その8 あたしたちが幸福になるのが、そんなに嫌ですか


 悠季の言葉に励まされたように、みなと君も落ち着きを取り戻し、糸目に戻っていく。


『幸部長。

 沙織さんからお話は聞きましたが──例の試験を受けると彼女に決定させた流れを確認すると、正直、無謀という感想しか浮かびません』

『と、言いますと?』


 ふてくされたように腕組みする部長。

 その眼前に、みなと君は何枚かの書類を提示する。


『人事部門に頭下げてお預かりしてきました。これ、沙織さん採用時に使用された書類のコピーです。

 沙織さんは派遣でしばらくこの会社に勤務した後、正社員として採用された。

 しかしその時に行なったのは面接だけで、筆記試験などは何もなかったそうですね』

『彼女の能力はその時点である程度把握できていましたからね。筆記試験をせずとも問題はないと判断してのことです』

『正社員として採用するだけなら、それでも問題なかったかも知れません。

 ですが貴方はすぐに、沙織さんを例の試験に参加させることに決めた。その証拠がこの、貴方と人事部門との会話メモです。

 何故、ある程度の筆記試験での実力確認すらせず、あんな高レベルの資格に挑戦させようとしたのです?』


 禿頭を掻きながら、ため息をつく部長。


『彼女は有名大卒でしたから、十分な学力はあると判断しました。すぐに合格は出来ずとも、研修を受けて勉学に励んでいれば少しずつ実力はついていくはずと。

 他の受験者も、似たような過程で合格した者は多い』

『そうですか』


 みなと君も負けじと大きなため息をつきながら、矛先を変える。


『では、それはそれで仕方ないとしましょう。

 最大の問題は──』


 みなと君は沙織さんへ、視線を走らせる。

 それに答えるように、彼女はおもむろに口を開いた。

 怒りと恐怖がない交ぜになった感情を、精一杯抑えているような沙織さんの横顔。


『部長。今考えても、受験を決めた流れは無理矢理すぎでした……

 部長が受験の話を持ってきた時、あたしたちのチームは一年でも最高に忙しい時で、一分一秒でも時間が惜しい時だったでしょう。

 特にあたしは──初めて迎えるピークの時だったから、何もかもが分からなくててんやわんやで、お昼もろくに食べられない状況でした。

 そんな時に突然部長が来て……例の試験、今日が締め切りだから一刻も早く手続きに行けって言われて』


 一瞬、耳を疑った。

 一年のピークがどれだけ忙しいかは、部長だって把握しているはず。なのにそんなタイミングで、全然関係ない受験手続きを強いた?

 酷く無理矢理だったとは聞いていたが、ここまでとは。


『確かにあたし、例の試験は受けられるなら受けてみたいという意思表示はしていました。その時は何も知らなくて、やれることは何でもやりたいと思っていたから。

 だけどそれは、数年経過して仕事に十分慣れてから改めて受けるものだと思っていたんです。なのに、まだ全然仕事を知らないうちに言われるなんて思っていなくて。

 チームリーダーまで巻き込んで、一緒に人事部門に走れと強引に連れ出されて……何が起こっているのか理解出来ないまま、面談を受けさせられた。

 その状況で断ることなんて、出来ませんでした』


 激昂を抑えに抑えている沙織さんの言葉。

 それに対し、当惑したように部長は言ってのける。


『あの時は私も手続きの件を失念していました。それは大変申し訳なかったと思っています。

 ですが須皇さん。何度も言いましたが、貴方のその認識は改めてもらわねばならない。

 あの試験は合格までに数年かかります。少しでも早く研修を受けて合格し、仕事に役立ててもらわねばなりませんからね』


 ぬけぬけとよく言う。

 そんな私の気分を代弁するかのように、悠季が言い放った。


『本当に忘れてたっつーなら正直無能すぎるし、そうでなければ熟考する猶予を与えない為にわざとやったとしか思えねぇな。

 いずれにせよあんたが沙織を受験させたやり方は、大馬鹿か卑怯者の方法だぜ。

 数年を犠牲にすると分かってて、何で考えさせる余裕すら与えなかった? その日が締め切りなら、もう1年待っても良かったじゃねぇか。結果的にこうやって、何年も無駄に浪費させられてんだから。

 一番クソ忙しい日にチームリーダーまで一緒に手続きについていかせるなんて、マジでありえねぇんだが?』


 悠季の言い方が気に障ったのか。

 明らかに憤慨を露わにし、部長は鼻を鳴らした。


『貴方がたは何も分かってはいない。

 私も、同期も、部下も、皆そうやって理不尽を生き抜いてきた。

 須皇さんは派遣で入社した。新卒なら皆受ける、あの地獄の集合研修さえも受けていない。

 だからこそ会社のやり方を学んでもらわねばならなかったんだ!』

『つまり、自分のお仲間が欲しかったってのかい。

 ブラック企業の仲間がよ!』

『我々のどこがブラックだと言うんだね。

 残業規制はきっちり守っている、休日に働いている社員などいない!』

『そのせいでみんな、時間がないない騒いでるのが分かってねぇのかあんたは!

