その9 陵辱


※今パートですが、性描写ではありませんが性的暴行と解釈可能な表現があります。

苦手な方はご注意ください。



*******




 看護師に面会終了時刻を告げられ、沙織が葉子を連れ帰ってからも。

 悠季はずっと、葉子の身体の温もりを忘れられなかった。彼女の胸の、柔らかな感触も。


 ──あいつ、ちゃんと分かったんだな。

 あれが、誕生日プレゼントだってこと。


 それだけでも、悠季は涙が出るほど嬉しかった。

 傷だらけの身体で地を這いずるようになりながら、どうにかマンションの玄関まで辿り着き、偶然にも葉子に助けられたあの時──

 彼女の言葉が理解出来なくなったと分かった瞬間を思い出すと、今でも胸に強烈な痛みが走る。


 葉子なら分かってくれるはずと。

 誰の言葉が分からなくなっても、葉子だけは例外だと──

 心のどこかで、俺はそう思っていた。

 だが現実は容赦なく、俺と葉子の言葉を遮断した。


 マイスで、仲間たちと一緒に過ごしていた時間も楽しかったが。

 葉子と一緒にいる時間は、同じくらい──いや、それ以上に幸せだったかも知れない。

 マイスでは、辛く苦しいことの方が多すぎて。

 真剣に俺を好きになってくれた奴もいたけれど──

 裏切りと怨讐、暴力の嵐に巻き込んでしまうのが怖くて、結局俺は、誰も愛せずにいた。

 俺が幸せになれなくても、その分だけ仲間や、まだ弱っちいガキどもが腹いっぱい食べられれば。

 それだけを考えて、生きてきたような気がする。

 それでも俺は結局、守ろうとした仲間もろとも、ケイオスビーストに吹き飛ばされて──



 だけど、身体ごと散り散りになりかけたあの瞬間、俺の腕を掴んで引っぱり上げる奴がいた。


 ──今度こそ、貴方を、死なせはしない。


 そんな声が、確かに聞こえた。

 思えば、それが葉子との、最初の出会いだったっけ。


 それ以来、葉子はずっと俺を導いてくれた。

 姿こそ見えなかったけれど、あいつの声はいつも俺の中に響いていた。何度俺が負けようが──

 大丈夫、今度こそ何とかする、だから立ち上がって──って。

 どんなにこっちがズタボロになっても戦わせようとしてくるその声に、さすがに腹が立ったこともあったけど……

 俺がどんなにヘタレようが、葉子の声はずっと俺から離れなかった。

 最初はとにかく力押しだったけど、敗北を重ねるたび、その指示は次第に的確に、緻密になり。

 いつしか俺は、葉子を信頼し。

 時たまどれだけ間抜けなミスをしようが、何としてでもそれを取り返し、俺を守ろうとするそのがむしゃらさが、好きになっていた。



「──そうだよな。

 俺、大好きだったんだ。葉子が」



 今やこの世界では、誰にも通じなくなってしまった言葉で。

 悠季はぽつりと呟いていた。


 ずっと一緒にいてくれたはずの、葉子の声が──

 聞こえなくなった。いや正確には、聞こえてはいるが理解出来なくなってしまった。

 それだけで、これほどまでに俺は貧弱野郎になっちまうなんて。




 この世界の時計の読み方すら、悠季は忘れてしまっていたが。

 それでも、窓の外が大分暗くなっていることぐらいは分かる。

 術は効かずとも、薬は効いてきたのか。ほんの少しだけ、呼吸も痛みも楽になってきた気がする。

 落ち着いて、今後のことを考えてみるか。そう思って、悠季が身を起こそうとした──

 その時。


「神城さん。

 診察の時間です」


 悠季にはほぼ理解出来なかったが、そんな言葉が多分かけられたのだろう。

 唐突に扉の開く音がして、ベッド周りの白いカーテンがさっと開かれる。

 そこに立っていたのは、医師が一人と看護師が一人。

 彼らは意外に敏捷な動きで悠季の背中を支え、その上半身を起こさせた。


 夜も更けたこんな時間に診察だなんて、こっちの世界の病院じゃそういうこともあるんだろうか。

 若干不審に思いながらも、悠季は医師たちに身を任せるままにするしかない。何しろこちらは、ろくに身動きが出来ないのだから。

 すると看護師は、ベッドに乗り込むようにしながら悠季の背中に回り、少しぶかぶかの病院着の間へと、その手を巧みに滑り込ませる。

 そこで悠季は初めて、違和感に気づいた。


 ──手が、冷たすぎる。


 思わず看護師の手を振りほどこうともがいたが、その手は彼の身体を背後から強く抑えたまま、離れようとしない。

 襟の間から入り込んだ手は次第に冷たさを増し、肌の色まで一気にどす黒く変化していく。


「ちょっと待て……おい!」


 5本ではなく8本にまで枝分かれしたその指は、悠季の胸を覆っていた包帯の間に難なく滑り込み、左胸に埋め込まれた虚無石に触れた。

 その瞬間──


「ぐ……っ!!?」


 バチッという音と共に、悠季の脳天から爪先までを、強烈な衝撃が駆け抜ける。

 雷術を食らった時の痛みにも似ていたが、氷のように全身を麻痺させてくるこの感覚は何だ。

 間違いない。こいつら──!


