その4 断絶




 葉子が駅から出た時、外はバケツをぶちまけたかのような大雨だった。

 横風も酷く、傘も殆ど役立たず。こんな嵐は初めてだ。

 あまりの天気で、通勤客は大慌てで皆タクシー待ちの列に並ぶか駅に戻るかしている。表通りも人っ子一人歩いていない。

 悠季は無事帰れただろうか。特にメールはなかったけど、大丈夫だろうか。

 夕飯の買い物もしたかったけど、この雨じゃとても無理だ。

 今日は出前か。いや、この天候ではどこも臨時休業だろう。

 こんな時の為にと、みなと君が買っておいてくれた食材はかなりある。今夜はそれで──


 そんなことを考えながら、マンションの前に差しかかった時。


「──!?」


 マンションの玄関先で、誰かが雨に打たれるまま、うつ伏せに倒れているのが見えた。

 最初は、黒いポリ袋に包まれた粗大ゴミでも飛ばされてきたのかと思った。それが人だと分かったのは、ちょうどその時雷が光り、透けるような白い肌と栗色の髪が見えたから。

 その髪は──

 これだけ雨に濡れていても頭頂部の癖毛がやや跳ねている、特徴的なその髪は。


「イーグル!!?」


 葉子は思わず傘を放り出し、駆け寄っていた。

 何故いつも『悠季』と呼んでいたのが、今イーグルと叫んだのか分からない。そもそも何故今まで自分は、彼を自然に『悠季』と呼んでいたのか──

 そんな疑問が頭の隅で微かに生まれながらも、葉子は無我夢中で悠季の身体を抱き起こす。


「……何、これ?」


 何が起こったのか。葉子の頭では、一瞬では理解しがたかった。

 血と泥にまみれた悠季の身体。朝着ていたスーツは紺色だったはずだが、今は何故か真っ黒にしか見えない。それは雨だけではなく、血の赤で殆どが染まっているせいだ。よく見るとスーツもワイシャツも至るところが破れ、噴き出した赤が全身を汚している。

 しかも、左肩から胸元までがどういうわけか大きく引きちぎられ、二の腕が露出していた。

 一体、どこでどんな喧嘩をすればこうなるのか。


「ねぇ、しっかりして。イーグル、お願い、目を開けて!!」


 腕が血まみれになるのも構わず、悠季の上半身を抱き起こす葉子。

 しかしその身体は──

 どういうわけか、恐ろしいほど、軽かった。

 シーフの特性か、元々の体質か。悠季が華奢な身体なのは知っていたが──

 異世界人とはいえ、ここまで成人男子の身は軽くなるものか。水を存分に吸った服の重みもあるはずなのに、葉子が両腕に抱えて運んでも殆ど疲れを感じないだろうというほど、今の悠季の身体は軽く感じた。

 足元の地面が砂と化し、一気に崩落していくかのような感覚が、葉子を襲う。


 ──軽すぎる。

 どうしよう。イーグルが、このまま羽みたいに、空気みたいに軽くなって、そのまま消えてしまったら。

 どうしよう。このまま私の前から、イーグルが消えてしまったら。

 イーグルが、いなくなったら。


 パニックになりかけ、葉子は慌ててぶんぶんと首を振った。

 駄目だ。冷静にならなければ。

 私が落ち着かなければ、彼はどうなる。


 もう一度、悠季の表情を確認してみる。血の気がひいて頬は青白くなってはいたが、それでもぜいぜいと呼吸をしていた。心音は──

 左胸に視線を落としてみると、大きく裂けたシャツの間から、雨に濡れて光る硬質の黒が見えた。

 これは──石だろうか? 嫌な予感がして触れられなかったが、悠季の心音に合わせてどくどくと脈打っているようにも見える。素肌に無理矢理埋め込まれたのだろうか、周囲に小さな血塊が幾つもこびりついていた。

 とにかく、一旦家まで運ばなければ──

 そう考え、悠季の背中を支えようとしたその時。


「……う……

 あ、う……あぁ……!」


 苦しそうに悠季が呻き声をあげ、その瞼を僅かに開いた。

 葉子の姿を確認出来たのか、よろよろと左腕を上げて彼女に触れようとする。

 同時にその唇は、早口で何事かを喋ったようだが──

 何故か葉子には、その言葉の意味が全く理解出来なかった。

 聞き取れないほどの音声というわけではない。これほどの怪我をしているにしては、とてもはっきりとした声で、彼は何かを伝えようとしている。しかし──

 何度聞いても、悠季の言葉が理解出来ない。どんな外国語でもない、葉子の全く知らない言語で彼が喋っているようにしか思えない。


「どうしたの、イーグル?

 今、救急車を呼ぶから。何があったか、ちゃんと聞かせて。お願い」


 葉子が悠季を見据えながら、そう口にした時。

 悠季のアメジストの瞳が、一瞬大きく見開かれた──驚愕と絶望で。

 彼女の眼前で、酷く歪む悠季の表情。髪から頬へ次々に流れ落ちる雨が、まるで大粒の涙のようにすら見える。

 何? 私今、何か変なことを言ったか?

 彼をそこまで傷つけてしまうようなおかしなことを、何か言ったのか。

 大きく首を振りながら、悠季はまるで赤ん坊のように葉子にむしゃぶりつく。


「あ……うぁ、ぐ……ヨー、コ……が……う……

 あぁあああああぁあああぁああ!!!」


 他にも様々な言葉を悠季は叫んでいたが、葉子が辛うじてこの国の言語として聞き取れたのは、こんな叫びだけ。


「イーグル、落ち着いて。

 みなと君と沙織さんにも連絡する。あと、広瀬管理官にも!」


 自身も雨に打たれるままになりながら、葉子は震える手でスマホを取り出し、躊躇うことなく救急車を呼んでいた。



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