その2 急襲






 買い物自体、そこまで時間はかからなかったが──

 店から出ると、まだ夕方だというのに真っ黒な空が悠季を出迎えた。

 蒸し暑い空気の中、雲が重く垂れこめている。明らかに雷の前兆だ。

 大粒の雨まで降りだして、街行く人々が慌てて傘をさしながら駆け去っていくのが見えた。

 幸い悠季も傘は持っていたが──

 それでも、買ったプレゼントを慌てて懐にしまいながら、雨の中を駆けだした。


「やべぇな……

 こんな土砂降り、結構久々じゃないか」


 傘をさしていても、ズボンの膝までがあっという間に濡れるほどの雨。

 道路はまるで川の如くに雨水が流れ、その上にごうごうと音をたてて水飛沫が舞う。さらに横風までが酷くなり、悠季はプレゼントを必死で雨から守るだけでも精一杯だった。

 マンションまではそう離れていないはずだが、これでは駅まで戻ることすら難しいように思える。


「これもやっぱり、違法召喚されたって魔物どもの影響か?

 だとすれば──」


 あまりの雨脚に、人通りもすっかりなくなってしまい。

 まだ夕方とは思えないほど暗くなった空では、僅かに稲光が走りだしていた。

 気づいたらスーツの背中から足までずぶ濡れになりながら、悠季は早足で歩いていたが──


「ん?

 あれは……」


 人っ子ひとりいなくなった、駅へ向かう裏通り。

 ほの暗い街灯が照らし出された道路に、たった一人、佇んでいる女性がいた。

 この豪雨の中、傘もささずに、じっと街灯の下で雨に打たれている。

 二つに分けて編まれた黒髪。少し瘦せ型だが柔らかい肩の線──

 すっかり見慣れたそのシルエットに、悠季は思わず声を上げていた。


「おい、葉子……!?

 どうしたんだよ、こんなところで。傘忘れたのか?」


 こんな天候の中一人で、何をやっているんだ。

 薄青のワンピースはびっしょりと濡れて肌に張り付き、身体の曲線をくっきり浮かび上がらせている。

 その肩に叩きつけられながら、白い飛沫を上げる雨。慌てて悠季は彼女に駆け寄ると、傘をそっと差しだした。


「悪ぃ。今日はどうしても管理官の奴がうるさくて、一緒にいられなかった。

 会社で、何かあったのか。俺のいない間に、また礼野か誰かに何か……」


 葉子のセミロングの黒髪はぺとりと両肩に貼りつき、街灯に照らし出された顔色は恐ろしく白く見えた。

 しかし──その唇は何故か、微笑みすらたたえている。

 垂れ下がった前髪から覗いた黒い瞳が、ゆっくりと悠季を見上げた。喉元から微かな笑い声を響かせながら。


「ふふ……

 ずっと待ってたんだ、悠季のこと。

 こんなところで一人ぼっちにされて……さみしかった」


 ──待て。

 葉子は、こんな物言いをする娘だったか。

 葉子の肩を軽く支えようとして、悠季の手が一瞬止まる。

 脳内で突然鳴りだす警報。それは、長年培ったシーフとしての勘か。


 しかし、危機を察知して反射的に悠季が飛び退くよりも早く。

 葉子の──眼前で笑う女の左手が、不意に彼の右腕を掴んだ。

 シーフの自分を上回るほどの速度に、完全に意表を衝かれてしまう悠季。その手から落ちた傘が、濡れた路面に転がった。


 違う、葉子じゃない。こいつは──!!


「ずっと探してたの。

 貴方を──」


 その言葉と同時に、女の右手が蔓の如く伸びてきて悠季のワイシャツを鷲掴みにした。左胸、心臓付近を。

 掴まれた身体に食い込む女の指。それが、焼け落ちた樹木の如く真っ黒に変色していく。その先端は何故か、鋭利な刃の如く変化して──

 豪雨の中にも関わらず、ぞわっと空中へと不自然に蠢く女の黒髪。咄嗟に悠季は、胸元のプレゼントだけは守ろうと身をよじったが。


「殺す為に!!」


 抵抗も虚しく、恐ろしく強い力で掴まれた左襟ぐりは──

 次の刹那には衣服ごと引き裂かれていた。瞬時に巨大な鉄の爪と化した、女の手によって。

 最早5本の刃同然のその爪は、巻き込んだ背広の一部すらも引きちぎり、一瞬で悠季の左肩から胸元を雨中へと露出させた。


「ぐ……てめぇ!!」


 間違いない。こいつは──こいつこそが、異世界からの侵入者。

 俺たちの世界から、無理矢理こっちの世界に入り込んだ奴だ。畜生、まさか葉子に化けてやがるなんて!!


