その18 真情
どこか遠い場所から、声が聞こえる。
とても悲しそうな目で、それでも微笑みながら、誰かが自分を見ている。
懐かしいような、それでいて妙に憎たらしいような、そんな声が呼びかけてくる。
──やっぱ、どうしても、駄目か。
目の前で寂しげに微笑んでいるのは、頭から猫耳を生やした獣人の少女。
あの時確か、俺はあいつにこう答えた。
──悪い。
お前の気持ちには、答えられない。
ちょっと釣り気味の青い瞳から目を逸らしながら、俺がそう言った時。
猫耳を無理矢理ぴんと尖らせながら、あいつは笑ってたっけ。
──アンタ、昔っからそうだね。
厄介ごとに仲間を巻き込むのが怖くて、誰も自分の心に踏み入れさせない。
そういうとこ、好きになっちゃったアタシもアレだけど。
でもさ……
くるりと俺に背中を向けて片手を振りながら、あいつは言ってたな。
あの瑪瑙色の三つ編み、妙に心に残っちまったっけ。見慣れていたはずなのに。
──そういう生き方してると、本当に好きな人が出来た時。
後悔するの、アンタだからね?
回想とも走馬灯とも取れる、その獣人の少女の映像は──
不意にバチッと音を立てて途切れた。
同時に悠季の意識が、強引に現実に引き戻されていく。
まただ。また、虚無石のおかげで俺は、夢から現実に戻ってやがる。
せっかくちょっとだけ気を失えたと思ったら、すぐにこれだ。
全身から這い上がってくる激痛。逆さにされた頭に昇り切っている血液。
身体中にめりこんで離れない鎖。ずぶ濡れになった身体。
全ての現実が容赦なく襲いかかってくる。
もう何度、湖に叩きつけられ。
もう何度、水底を引きずり回されたか。
身体に巻きついた鎖はいよいよ強く悠季の身を縛り上げ、空中に引き戻されるたびに血の混じった水が肺からごぼりと吐き出される。
逆さに吊られた身体をさらに甚振るように飛んでくる、電撃に火球に氷の刃。
それらはわざわざ術力を弱め、一気に全火力を注ぎ込むのではなくじわじわと痛めつけるように悠季の身体に投げつけられ、澱のようにダメージを蓄積させていく。
さらに悪いことに──
上空から悠季を吊り下げその動きを封じているのは、もう『破壊』のスレイヴの放つ鎖だけではなかった。
『怨毒』のスレイヴ──
そいつのマントの下から放たれ、何十本も枝分かれした粘状の触手。
それが鎖以上にがんじがらめに悠季を縛り上げ、鎖と皮膚の間にまで巧みに忍び込み、その先端は次々に傷口に侵入していた。
鎖を強く締められるたびに、メキメキと脚が、腕が、肋骨が軋む。
叫びを上げようにも、喉にも口にも鎖が巻き付き、空気を求めて喘ぐのが精一杯だ。
触手の先端が太ももの傷に、腹の傷に触れるたび、じゅうと音を立てて皮膚を、組織を溶かしていく。
とっくに四肢が麻痺していてもおかしくないほどの傷を負っているはずなのに、何故か痛みは一向に消えない。叫びすらももう嗄れ果てて、喉から呻きと共に血が溢れるだけだ。
それは間違いなく、虚無石の生み出す地獄。
泥と血にまみれた身体を覆うものは、襟から胸のあたりだけが僅かに残されたワイシャツの残骸と、膝から先がすっかり引きちぎられたズボンのみ。それもベルトはとうに引きちぎられ、下腹部にまで容赦なく触手は入り込んでいる。
その先がどうなっているか──考えるのはやめた。
泥を吸い尽くしてべったりと頬に貼りついてくる襟の感触が気持ち悪く、悠季は思わず頭を振る。
──葉子の奴、もう、逃げられたかな。
それでも脳裏をよぎるのは、葉子のふわりとした笑顔。
──何度も、逃げろって言ったつもりだけど、通じたかな。
痛みの中で何度も蘇ってくるものは──
まだ彼女の存在をはっきりとは認識していなかった頃の、葉子の声。
──大丈夫。貴方なら、まだ、やれる。
大丈夫。今度こそ何とかするから、だから、立ち上がって。
そうだ。俺はあの声に導かれて。
何度吹き飛ばされても、何度もあの手に引っ張られた。
どんなに仲間を守ろうとしても、守れなかった俺を。
仲間を守る為にみんなを遠ざけておいて、なのに全然何も出来なかった、無能の俺を。
葉子は絶対に見捨てなかった。
痛みの中で幻視した、葉子の笑顔。
それを見て、悠季は気づいた。生まれて初めて
──自分の、本当の気持ちに。
葉子──
お前がここに来ちゃ駄目だってことぐらい、分かってる。
だから、逃げろって、何度も叫んだ。
俺のところに来ちゃ駄目だ、逃げてくれって。
俺、よく、そういうことしたんだよ。
ずっと慕ってくれた仲間を危険から遠ざける為に、そいつらをわざと突き放すなんて当たり前だった。俺、何やかんやでリーダーだったから。
水責めだろうが鞭打ちだろうが、俺一人なら大体何とかなる。実際、どんなに痛めつけられても追い込まれても、いつだって何とか逃げおおせてた。
──でも。
──そうか。
俺、寂しかったんだ──本当は。
葉子。お前と言葉が交わせなくなったと分かった時──
あの時ほど、怖いと思ったこと、なかった。
そして、お前がシュシュを受け取ってくれた時。
言葉は分からなくても、俺を抱きしめてくれた時──
初めて、思ったんだ。
お前に、そばに、いてほしいって。
──けど、もう、遅いよな。
胸に走る、酷く強い打撃。
鞭のようにしなる鎖で殴られ、宙に大きく飛ばされる身体。
その衝撃で胸元の虚無石が、一層露出していく。
悠季の生命力をそのまま吸収し尽くしたかのように、大きく膨張した虚無石。それは禍々しい光を伴い、虚空へと煌めいている。
逆さにされた頭から零れ落ちる、血混じりの水。それが湖面に落ちるたびに──
水底から溢れる毒々しい光が、力を増していく。
その様を眺めながら、スレイヴたちの哄笑が天へと高らかに響いた。
「さぁ、もっと泣き叫べ、喚け、血を流せ!!
貴様が痛みに震えるたび、ケイオスビーストの覚醒、そして我が主復活の刻は近づく!
まだ手ぬるいならば、さらなる恥辱を与えるまでよ!!」
「ククク……
そろそろ腕を、両側から少しずつ引きちぎっていくのも良いですねぇ。
それとも脚にします? 首でも良いですよ?
なにしろ貴方は、石の力がある限り、死ねないのですからねぇ!!」
「全く悪趣味な。
ひと思いに四肢を切断し心臓を引きずり出せば、それだけビースト復活も早まろうというものを」
何も出来なくなった悠季を見下ろしながら、スレイヴたちはいつまででも嗤いを止めない──
だが、その刹那。
どんより曇った空の遥か彼方で、何かがキラリと光った。
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