 残業をさせたくないなら、少しでも業務量を減らすよう管理するのが上司の仕事だろ。

 業務をこっそり持ち帰る奴だっているんだぞ!!』

『コストを下げろ、だがクオリティは下げるな──それはこの会社のみならず、世間の常識だ。

 その為に定期的にオペリスク対策会議を開催している!』

『あー、毎週葉子たちの部署まで巻き込んで、貴重な時間無理矢理割かせて、ミス防止の為にやってる奴な。

 あれだって毎回、人員と時間が足りねぇって結論が散々出てるのに、その問題だけは完全に無視してあんたは別の解決策を出せって無茶言いやがる。

 根本的な問題を放置して何がオペリスク対策だ、ふざけんな!』

『こちらの努力が分からんというなら議論の余地はない、出て行ってくれたまえ!』


 部長の言葉に、頭に血が昇ったのか。悠季もいつの間にか、自分のことのように激している。

 しかし──

 そんな彼を、不意に止めたのはみなと君だった。


『いいんです、兄さん。

 それ以上言ったら、葉子さんにまで迷惑かかっちまいますぜ』


 悠季を止めながら前に出たみなと君は、静かに部長と対峙する。


『幸部長──

 貴方は並みならぬ苦労をされ、多くの犠牲を払いながらここまで来た。それは確かに事実なのでしょう。私も商売人のはしくれ、その程度は理解出来るつもりです。

 しかしその苦労を周囲にまで押し付けて、ご自分と違う考えを排除し、会社に身を擲つような社員ばかり囲うのは──

 奴隷商人以下のやり口ですよ』


 両拳を握りしめながら、みなと君はほんの少しだけ糸目を開き、じっと幸部長を睨みつけた。


『多くの時間や、プライベートさえも犠牲にする痛みを分かっているのであれば。

 それを周囲に強要するのではなく、少しでもその痛みを解消するように動くのが、本来の上司の役割ではないですか。

 下の世代に自分たちと同じ苦労を強いたところで、反発されるのは当然です。

 何故、同じ苦労をさせまいとする方向へ動けないのですか? 少しでも皆が楽になる道を選んでくださいよ!!』


 小刻みに身体を震わせながら、必死に紡ぎだされたみなと君の言葉。

 だがそれさえも、部長は鼻息と共に吹き飛ばす。


『仁志さん。

 楽になる道とは停滞。即ち、企業の凋落に繋がります。

 顧客に選ばれ勝ち残る為には、常に企業は変革と成長を続けていかねばならない。同業他社が成長を続ける中、わが社だけが停滞を選べば、次の瞬間に会社ごと蹴り飛ばされる』


 淡々と、もっともらしい言葉を並べていく幸部長。

 確かにこれだけ聞くと、会社の為顧客の為に邁進する、素晴らしい上司の言葉にも思える。

 しかし──

 次の瞬間、ついに耐えきれなくなったのか。

 沙織さんの叫びが響いた。


『もうたくさんです、部長!

 あたしたちが幸福になるのが、そんなに嫌ですか。

 社員が幸せになるのは、決して停滞と同義じゃない。今までと同じような苦労を続けていくつもりなら、むしろそれこそ停滞じゃないですか!!』


 そう言い放つと沙織さんはみなと君を庇うように前に出て、部長の眼前でデスクに両手を叩きつけた。


『とにかくあたし、あの試験の受験だけはやめさせてもらいます。

 部長が強引に続けさせようとするならそれでも結構ですけど、絶対にもう、あのテキストは一秒だって読みませんから!!』


 部長への恐怖にも負けずに、精一杯の怒声で沙織さんは部長に迫る。

 その心情がスマホごしでも分かりすぎるほど分かってしまい、私は思わずスマホを握りしめていた。頑張って、沙織さん。負けないで──

 しかしそんな私の心すら逆撫でするように、幸部長は腕時計に視線を落とした。


『おっと……申し訳ない。そろそろ次の会議の時間だ。

 須皇さん。一旦この話題は保留にさせて下さい』


 そう言い放つと部長は席を立ち、沙織さんたちを一顧だにすることなく、逃げるようにその場から立ち去っていく。

 悠季すら驚くほどの逃げ足の速さで、部長は会議室から駆け出していってしまった。


『おい! 

