲームばかりやってるから、君は駄目なんじゃないか!!
君はもっと良質な小説や漫画を読むべきなんだ。漱石や鴎外もろくに知らない癖に!
筒井康隆だの新井素子だの、小説とは名ばかりの邪道ばっかり読んで!!」
「貴方が貸してくれた本なら、全部読んだじゃない。
私は貴方を知ろうと思って、貴方の好きなものは出来るだけ読んだ。
けど──
貴方はどう? 私の好きなもの、少しでも理解しようとしてくれた?
ゲームは勿論、アニメも漫画も小説もお笑い番組も歌も音楽も映画も、私が好きなものだってだけで全部否定して、ひとつもまともに見ようとしてくれなかったじゃない」
「あんなもの、理解する必要なんてないだろ! 全部くだらなかったからだよ!」
「私はそうは思わない!」
「だから君は駄目なんだ! あんなものばっかり好きだから!!」
そう言うが早いか、毅は私の使った割り箸にまで手を伸ばし──
再び容赦なく、メキメキバキバキと折り始める。
「くそ、くそ、くそ!
そんなに僕が嫌いなのか! なんで、どうして!!」
叫びながら一気に箸を真っ二つにする毅。
この時点で、私の胸には猛烈な嫌悪が湧きあがっていた。
──もう二度と、この男と顔を合わせたくない。
心のどこかで酷く冷静に毅を眺めながら、私は呟いた。
「……そうやってものに当たるの、やめた方がいいと思う。
それ、モラハラって言ってね。立派な暴力。DVなんだよ」
「違うよ! 何でそうやって、わけの分からないことばかり言うんだ!!」
もう無理だ。
そう判断した私は、さっと踵を返して玄関へと向かう。
しかし──
「ねー、バカなことばかり言ってないで、僕のそばにいてよぉ。
僕には君しかいないんだよぉ!」
一瞬だけ猫なで声になり、背後から強引に私の右腕を掴み、振り向かせようとする毅。
その拍子に──
ずっと内ポケットにしまいこんでいたスマホが、音を立てて台所の床に転がった。
悠季に術をかけられたままのせいか、異様に青く輝き続けているスマホ。
その画面にいるのは勿論──
こちらをじっと見つめながら、怖いもの知らずにニヤリと微笑み短剣を構える、イーグルの──悠季の姿。
イーグルが見せてくれた色んな顔の中でも、私が一番好きな表情。
だけどそれは今、見事に──
毅の視界にまで、捉えられてしまっていた。
「それ……!
あれだけ僕が、その待ち受けみっともないからやめろって言ったのに!」
箸をへし折ったのと、全く同じ怒りと勢いをもって。
私が慌ててスマホを拾い上げようとするより早く、毅はその左足で──
イーグルの笑顔ごと、私のスマホを踏み抜いた。
「や、やめてぇえええぇ!!!」
自分でも信じられないほどの甲高い絶叫と共に。
私は慌てて、毅の足をスマホから除けさせようと飛びつき、その足首を両手で掴む。
しかし思ったより毅の脚力は強く、私のスマホを……
イーグルを踏みにじり続けたまま、決してその場から足をどけようとはしなかった。
「僕を怒らせるからいけないんだ。
僕は君にしっかりしてほしいから、当たり前のことをしているまでだよ。
ものに当たるのが暴力? そんなことあるわけないじゃないか」
当然のように私を見下ろしながら、イーグルを踏み続ける毅。
私の腕力も虚しく、几帳面に白い靴下を履いた足の裏で、容赦なく踏まれていくスマホ。
パキパキメキメキと嫌な音を立てながら、それでもスマホは暴虐に抵抗するかのように、奇妙な青白い光を激しく放ち続けていた。イーグルの──悠季の意地を示すように。
──こいつは、殺していい奴だ。
そんな極限の憎悪までが、吐き気と共に胸にせりあがってくる。
残り僅かな理性でその憎悪を何とか抑えながら、私はスマホから毅の足首を払いのけようと必死だった。
「人の大切なものを壊したら、それは十分暴力よ!!
あんただって、じゅーべぇちゃん人形汚されたら怒る癖に!!」
「じゅーべぇちゃんは可愛いだろ。くだらなくなんかないから、いいんだってば!!」
「じゅーべぇ人形とイーグルと、何が違うってのよ!!?
