その11 本震



 その日葉子は、一人で出勤した。

 悠季が入院した件を上司に報告し、午後出社の許しをもらってからだったが。

 悠季がいない状態でオフィスに向かう。それがこんなにも、胃が痛くなることだなんて──

 自席のそばでは、礼野が今日も営業からの電話に怒鳴っていた。


「ですから、いくら災害対応とはいえ間違いは間違い、期限は期限ですっ!

 日付もハンコもない書類を受け付けるわけにはいきません、諦めて下さい!!」


 それきり、乱暴に電話を切る礼野。

 葉子は肩を縮めるようにしながら、一応挨拶だけして席に着いた。

 すると礼野は待ってましたとばかりに、葉子のデスクに書類を叩きつける。


「天木さん。昨日の電話対応、間違いがありましたよ。

 災害対応中はFAXベースの書類であっても受け付ける、でも印鑑の不備まで許すとは言っていません!

 こっちでたまたま気づいて訂正したから良かったですけどね!」


 そう言い捨てたきり、さっさと自席へ戻っていく礼野。


「神城さんがいないと、すぐ元通りなんですね。

 いい加減にしてください。ただでさえ緊急事態中なんだから」


 災害対応──つまり、現在各地で同時多発的に起こっている災害へ対応する為、葉子たちの部署も特別体制に入っている。

 いつもは各地で契約を取り付け書類を送付してくる営業社員たちだが、今はあちこちで交通網が阻まれている為、通常なら間に合うはずの書類でも大幅に到着が遅れている。

 それ故、通常よりも基準は緩まり、実際の書類が到着していなくともFAXで送られてくるものなら受け付け、条件が整えば契約成立も可能としていた。


 昨日葉子が電話で受け付けた案件は、名字は同じだが形状の違う印鑑が押されてあり、実印登録してある方を正しい印鑑として、違うものは二重線と訂正印で消してあるというものだ。

 本来なら書類の書き直しを求めるが、先日開かれた災害対応のミーティングでは──


 すぐに葉子は席を立ち、礼野のデスクに向かった。

 胸は恐怖でバクバク鳴っている。でも──

 もう、これまでの私じゃない。悠季はいないけど、ちゃんとそばにいるんだから。

 髪につけたえんじ色のシュシュに一瞬だけ触れながら、葉子は礼野に言い放った。

 いつも以上に声を張り、はっきりと。


「礼野先輩。

 先日のミーティングで、このようなケースは一時的にでも受け付けて仮成立させるという方針に決められていたはず。

 私はそう聞いていたから、電話で営業のかたにOKを出しました。営業のかたもその認識で、念のためこちらに確認を取ったというお話でした。

 それが間違っていたと?」


 振り返りもせず、こともなげに答える礼野。


「間違いです。

 そもそも、このような印鑑の押し方は大きな間違いで、二重線や訂正印だけでどうにかなるものではないと、私は何十回となく言ったはずですよ。天木さん」


 そらきた。『何回も言った』『何十回も言った』──

 久しぶりに聞く気がする、先輩お得意の、この言い方。

 だけど悠季のおかげで、先輩のこの『何回も言った』は、幾度も覆されてきた。


 悠季は密かにスマホや術で礼野や周辺社員の言質をとっており、少しでも矛盾点があればそれを彼女に突き付けていた。

 そのたびに礼野の主張は覆され、彼女の鬱憤は可哀想に、隣席の──

 所謂彼女の『奴隷』、田中にぶつけられていた。

 しかし今、悠季がいないせいで、礼野は思う存分葉子をいたぶることが出来る。

 これまでの不満を思いきり葉子にぶつけるように、嫌味っぽく言ってのける礼野。

 他の社員はといえば、何も聞こえていないかのように自席で仕事に没頭している。上司やリーダーは──例の如くまた、ミーティング中で不在だった。

 それでも葉子は、声を張り上げる。


「今が緊急事態中であってもですか。

 先輩は営業のかたに、洪水状態の川も崩落している山も越えて、客先にもう一度行って書類を取り直せと?

 それが出来ない状態だから、今は……」

「いくら特別対応といえど、間違いは間違いです。

 災害中なら不備のある書類を通していいんですか?」

「そうは言っていません。

 ですが、先輩」


 さらに何か言おうとする礼野を封じ込めるように、葉子ははっきりと言い張った。


「営業のかたはこうも言っていました。

 通常時においても、このようなケースは何回も通ったことがあると。

 なのに今通らないのはどういう理由なのか。同じ不備のある書類でも、通るものとそうでないものがあるのはどうしてなのか。特定の担当者がたまたま見た場合に限り、通る書類も何故か通らなくなることがあるのは一体何故か。

 チームのやり方がおかしいんじゃないかと──

 私は電話口で、何度も言われました。

 答えられませんでした。

 だって私自身、ずっと疑問だったからです!」


 そんな葉子の反論も、礼野は馬鹿にするように彼女を見上げ、大げさにため息をついた。


「まだそんなことを言っているんですか? 天木さんは。

 何度も言ったでしょう。営業からの文句は話半分に聞けと。

 だってあいつら、大半が馬鹿なんだから」


 ──は?