「ようやくお気づきですか? 

 どうやら、虚無石の効果は上々のようですね」


 医師はベッド脇からじっと悠季を眺めながら、口元に薄笑いを浮かべていた。

 こいつの言葉ははっきり理解出来る。

 やたらと高い耳障りな声に、馬鹿丁寧な言葉。これは──!


「てめぇ……

『妄執』のスレイヴか!!」


 額からも顎からも、冷たい汗が滴り落ちる。

 その間にも、看護師──否、看護師に化けた異形の指はどんどん包帯の中へと侵入してくる。今やその指は、およそ30センチほどにまで伸びきっていた。最早指ではなく、植物の蔓といった方が正しい。奇妙な粘り気を持ちながら肌を這いまわるその感触が、否応なしに悠季の身を震え上がらせた。

 思わず悠季は叫びかかったが、医者は冷たくそれを嘲笑う。


「どれだけ助けを呼ぼうと無駄ですよ。

 この病院の人間どもには全て、一旦眠って頂きましたからねぇ」


 そうか。さっきから妙に静かだと思ったら。

 このスレイヴならやりそうなことだ。『殲滅』とは違って常に慇懃無礼な言葉を使うが、あいつ以上に人間を見下してくるこの、『妄執』のクズなら!!


 悠季は咄嗟に、枕元に隠してあったダガーを取ろうとしたが──

 石に触れられたショックがよほど酷かったのか。指先さえも殆ど動かない。

 動けなくなった彼の身体は最早、黒い指によってなされるがままだった。難なく剥がされる薄手の病院着。ベッドの上へするすると解かれていく包帯。

 そしてその先端は遂に、右肩の傷口にまで触れた。


「ぐ……あ、あ……っ!!!」


 思わず絶叫しかけたが、歯を食いしばって痛みを押し殺す。

 殆ど治癒していない傷口を、無理矢理突き破って皮膚の中へと侵食してくる指先。僅かに尖った爪を持つそれは、一気にではなくほんの少しずつ、皮膚の下の組織を抉りながら進み続ける。