これ以上イーグルを馬鹿にしたら、本気であんたを刺すから!!」
「うるさい! だから僕は言ったんだ。
こんなくだらないもの、さっさと消せって!!」
その瞬間──
スマホが毅の足元で爆発したかのように輝き、ほぼ真っ暗だった玄関と台所を明るく照らし出した。
不意に耳元で囁かれたのは、間違いなく悠季の声。
「異次元空間構造・転移伝送術、レベル3──
多機能携帯機器モード、解放!」
その声と同時に、毅の足が、何故か身体ごと宙に浮かび上がっていた。
いや。正確には、毅が襟ぐりを正面から見事に掴まれ、軽々と持ち上げられていたのだが。
誰にって? そんなの、勿論──
「どーもー。
『こんな くだらない もの』、でーす」
イーグルが──神城悠季が。
まるでたった今スマホから抜け出したかのように、私の眼前で、毅を吊るし上げていた。
口調こそ軽かったが、その眼は完全に軽蔑の色に染まり。
地下道に打ち捨てられた生ゴミを見るのと、全く同じ目つきになっていた。
右腕だけで毅の首根っこを軽々と持ち上げながら、素早く私に視線を送る悠季。
「悪ぃ。説得にちょい時間食った。
けど、間に合って良かったぜ」
「悠季……!」
思わず涙ぐみそうになりながら、私は慌ててスマホを拾い上げる。
毅の足は激しくじたばたもがいていたが、その下からスマホを救出するのは造作もないことだった。
画面を確認すると、スマホの表面には蜘蛛の巣にも似た亀裂が大量に入っていたものの──
機能自体は無事なようだ。ヒビ割れの向こうで、イーグルが相変わらず不敵に微笑んでいる。
毅の怒号。
「なんだ。なんだよお前は!?
どうやってウチに入ってきた、強盗め!!」
「おあいにくさま。俺、シーフなんでね。
ま……さすがに、葉子のスマホに忍び込むのは、若干骨が折れたけどな」
え?
今、悠季、とんでもないことさらっと言った? 私のスマホにって……
思わず私は、ひび割れたスマホを見つめる。すると──
動画アプリが自動で起動したかと思うと、聞き慣れた声が二つ、近所に聞こえるほどの大音量で流れ出した。
《葉子ちゃん! 葉子、大丈夫!? 無事なのね!! あぁ……!!
すぐに、すぐに戻って来なさい! それ以上、その男のところにいちゃ駄目!!
一刻も早く逃げて、ウチに帰ってきて!!》
《葉子! すまない……悪かった。お父さんは完全に毅を誤解していた!
腰の低さに騙され、娘がこんな目に遭っているとも知らず……!》
《嫌がる娘を使って注射の練習なんて、とんでもないわ!!
一体どんな狂った空間にいたの、貴方は!?》
「お父さん……お母さん?」
あれだけ毅との交際を押し付けてきた両親が、今、スマホの画面で泣きじゃくっている。
私を毅に売り飛ばすつもりだった──
自分自身、心のどこかでそう軽蔑していた両親が、一刻も早く私を引き戻そうと、画面の向こうで叫んでいた。
わけが分からなくなって、私はスマホと悠季を凝視してしまう。
そんな私に、悠季はウィンクしながら言った。勿論、その手は毅を決して離さないまま。
「葉子のスマホに遠隔操作術をかけた後──
葉子の両親に連絡して、二人のスマホと葉子のスマホを術で繋いだのさ。葉子んとこの映像と音声が、ばっちり親にも伝わるようにな」
「ほ、本当にそんなことが……?」
泣き叫ぶ母と、ひたすら私に向かって頭を下げる父。
やっと──やっと、分かってくれたんだ。
どんなに叫んでも、痛みを訴えても──
「毅ちゃんも苦しいんだから分かってあげなさい」「貴方がだらしないんだから、毅ちゃんみたいに几帳面な人でちょうどいいじゃない」「結婚っていうのは二人がぶつかり合って分かり合っていくものよ、私も昔は苦労して……」「お前に甘えたいだけなんだよ」「男にはそういうこともある、許してやれ」
などとはぐらかされ、決して分かってくれないと思っていた二人が。
その襟元をひねり上げたまま、悠季は一切の慈悲を感じさせない目で毅を睨む。
「ちなみに伝わってた音声は、ちょうど豚汁のあたりからだ。
てめぇが世界中の主婦を敵に回した発言も、しっかり聞かれてんぜ?」
「……!!」
「勿論伝えたのは音声だけじゃねぇ。次元遠隔通信術と同時に透過術もかけておいたから──
可哀想に4本になっちまった箸の残骸も、注射器の映像だって丸見えだ」
悠季の言葉と一緒に流れる、母の声。
《本当に無礼な男もいたものねぇ!
