その10 出撃
翌日。
悠季は結局一睡も出来ず、朝を迎えた。
早朝の検温に来た看護師には当然、血まみれのシーツに仰天され。
大慌てで包帯を替えられ、ちょっとした騒動になったが──
それ以降は特に何事もなく、窓の外は昨日の大雨が信じられないほどの快晴だった。
──葉子、ちゃんと一人で会社行けてるかな。
棚を開いてみると、入院用のタオルだの歯磨きセットだののこまごまとしたものの他、着替えも用意されていた。昨日のうちに葉子たちが持ってきてくれたらしい。
普段は術を使って着替えていた為、悠季が実際に持っている服といえば、出勤用のスーツにワイシャツがそれぞれ2着ほど、そして家にいる時用のパーカーぐらいだ。
それが全部そのまま持ち込まれている。多分みなとあたりが気を利かせ、今の悠季が着られる服をと、必死で部屋からかき集めたのだろう。
痛みで疼く身体を無理矢理起こしながら、悠季はしばらく考え──
やがて、グレーのスーツを手に取った。クリーニングしたばかりの、良い匂いがする。
──何故か知らんけど、この国じゃスーツが男の戦闘服だって話だしな。
術を使わず自力で身につけたことも何度かあるから、幸い着方は分かっている。
看護師たちに気づかれぬよう、息を殺しながらワイシャツを身に着ける。
ネクタイを締められるか一瞬不安に思ったが、頭で忘れていても手が何となく覚えていた。
数分後、棚の鏡を確認してみると──
男子高校生にしか見えないと沙織にはよく言われる、いつものスーツ姿の自分が映っていた。
違うのは、頬を押さえたガーゼと、頭と両手にしっかり巻かれている包帯だけだ。
──他に何か、出来ることはないか。
悠季は棚の引き出しを開け、しまっていた自分のスマホを取り出す。
画面には大きく亀裂が入っていたが、使えないことはなさそうだ。
『妄執』には言われたっけ。スマホ持ち込みもアウトだとか。
こんなクッソ面倒な釘を刺さずとも、俺をそのまま儀式の場とやらへ連れていきゃ良かったものを。
それをしなかったのは、敢えて俺に苦痛を味わわせる為だろう。
虚無石を通じて、奴らの指定場所はもう分かっている。葉子たちと何度か遊びに出かけたことがある場所だから、知らないわけじゃない。この病院からだと、電車を乗り継いで約2時間超といったところか。
だが、ろくに会話も出来ない、言葉も分からない今──
到着までどれほどかかるのか、見当もつかない。
俺がこの世界でぼろぼろになって、時間に追われながら彷徨う。その様を眺めるのも、奴らスレイヴ共の復讐でもあるんだろう。
だが、見てろ。この国には実にありがたい、社会人の常識ってもんがあってな──
その一つが、『時間的余裕をもって行動する』ってヤツだ。
スマホの電源を入れることぐらいは問題なく出来た。だが、多種多様なアイコンと共に出てきた文字列が何を意味しているのかが、今の悠季には分からない。
昨夜はそれに絶望して、何も出来なかったが──
よくよく見ればアイコンだけでも、その機能は何となく分かるようになっている。
まずは、葉子とのやりとりでよく使っていたメール。封筒のアイコンだ。
しかし、タップしてすぐ分かった──
葉子からのメールも含めて、内容が全く分からない。当然、こちらからもメールなど打てるわけがない。そもそも、ひらがなもカタカナも英数字さえも、異常にぐにゃぐにゃした魔女の文字にしか見えないんだ。
第一、メールでやりとりが可能だったとしても、恐らく虚無石により奴らに勘づかれてしまう。見事に医者に化けた奴らだ、もうこの世界の言葉など分かってしまっている。メールを覗き見て内容を解読するなど造作もないだろう。
それを考えれば、メールの使用は非常に危険だった。
じゃあ、この受話器のアイコン──電話はどうだ。
メールに比べると使用頻度は低いが、葉子と急いで連絡を取りたい時にはよく使っていた。
恐らく通話履歴を示すであろう時計形のアイコンをタップすると、一番上に──
ひらがなとは違うやたら角張った文字が4つ、現れた。
──天木葉子。
この文字は覚えている。絶対に間違いなく解読できる。
次に連なっているのはみなとの名前、その次は広瀬。だいぶ後に沙織の名があったが、他はほぼ分からない。
だが、少なくとも葉子と、仲間の名前は間違えない。そのことに少し安堵しながら──
悠季は次の手を考えた。
電話でのやりとりもメールと同じく、奴らに勘づかれる可能性は高い。
そもそも俺はろくな会話が出来ないんだから、電話での会話など成立するわけがない。
だが──幸い、発声まで封じられたわけじゃない。
考えろ。今の俺にも分かる言葉で、葉子たちにも理解出来る言葉は。
俺と葉子の世界は、完全に分断されているわけじゃない。ゲームを通じて、元々繋がっていた世界だ。
必ずあるはずだ。葉子たちに伝える方法が──
──そうだ。
たった一つだけ、ある。
そして多分、この方法ならスレイヴどもには分からない。取るに足らない存在として、奴らは無視してやがったんだからな。
俺が何をやっているのか、覗いたとしても理解出来ないだろう。遂に気がふれたと思われるぐらいか。
俺自身、うまく使えるかどうか分からないが──
それでも、葉子なら分かるはずだ。
悠季はすぐに行動に移した。
画面に表示されたままの「天木葉子」の文字。それを躊躇なくタップする。
今は葉子は会社だ。電話しても取れるはずがない。
だが、留守電にメッセージを入れることは出来る。
──数分後。
通話を切った悠季は、そのままスマホをテレビの横に置いた。
ふと床に視線を落とすと、ベッドの下に何やら青いものが見える。
すぐに分かった。昨日いつの間にか葉子が落としていった、青いシュシュだ。
そっと拾い上げ、スマホの上に置いてみる。何の意味もないが、まじない代わりだ。
ネクタイをぎゅっと締め直しながら、悠季は晴れ渡った空を見上げた。
──多分今の俺じゃ、奴らに好き放題叩きのめされるだろう。
だから俺に出来るのは、時間稼ぎだ。
葉子が気づくのが先か、俺がくたばるのが先か。
こいつは──その勝負。
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