 指が動くたび、意識が飛ぶほどの激痛が頭をつんざいてくる。

 ただでさえ苦しい呼吸の中、悲鳴を懸命に抑えながら。

 悠季の眼からはいつの間にか、痛みの反射による涙さえ流れ出していた。


 さらにその指は、関節にあたる部分から枝分かれし、どんどん増えて伸びていき──

 厳重に巻かれたはずの包帯を解きながら胸を這いずり、右下腹部、そして左太ももの裂傷にまで到達しようとしていた。

 徐々に包帯を剥がされ、露わになっていく悠季の、傷だらけの素肌。


 そのさまを愉しむかのように、『妄執』のスレイヴはくっくと嗤いだす。

 医者だったはずのその顔は既にどす黒く変色し、濁った眼球は鉛色に鈍く光っていた。


「怯えることはありませんよ。貴方はここでは殺しません。

 貴方はケイオスビースト復活の為の、大切な贄ですからねぇ」


 何が言いたい。さっさと本題に入りやがれ。

 そう叫びたかったが、右肩の激痛がそれを許さない。

 情けない。涙をぽろぽろこぼしながら、敵を睨みつけることしか出来ないとは──

 背後を取りやがったのは、俺の知らないスレイヴか。このタイプの奴は見覚えがない。

 3体だったはずのスレイヴはそれぞれ、『殲滅』が雷術、『妄執』が氷術、そして『狂気』が炎を主に使っていたはず。こんな気色悪い術を使ってくる奴はいなかった。

 多分、新たに増えたとかいうスレイヴだろう。『殲滅』の野郎が強烈な斬撃を使うスレイヴを従えていたように、こいつも──


 それが分かったところで、悠季にはどうしようもなかった。

 敵の眼前で上半身脱がされ続けるという醜態を晒しながら、震え上がることしか出来ない。

 触れられた右肩の傷口は完全に開いてしまったのか。緩められた包帯に、じわりと血の赤が滲む。

 そんな彼の耳元へ、『妄執』のスレイヴはそっと顔を近づけ、囁きかけた。

 口からはドブのような悪臭が漂ってくる。


「明後日の正午──

 我々は、ケイオスビースト復活の儀式を行なう。

 当然、貴方にも参加して頂きます」

「!」


 黒い指にもぞもぞと、脇腹まで探られながら。

 悠季は意地でも唇を笑いの形に歪め、敵意を露わにする。


「おめおめと……俺が顔出すとでも思ってんのか」


 その瞬間。

 大鴉に肉を直接ついばまれ、引きちぎられるが如き痛みが、右下腹部を襲った。


「が……あ、ああぁあぁあああぁあああぁああっ!!!」


 思いきり右腹の傷を抉られた。

 シーツにまで血が滲み出し、悠季は遂にその喉から悲鳴を上げてしまっていた。


「ご心配なく。場所も時刻も、この虚無石に刻んでおきます。

 この地域の言語を理解出来ぬ貴方でも、ちゃんと分かるようにね。

 但し、逃げようとすれば」


 次いで左の太ももを、刺つきの刃物でぶち抜かれたかのような痛み。

 さらにドリルのように指は傷の中でゆっくりと回転し、肉を削りながら骨まで到達しようとする。


「あ、あぁ、あああああああぁああああぁああ!!

 よ……葉……っ!」


 思わず彼女の名を叫びかけ、それだけはと歯を食いしばる。

 そんな悠季をからかうように、『妄執』は彼の顎を強引に持ち上げ、無理矢理視線を合わせた。


「我らはその時点で、『死力陣』を発動させる」

「……あぁ?」

「分かっていないようですねぇ。

 既に我らは、ケイオスビースト復活の為の陣を、このT市を中心に張り巡らせています。

 それをちょいと暴走させれば、すぐにでもこんな国の一都市など、壊滅するんですよ」

「な──

 てめぇ、冗談もたいがいに……ぐっ!!」


 思わず身を乗り出した悠季だが、右肩に食い込んだスレイヴの指が、途端に傷口を抉った。

 ただ単に真っすぐ突っ込むのではなく、中でぐいっと指を曲げられ、鉤爪の如く肉を掻き、しまいには骨まで傷つけていく。

 最早悠季の呻きは絶叫に変わり、まともな言葉を成さなかった。

 満足げな表情でそんな彼を見下しながら、さらに『妄執』は追い打ちをかける。


「なぁに。これがハッタリでないことは、すぐに貴方も分かるでしょう。

 貴方の大事な、天木葉子。

 彼女の勤める職場。彼女の暮らす家。

 そして、貴方の大切な仲間たち。

 そ奴らをみすみす犠牲にしたくなければ──

 貴方一人で、儀式の場所まで来ることです」


 汗だくで震えるばかりの悠季。包帯が外れ、剥き出しになった胸の中心から臍にかけてを──

『妄執』が嘲笑うかのように、その浅黒い指でつうっとなぞった。

 お前の命は、最早自分のものだとばかりに。


 その傲慢と恥辱に、思わず頬がかっと染まった。

 悠季の中で、到底抑え切れない怒りが爆発する。

 次の瞬間には、スレイヴの顔に唾を吐きかけていた。


「冗談じゃねぇ!

 これ以上、てめぇらの好き勝手になんか、なるわけねぇよ。

 この世界の人間どもは、てめぇらよりよっぽどお利口でずる賢い奴らばっかだぜ。てめぇらなんぞにそう簡単に──」


 しかし、その捨て台詞さえも途中で遮られた。

『妄執』の強引な拳により、右頬を張られて。

 あまりの勢いに、ベッドに倒れ込んでしまった悠季。そして──


 びちゃっ。

 頬に、生卵にも似た感触の粘液が降りかかる。

 悪臭ですぐに分かった。野郎、唾を吐き返しやがった。

 異形らしくその量はやたらと多く、頬だけでなく髪の先から肩あたりに至るまで、べとべとと粘ついた液体が悠季を汚した。


「このことを仲間に伝えようと試みても同じですよ。石を通じて、貴方の行動は全て筒抜けです。

 もっとも、そんなことは不可能でしょうがね」


 勝ち誇ったように、耳障りな笑い声を響かせるスレイヴ。

 同時に、悠季の身体を侵食していた指が、一気に傷口から引き抜かれた。


「あ……がぁあっ……!!」


 それは引き抜く時でさえ激痛を伴い、右肩の傷口などは再び出血し、シーツを更に赤く染める。


「そうそう……この世界の人間どもがよく使っている器具。スマホ、とか言いましたか。

 居場所の追跡など、多少厄介な機能が備わっているようですが──

 あれを儀式の場に持ち込もうとしても無駄ですよ。貴方がスマホを持ち込もうとすれば、その場で虚無石が感知し、死力陣が発動しますからねぇ」


 高らかな嗤いと共に、スレイヴたちは病室の天井へと浮き上がり──

 そのまま夜の闇へと消えていく。


「我が主が求めるは、貴方の血と悲鳴、そして苦悶の絶叫です。

 時が来るまで、たっぷりとあがき、苦しみ続けなさい!」


 スレイヴの哄笑をじっと聞きながら。

 血まみれのシーツ、千切られた包帯。髪から垂れ下がって離れない、べとついた粘液──

 悠季はただ、全身の痛みに耐えながら、呻くことしか出来なかった。







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