その6 絶望
「『スレイヴ』の強襲に、ケイオスビーストの復活か……
嫌な予感は当たったというところだな。奴ら、最後に大物を起こすつもりか」
みなとからの報告を聞いても、広瀬はあくまでいつもの冷静さを崩さなかったが──
眉間に刻まれた皺は、常日頃よりずっと深かった。
ケイオスビースト──勿論、その名は葉子も沙織も知っている。
葉子はもう何度も、沙織は葉子たちに教えられながら、あの巨獣とは戦ってきた。
しかしそれはあくまで、ゲーム内での話だ。
それが──あの凄まじき怪物が、私たちの世界にまで現れる?
俄かには状況を呑み込めない二人の前で。
広瀬はそっと悠季の枕元にかがみこみ、その頬に右手を当てた。
悠季はまるで肺炎患者のように、苦しげな呼吸をぜいぜいと繰り返している。
「辛いか? 神城。
……と言っても、分からんか」
広瀬が何をしたのか分からず、葉子は首を傾げる。
そんな彼女に、広瀬はおもむろに告げた。
「天木さん。落ち着いて聞いて下さい。
神城がこの世界に留まることが出来るのは──
恐らく、もって後1週間です」
今度こそ、何を言われたのかさっぱり理解出来ず。
というより、脳が理解を完全に拒み──
葉子は、目を見張ることしか出来ない。
「神城や仁志といった異世界人は、そのままの状態でこの世界に転移しても、容易には生きていけません。
ですから異世界との通行にはあらかじめ、転移対象者に術をかけておくんです。先ほど仁志が話した自動翻訳術もそうですが、出来るだけこの世界に適応できるよう、身体にも相応の調整をかけています。
特に肺に関しては慎重に調整を行なう。異世界によっては、この世界とまるで大気の組成が違うこともありますからね。
何の調整も行わず、異世界人がこの世界に留まろうとすれば──
遅かれ早かれ、肺が血を噴いてしまう」
そうか。
ずっと悠季が苦しそうに息をしていると思っていたのは──
痛みのせいだけじゃなかったのか。
「幸い、神城たちの世界とこの世界は、大気組成自体はそこまで変わらない。
しかしそれでも、彼が元いた世界に比べ、この世界の空気は圧倒的に汚れている。
現状から推測する限り、彼の肺がもつのは最大でも1週間。
勿論、無理に動こうとすればその分だけ時間は短くなる」
あまりにも惨い現実に、葉子は完全に言葉を失ってしまう。
そのかわりとばかりに、沙織が口を挟んだ。
「で、でも……
彼に埋め込まれたのは、絶対死なない呪いの石なんでしょう?
だったら……」
「須皇さん。
虚無石は決して、人を不死身にするアイテムではない。
死よりも酷い苦痛を対象者に与え続けることを主目的とする、拷問器具だ。
つまりこのままでは、神城は呼吸も出来ず、死ぬことすら許されぬまま、石の力が消失するまで苦しみ続けることになる」
あくまで冷たく言い放つ広瀬に、思わず葉子は叫んだ。
「だ……だったら!
イーグルを……悠季を、今すぐ元の世界に返して!
この世界にいたらイーグルが、悠季が苦しむだけなら!!
イーグルが死ぬほど苦しむくらいなら、私、元の環境に戻ったって全然構わない!!」
髪を振り乱しながら、病室内で叫ぶ葉子。
そんな彼女を、悠季はじっと見つめていた。
何故自分が叫んでいるのか、それさえも恐らく今の彼には伝わっていないだろう──
それでも葉子は、胸の内を全て曝け出す。
「私は……一人でも、もう、きっと、大丈夫……
だから……だから!!」
吐露される感情。溢れだす涙。
あまりに頭を振り続けたせいで、二つに分けて緩めに編まれた葉子の髪からいつのまにか、片側のシュシュが落ちていた。
そんな彼女を、沙織もみなとも何も言えず、じっと見守るしか出来なかったが。
「天木さん──
残念ですが、それは出来ない」
葉子を押しとどめるように、広瀬が彼女の肩にそっと手を置いた。
しかしその言葉は容赦なく、現実を突きつける。
「今から神城を元の世界に転移させようとしても、恐らくその転移術自体が弾かれる。
無理に帰そうとすれば、次元間の混沌に呑み込まれ、どちらの世界にも二度と帰れなくなる」
「そんな……そんな……
じゃあ……!」
あまりのことに、遂にがくりと膝を折ってしまう葉子。
そのまま悠季の枕元に崩折れ、シーツに顔を埋めてしまった。
「イーグルは誰ともろくに話せないまま、息さえ出来ずにこの世界に置いてかれるしかないっていうんですか!?
酷すぎます。何で……何でイーグルがこんな目に!!
私、もう絶対許しません。あのスレイヴたちを……!!」
思わずシーツをちぎれんばかりに握りしめながら、叫び続ける葉子。
みなとも、沙織も、広瀬も──
誰も、彼女を励ますことも慰めることも出来ず、その光景を見守っているしかない。
しかし。
「……?」
そんな葉子の頭に、不意にそっと乗せられたのは、悠季の右手だった。
包帯で指先まで覆われた手。それが、葉子の髪を静かに撫ぜる。
思わず顔を上げると──
いつも見ていた、どこまでも深いアメジストの瞳。その優しい煌めきが、じっと葉子を見つめている。
──俺なら、まだ大丈夫。
だから、葉子。お前は、お前のやれることをやるんだ。
そんな悠季の声が、響いてきた気がして。
葉子の視界で、悠季の瞳の色が一気に滲んでいく。
気が付くと彼女は、彼の手を握りしめながら、シーツの上で嗚咽してしまっていた。
「あ……あぁ……イーグル!
私、助けるから。絶対に、貴方を助けるから……だから……!!」
握りしめた手が、微かにではあるが握り返される。
大丈夫。まだ、イーグルは──
神城悠季は、生きている。
ならば、泣いてなどいられない。自分が為すべきことを、為さなければ──
袖で乱暴に涙を拭きながら、葉子は顔を上げる。
そんな彼女の背中から、響いた声は。
「あの……葉子さん。
もしかしたら、アレがあれば……兄さん、助けられるかも知れません」
それは、両拳を握りしめたまま突っ立っていた、みなとの言葉だった。
葉子が問い質すより早く、沙織が反応する。
「な……みなと、何て?
ちょっと、詳しく説明しなさいよ!」
思わずみなとの両肩を掴む沙織。
そんな彼女と葉子、悠季を交互に眺めながら、みなとは話し始めた。
「虚無石の力を、即座に無効化出来る秘宝というのがありましてね。
『夢見の宝弾』と言われとります──」
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