 思わず声に出して言いそうになり、葉子は慌てて口を噤む。


「ウチの営業社員というのは基本的に、他に仕事がないから仕方なく営業やってる連中ばっかり。つまり、能無し。馬鹿です。

 だから送ってくる書類も不備ばかり。そんな連中の言うことを全部まともに受け取っていたら、仕事になりませんよ」


 その瞬間、葉子の中で何かが切れた。

 かつて毅と対峙した時に燃え上がった憤怒と同じものが、胸の内に湧きあがる。

 そして彼女は言い放っていた──

 ここに悠季がいたなら、確実に叫んでいたであろう言葉を。


「何を言っているのか分かりません!

 営業のかたが苦労して取ってきた契約で、私たちの会社は成り立っている。

 彼ら彼女らが毎日毎日汗水流して、お客様に誠心誠意対応して契約を取っていかなければ、会社は存続すら出来ないんですよ!?

 今でも災害の中、営業のかたは命がけで走り回っているんです。それだけの苦労をして取ってきた契約を、日付やハンコの不備で一刀両断されたら──しかもその基準が、担当によってあやふやだったら──

 そりゃ、文句も言いたくなるでしょう!!」


 ダメだこりゃとばかりに、面倒そうに礼野は大げさに両手を上げる。


「話になりませんね。

 契約に苦労するのは当然です。それほど苦労して取れた契約なのに、何故不備が出るような書類を送ってくるのかと言いたいですよ、私は。

 そんなに営業の肩を持つのなら、天木さん。貴方が営業に行ったらどうですか?」


 口元に笑いすら浮かべながら、礼野は吐き捨てた。


「もっとも、そんな変な色のシュシュなんか着けてたら。

 どこ行っても馬鹿にされると思いますけどね」



 ──切れた。

 今度こそ、私、完全に切れた。

 悠季。こいつを殴っていい?

 ううん、もう駄目。私の中で最早この女は、どれほど殴ってもいい、毅と同じ存在。

 いくら貴方が止めたって、私は──!!



 だが、葉子が思わず手を上げようとした瞬間。

 まるで彼女を止めるかのように、自席の電話が鳴った。

 はっと我に返り、慌てて電話を取る葉子。

 ディスプレイを確認すると、社内でも営業でもない外線電話だ。一体誰が──?

 戸惑いながらいつも通り、社名と部署名を言いかけた葉子だったが。


《天木さん!

 広瀬です。お仕事中とは思いましたが、緊急事態です》

「か、管理官?

 どうしたんですか。緊急って……?」


 彼にしてはいつになく焦り気味の早口に、葉子の心臓が早鐘のように鳴った。


《神城が……

 神城が、病院から消えました》


 え。

 広瀬さん。今、何て。

 それすら言葉に出来ず、葉子は受話器を手にしたまま固まってしまった。

 世界が微かに、ゆらゆらと揺れる。何だろう、心音が激しいあまりに身体まで揺れ出したのか。また私はいつもの貧血を起こしかけているのか。


《今全力で探していますが、彼のスマホが病室に置かれたままで、容易に追跡が出来ません。

 着替えた跡があるので、自らの意思で病院を出たものと思われますが……

 他はほぼ手掛かりがありません。

 天木さん。どんな形でもいい。

 何か神城から、連絡は受けていませんか》

「連絡……

 悠季から、ですか?」


 あまりの衝撃ゆえか、座っているはずなのに身体のふらつきが止まらない。

 どうして? 一体何故、悠季?

 貴方はろくに動けないはずなのに、どこへ行ってしまったの。

 スマホを確認するべく、デスクの一番下、カバンの入った引き出しに手をかけた葉子だったが──


「……え?

 何、この揺れ?」


 そこで葉子は、初めて気づいた。

 奇妙な揺れは葉子自身だけでなく、周囲の社員たちも感じ始めていることに。

 ざわざわと、オフィス内の空気が不安に満ちてくる。



《まずい!

 天木さん、すぐに身を守って──》



 それきり広瀬の声は、不自然に途絶えた。

 次の瞬間、葉子を──いや、彼女を含めたオフィスを襲ったものは、

 引き出しという引き出しのほぼ全てが一斉に飛び出るほどの、強烈な横揺れ。



「き、きゃああぁあああぁあああああ!!!」

「うわあぁあああああああーーーーッッ!!?」



 男女問わず、オフィス内に響きわたる激しい悲鳴。

 と共に、どこかから響いてくる、落雷にも似た地鳴り。

 葉子自身悲鳴を上げながら机の下へと潜り込み、デスクに常備してあったヘルメットを咄嗟に被って身を屈める。


 ──これは、間違いない。

 遂に来てしまったんだ。この国の首都にも、災厄が。


 葉子がそう確信して間もなく、オフィス全体の電気が落ちた。

 突然暗くなった室内で、さらなる悲鳴が上がる。

 いつ止まるかも分からぬ激しい横揺れの中、葉子はただひたすら──

 この高層ビルが倒壊しないよう、少なくともこの22階だけは潰れぬよう、祈ることしか出来なかった。




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