 まんまと間合いに入られた自分の至らなさに歯噛みしながらも、悠季は咄嗟に時間停止術を発動させる。

 同時にまだ自由のきく左手で、懐に隠し持っていた愛用の短剣を抜き放った。この世界に来てからも、常に携帯していたダガーだ。

 普段はただのライターに偽装しているが、いざとなれば刃渡り10センチほどの短剣ともなる。いかに銃刀法がどうのと言われようが、これを手離すのは悠季のようなシーフたちにとって命を手離すも同然だった。

 術力の青い光を刃に纏わせ、雨を切り裂くが如く横薙ぎに刃を振るう。葉子に化けた異形に向けて──

 飛沫の中へ舞い散る、黒い血液。その色はまさしく、相手が『イーグル』のいた世界から襲来した、魔物であることを証明していた。


「残念だったな!

 そう簡単に俺を騙せると思ったら、大まちが……っ!?」


 時間停止の術を纏わせた刃で、相手の腕を一閃した──

 だが、悠季がそう思ったのも束の間。

 眼前で、葉子の形をした魔物の眼が一旦閉じられたと思うと、不自然なまでに大きく見開かれた。

 そこにあったものは眼球ではなく、真っ黒に窪んだ眼窩。その奥では、紅紫の舌にも似た何かが、ちろちろと小さく蠢いている。

 覚えがある。この眼は──眼とも言えない何かをもつ魔物は。

 背筋にぞわっと悪寒が走る。それは決して、身体中を流れる雨のせいだけではなかった。


 まさか。こいつは──

 生きてやがったのか。葉子と一緒に、あれだけ何度も叩きのめしたのに!!


 笑いの形に歪んだ女の唇。その端が一気に耳元まで裂け、悠季の眼前でばっくりと開かれる。

 歯らしきものが一切見えない口腔。その奥から漏れ出た声が、ゲタゲタと悠季を嘲っていた。



「クックック……

 よもや、首都に近い地域に貴様が隠れているとは思わなかったよ。

 ──マイスのドブネズミが!!」



 およそ女とも思えぬ大音声で悠季を罵りながら──

 大きく開かれた喉から、黒い矢の如き何かが発射される。それは無限に伸びる舌にも似た気持ち悪さがあった。

 術を発動させつつ咄嗟に身を翻そうとしたが、ゼロ距離と言っていいほどの至近では避けることもままならず──


「ぐっ……!?」


 剥き出しにされた悠季の左胸を、酷い衝撃が貫いた。

 幸か不幸かその衝撃は質量を伴っておらず、実際に矢や銃弾が撃ち込まれたわけではない。しかしそれでも、異形から放たれたその攻撃は、悠季の身体を一瞬で後方のコンクリの壁まで吹き飛ばしていた。心臓が破裂したかのような激痛と共に。

 激しく背中をうちつけ、飛びかけた意識を何とか引き戻しながら──

 悠季はそれでも体勢を立て直し、荒くなる息を整えながらダガーを構える。


 間違いない。

 こいつは──『スレイヴ』だ。

 俺の世界をぶっ壊そうとしていた邪神。その化身たる3体の下僕──そいつらは『スレイヴ』と呼ばれていた。

 この横暴な口調は恐らく、『撃滅』を名乗るスレイヴ。

 単に破壊活動を行なうだけではない。あらゆる地域で人間たちを巧みに操り、時には戦争や内乱まで引き起こし、外からも内からも人間世界を壊滅させようとした。

 ケイオスビーストが復活したのも、こいつらの策略だった。マイスが崩壊したのも──

 俺や仲間たちが皆、一度は死んでしまったのも!


 悠季は素早く周囲の気配を探った。

 こいつらは仲が悪く、3体一緒に行動することは滅多になかった。揃って襲いかかってきたのは、こいつらの主たる邪神がいよいよ危機に晒された、その時だけだったっけ。

 だが──確かに、もう1体の気配を感じる。滝のような雨に紛れて、微かに奴ら特有の、腐った血の臭いが。

 でも、もう負けるものか。俺はてめぇらに伸されていた頃の俺じゃない。


「残念だったなぁ。

 また俺に殴られにきたか、てめぇら!!」


 一旦体勢を低くしながら、敏捷かつ獰猛な獣のように相手を睨みつけ、刃を構える。

 時間停止術と同時に氷術の連撃、そして変幻自在の斬撃を叩き込めばいい。スレイヴの奴らは大概、それだけでおとなしくなったはず──

 さっき刃に乗せた時間停止術は何故か外れたらしく、敵は今も悠々と蠢いている。この、呼吸するだけでもむせ返りそうな雨の中を。

 今や髪からも顎からも袖からもぼたぼたと雨水は流れ落ち、身体に張りついた服が酷く重い。ダメージを負った悠季を、相手は舌なめずりでもするかのように余裕綽々の態度で見下していた。

 それでも悠季は再び、時間停止術を刃に乗せ──


「……!?」


 そこで悠季は初めて、異変に気付いた。

 術が──発動しない。

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