主婦業をここまで馬鹿にされたのは初めてよ!! 葉子ちゃんもホントにお人よしなんだから、こんな男ひっぱたいて自分で作れって言えば良かったのに!!》
昨日まで、毅ちゃん毅ちゃんと誉めそやして憚らなかった母が──
完全に掌を返し、毅を罵倒している。
嬉しいような可笑しいような、酷く複雑な感情が私の中で渦を巻いた。
悠季の声が響く。
「ついでに、管理官にも緊急通報入れてさ。
俺が葉子のスマホに入って、いざって時いつでも介入出来るよう、転移伝送術の使用許可を貰った。
正直、親よりも管理官の説得の方に時間くったがな。あんにゃろー、頭クッソ固いから……」
そうか。それで悠季が、私のスマホから出現したように見えたのか。
こんな奇跡、あっていいのか。
ううん──イーグルが悠季として私の前に現れてくれただけでも、奇跡なんだけど。
「さて……と」
頭頂部からつんと立ったアホ毛を振り上げながら、悠季は毅を睨みつける。
「これで1対4。一気にチェックメイトだな。
世間様に今の映像をばら撒けば、てめぇの味方はさらに少なくなるぜ?」
「…………」
毅は観念したのかどうなのか。既にじたばたもがくのをやめ、表情をなくした丸い目で悠季を見下ろしている。
そして──その、ふてくされた唇から零れた言葉は。
「そんなの関係ないよ。
世間なんて、馬鹿しかいないんだから」
この期に及んでの、毅の言葉に。
さすがに激昂で眉を顰める悠季。
「おい──
今まで葉子に対して、自分が何をしたか。てめぇ分かってんのか?
これまで自分がどれだけ葉子を傷つけたか。どれだけのものを奪ったか。
葉子の時間も、葉子の大切なものも、心も人権も人間関係も全部踏みにじって、てめぇは当然のようにその全てを貪り尽くしてのうのうと過ごしてやがったこと──
てめぇ、本当に分かってんのかよ!!?」
「彼女を傷つけた? 彼女から奪った? 僕が?
違うよ──僕は彼女の為にそうしただけだ。
あまりにも馬鹿で、くだらなくて、低レベルなことばかり言うから、彼女には僕が一緒にいてあげなきゃいけない。
ちゃんと教育して、しっかりした人間になってもらわなきゃ。
だって元々、僕と一緒になりたいって言ったのは、君だろ?」
この状況下でありながら、毅はへらりと笑って私の方へ眼球を向ける。
これまでずっと私を萎縮させてきたその視線に、思わず足元から震え上がってしまった。
それでも──私は、声を振り絞る。
「貴方が私を、一人の人間として。妻として、家族として、大切にしてくれるなら──
貴方と共に過ごしてもいいかも知れない。確かに、最初はそう思ってた。
でも貴方は──どんどん、そうじゃなくなっていった。
私だって貴方を大切にしたかったのに、貴方はそうしてくれなかった。
貴方が私を大切にしてくれているなんて──とても思えなくなったの」
毅の目に射すくめられる恐怖の中、必死で紡ぎだした、私自身の言葉。
しかしそんな私の言葉を、毅はやっぱりせせら笑いで受け流し──
当然のようにしれっと言ってのける。
「ナニ言ってるんだか、意味分からない。
大切にしてるよぉ?」
この一言に、遂に悠季がキレた。
「てめぇ、いい加減に──!!」
毅を捕まえているのとは反対側の拳を、反射的に振り翳す悠季。
しかし──
《神城さん、やめて下さい。
貴方の手を、そんな男の為に汚す必要はない!》
静かに響いたものは、父の声だった。
毅の鼻先まで迫っていた悠季の拳が、ぴたりと止まる。
《私たちは親でありながら、娘の危機にも気づけず。
あろうことか、自ら進んで娘を地獄へ突き落とそうとしていた。
葉子には、どれほど謝っても謝り切れんことをしてしまった。
全ては、私の不徳の致すところだ!》
そして父の声は、毅へと向けられる。
激昂を必死で押し殺しているような、地の底から轟くが如き声。
《毅君──いや、我岳毅。
君は金輪際、娘に近づかないでもらいたい。否……
貴様には可能ならば、地獄の底で一生眠っていてほしいくらいだ。
現行法ではそれが決して叶わぬのが、悔しくてならん!!》
スマホを割らんばかりの、地響きにも似たその声に。
さすがの毅もここにきて、真っ青になっていた。
「あ、あの。お父さん……
そんなに怒ることなくないですk」
《黙れェッ!!》
娘の私さえ聞いたことのない、それは、父の大音声だった。
《貴様のような人間がこのまま医者になれば、どれだけの被害が出るか分からん!!
人の情を理解しようとせん奴に、医者が務まるわけがない!!
自分が、変わらねばならない存在だということを自覚しろ。それが出来んと言い張るなら、せめてこれ以上、他人を傷つけるな!!》
さすがに何も言えず、黙り込んでふてくされたようにそっぽを向く毅。
悠季も──もう触れていたくないとばかりに、彼を床へ乱暴に放り捨てた。
尻餅をついた毅に、私は静かに言い放つ。
「毅。私たち多分、お互い、近くにいちゃいけないの。
元々、近づいちゃいけない人間同士が、無理矢理一緒になってたの。だから、全てが歪んだ。
だからもう──終わり。
私はもう、二度と貴方と顔を合わせるつもり、ないから」
何が悪いかすら全く理解出来ていなさそうな毅の横顔を、最後に見下ろし──
私は悠季の手を掴み、そのまま扉を開けて外に出ていった。
もうすぐ最終電車が出るであろう、深夜の寝静まった街へ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます