その4 間違ってるのはキミたち世間だ
「だからぁ!
なんで粉末のだしを使おうとするんだ!? 手抜きもいいトコだ!!」
意を決して毅のアパートに戻った私を待っていたのは──
夕食の豚汁を、出汁から作る作業だった。
こっそり粉末出汁を使おうとしたらすぐにキッチンに飛んできて、毅はかつお節の袋と昆布を突き出してくる。
「出汁といったらこれに決まってるじゃないか!
だから君は駄目なんだよ!!」
「でも、これから出汁をとってたら時間かかっちゃうよ?
それにこの前かつお節で出汁とったら、味がないって言ってたじゃない」
「それは君のやり方がまずかっただけだよ!
僕の言うとおりにやっていれば問題なかったはずなんだ!」
「だけどウチのお母さんも、主婦はみんなこれ使ってるって言ってたし……」
「いちいち口答えするな!
だから駄目なんだよ! 君の母親も世間の主婦も!!
その証拠に、主婦の料理って全部マズイだろ!?」
いつも通り、大声で威嚇してくる毅。
でも──私はどこかで冷静になりながら、今の毅を観察出来ていた。
確か、会社で研修を受けたことがある。モラル・ハラスメント──
直接的な暴力は伴わないけれど、言葉や態度などの「目に見えない暴力」で相手を追いつめるというもの。
一緒に受けていた礼野先輩は、うんうん頷きながら怒っていたっけ──
「どこにでもいるんだよねー、そーいう卑怯なイジメっ子。
私、そういう奴が一番嫌い。昔学校でも見て、ひっ叩いてやったことあるよ」
自慢げに田中君にそう話していた先輩。そんな彼女を私は、自分でもすごく冷たいと分かる視線で見ていた気がする。
今の毅の発言──
決して自分の非を認めず、世間一般の意見までもを否定して自分の主張を頑固に押し通す言動は、明らかにモラハラの一種に当たる。
自分は絶対に間違っていない。間違っているのは世間の方だ──当然のようにそう信じ込み、決して自分の主張を曲げない言動は。
さらにいうなら、私の母を馬鹿にする言葉も、モラハラの一つに上げられていたはず。
──そんな毅の暴言は、出汁に限らず毎度のように聞かされていた気がする。
何故今になって気づいたのか。
それは多分──
きちんと悠季が見てくれている。その確信があるから。
あの、一点の曇りもないアメジストの瞳で、全てを見守ってくれているから。
その間にも。
「大根の剥き方もなってないなぁ~
かつらむき、まだ出来ないの?」
「じゃがいも買ってきたの?! 冗談じゃないよ、豚汁にじゃがいもなんて邪道だ!
ごぼうもちゃんと入れてよね、アレがなきゃ豚汁じゃないから」
「そんな味噌の量で味が出るとでも思ってる!? ちゃんと大さじで計測するんだ、レシピ通りに!!」
「豚肉は鍋に入れる前にちゃんとお湯かけて表面の脂を落として!! お湯は50度だからね、温度計できっちり計って!」
「何でコンビニのケーキなんか買ってきてるの!? こんなの、人間の食べ物じゃない!!」
勉強で忙しいんじゃなかったのかとツッコミたくなるほどに、毅は私が何かやろうとするたびにケチをつけてくる。私が後で食べようと思ってたケーキにまで。
そんなこんなで、やっと豚汁を作り終えて、ろくな会話が成立しない夕食の時間。
散々作り直しを要求されたおかげで、時刻は既に午後の9時を回っていた。
──もうそろそろ、言うべきだ。
今日は帰ると、はっきり言わなければ。
相変わらず味が感じられない豚汁を思いきり胃の中へ流し込み、私は箸を置いた。
毅はつまらなそうにテレビのニュースを眺めては、出てくる政治家やコメンテーターに絶えず文句を言いまくっている。要約すると、政治も世間も全て悪いから、自分がこんなに勉強で苦しんでいる──ということらしい。
そんな毅の背中に、私は思い切って声をかけた。
「ごちそうさま。
それじゃ、私──もう、帰るから」
おもむろに立ち上がる私を、案の定──
毅はぎろりと眼鏡を光らせて振り返った。
「なんで!? 駄目だよ。もーちょっとぐらい居てくれよ~
明日は休みなんだから、別にいいでしょ? いつも通り、ベッドで寝ていいから」
毅が指し示したのは、部屋の隅の、ステンレス製のベッド。
ガタガタ音はするし敷布団は薄いし、そもそも幅が狭すぎてろくに眠れないベッドだ。
毅はテーブルで勉強しながらそのまま寝てしまうことも多いけど、そうでなければこの狭さにも構わずベッドに入り込んでくる。そうなれば、あまりにキツくて私はもう眠れない。
そして、私の身体を撫でまわしまくるわりに──
肝心なことは、もうだいぶ長い間、していなかった。
「……言ったよね。そのベッド、眠れないって」
「なら、僕は床で寝てあげるから」
「そういう問題じゃない。
疲れてるから、帰りたいの」
しかし、そう言って私が鞄を取った瞬間──
毅もテーブルをバンと叩いて立ち上がる。
「帰る帰るって、どうしてそういうことばかり言うんだ!?
今日はやってもらいたいこと、まだまだあるんだから! そんなわがまま言わないでくれ!」
そう言いながら毅は、医学書と参考書が整然と積み重ねられたその底から、本と同じくらいのケースを引っ張り出す。
その中身を見せられて──私の背筋に、ぞわっと冷たいものが走った。
ケースの中にあったものは、数本の注射器。そして、採血用のバンド。
「見てよ、桜子ちゃんからもらったんだ。静脈注射の練習用セット!
注射の練習、させてほしいんだぁ」
先程の癇癪もどこへやら。にっこり笑いながらセットを広げる毅。
しかし私はとても笑えない。立ちすくみながら、注射器を凝視することしか出来ない。
歯までガタガタ震えだしているのが分かる。
「も……もしかして、それで私に注射を?」
「当然だろ。
僕は元社会人だった分、他の学生より数年遅れてるんだ。人より少しでも早く手技を覚えないと、追いつけないんだよ!」
「そういうのって……
法律で禁止されてるんじゃないの? いくら医学生だからって、先生の監視の元じゃないと……」
「そんなの、大丈夫に決まってるじゃないか!
僕たちは学生同士で練習することもあるんだよ? 桜子ちゃんなんか、自分から腕を差し出してくれたよ!?」
「それは医学生同士だから出来ることじゃ……」
「違うってば! 普通にみんなやってることだよ!!」
思いきり恫喝してくる毅。そう言われてしまうと、医学系の法律に疎い私は黙るしかない。
でも……でも、嫌。
単純に、嫌。ありえない。
──もう嫌だ。この男とは、もう金輪際、絶対に一緒にいられない。否、一緒にいてはいけない。
そんな強烈な拒絶が、全身から湧き上がってくる。
心が、身体が、この男を、拒んでいる。
気が付くと私は、激しく首を横に振り続けていた。
「……嫌」
「はぁ?
静脈注射だから大丈夫だって。注射苦手ってわけじゃないでしょ?」
「だから、そういう問題じゃない。
嫌。嫌なの」
「華岡青洲の話は知ってるだろ? 奥さんが自分の身を差し出して麻酔薬の実験に参加して、青洲が薬を完成させたんだ。あれこそ医者の妻の鏡だよ!
医者の奥さんになるなら、注射の練習台になるぐらい我慢しなきゃ」
「あまりにも極端な例を持ち出さないで!!」
思わず叫ぶ私。
そんな私を凝視している毅の目が──幼稚な怒りで染まっていく。
どうして僕の言うことを聞かない。何故僕のやることに文句ばかり言うんだ。
「そんなことばかり言うなら、もうやめよう!!」
注射キットをテーブルに放り出すと、どすんと音を立てて床に座り込む毅。
そして、夕食で使った割り箸をおもむろに取り上げると──
その両端を両手で掴み、ぐいっと音を立てて曲げ始める。
メキ、メキ、ベキバキ、グシャッ……
無理な力がかけられた割り箸が、毅の手の中で悲鳴を上げながら、真っ二つに折られていく。
毅が最大級に怒った時の表現は──こうして、周りの物に当たること。
そして、僕に逆らったらこうなるんだと言わんばかりに、私に折れた箸を見せつけてくる。
──もう何回目になるだろう、こんなことは。
折れた箸を目の前で見せられただけで、本能的な恐怖で心臓が縮み上がる。
──でも。
「もうやめよう」──
今までならその言葉だけで、震えあがって何も言えなくなっていた。
でも、今は違う。
今は、全部悠季が見てくれている。内ポケットに忍ばせているスマホが、何故か奇妙な暖かさをもって私を包んでいるような気がした。
「毅。
貴方がやめたいなら、やめるよ。こんな関係。
私、貴方といるよりも──
家に帰って、ゲーム、したいんだ」
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