 ちょっと待て、話は何も終わってねぇだろが!!』


 虚しく響く、悠季の怒声。

 時間停止術でも発動しかけたのか、その右拳は微かに青く煌めいていた。

 ──ケイオスビーストすら容赦なく停止させる悠季の術を躱すとは。あの部長、実は只者じゃないかも。

 私は呆れのあまり、そんな感想しか抱けなかった。







「仕方ないのよ。

 あの不幸部長、いつもそう。どうしても不利な状況になると会議だなんて言って逃げる……

 何となくこうなるんじゃないかと思ってたけど、それでもこっちの言いたいことは言えたからね♪」


 部長との面談後、沙織さんは私と喫茶店で合流し──

 結果があんなだったにも関わらず、満足そうに笑っていた。

 私の横では悠季が不服そうにぶすくれ、沙織さんの横ではみなと君が疲れ切ったように肩を落としている。


「申し訳ありませんでした。

 この面談、沙織さんの心象を悪くするばかりだったかも知れませんね。それどころか兄さんも巻き込んで、下手すりゃ葉子さんにまで……」


 そう小さくなるみなと君に、大きく首を横に振って彼を思いきり抱き寄せる沙織さん。


「自信持ちなさい!

 何度も言ったでしょ。みなとはホントにカッコよかったって!!」


 沙織さんに遠慮なく抱きしめられ、思わず真っ赤になるみなと君。

 少女に抱きしめられるぬいぐるみみたいで、私は思わず吹き出してしまった。

 沙織さんは堂々と言い放つ。


「元から頭のおかしな部長の心象が悪くなるぐらい、何でもない。さっさとクビにでもしてくれりゃいっそスッキリするのに、それだけは頑なにやらないんだから」


 不満を隠せないまま、悠季も呟いた。


「クビってのはいわば、会社都合の解雇ってことだからな。

 解雇するかわりに退職金も全額支払わなきゃならんし、会社にとっちゃ出来ればやりたくないのさ。

 だから、自分らの思うようにならない社員はすぐにクビにするんじゃなく、自己都合で辞めると言い出すまでじわじわ追いつめる──それが奴らの常套手段。

 ちょっと前のPIPも、その一策だったらしいじゃねぇか」


 コーヒーを飲み干しながら、悠季は堂々と足を組み直し、私にちらと視線を送った。


「多分会社の奴らは、PIPで葉子も沙織も自己都合退職に追い込むつもりだった。昔と同じやり方がまだ通じると思い込んで。

 だが──異世界PIPは、それまでのPIPとは全く性質が異なる。それに奴らは気づいてなかった。

 何故かって? 答えは簡単、会社本位のアタマしかないおめでたい奴らばっかだったからさ」


 悠季は迷うことなく私の手にその手を重ねながら、白い歯を見せて微笑む。

 そう──私も、今回の件で初めて知った。

 悠季がこの世界に来た目的は、最初から『天木葉子を幸せにする』ことだった。

 会社から、社会から、親からすら見捨てられかかっていた私を。

 それを会社も、私自身ですらも、今まで誤解していた──

 PIPは、『どうしようもない無能を会社に適応させる』ものだと。


「俺たち以外にも、PIPで会社に乗り込んでいった異世界人は無数にいる。俺たちのいた世界よりも、もっと厳しい世界から送り込まれた奴らが──

 会社で無能扱いされた奴らの周辺には、大抵会社の膿が蓄積している。俺よりもよっぽど強くてまっすぐな異世界連中がその膿を徹底的に洗い出して、世界中の会社をどんどん中から変えていってるんだ。

 自分がした苦労は他人もして当たり前なんて屁理屈は、もう通用しない。

 それを分からない、分かろうとしない企業は、いずれ内からも外からも突き崩されていくだけだ」


 悠季は力強く、私の手を握りしめる。

 私はそっと、その手を握り返した。

 ──ごめんね、イーグル。

 貴方は最初から、私の為に動いてくれていたのに。

 私はほんの少しだけ、怖かった──

 私が会社に適応してしまったら、貴方はさっさと元の世界に帰ってしまうんじゃないかって。

 そうじゃない。貴方はきっと、ずっと、私が幸せになる為に、一緒にいてくれる。

 言葉にしなくても、手の温度と力強さだけで、そう確信できた。


 そんな私たちの様子を見ながら、沙織さんはみなと君を抱きしめたまま、にやりと笑った。


「さーて。

 それじゃ帰ったらまた、ケイオスビースト倒しにいこうか!!」

「え?

 ど、どど、どういうことスか沙織さん。ビーストならこの前……」

「バカねぇ~

 ビーストは倒したけど、マイスの街を守り切れなかったじゃない。

 4周目、今度こそマイスを守って、完全勝利といくわよ!!」


 ──沙織さんも、今後会社で無事にやっていけるかどうかは分からない。

 見方によってはむしろ、状況が悪化したとも言える。

 でも、沙織さんの表情はこれまでになく晴れやかだった。

 それは多分──

 どんなことがあっても、みなと君が確実に味方についていてくれる。その確信があるから。

 事実、試験勉強を放り出してケイオスビーストの討伐を始めてから、沙織さんのスケジュール管理は少しずつ改善されてきている。それは恐らく、何が原因でこのタスクをこの期限までにやらなくてはいけないのか、この業務の締め切りまでに完了しておかねばならないタスクは何なのかを、改めて把握できるようになってきたから。

 彼女がそうすることを認めたのはみなと君で、そうできるように尽力を惜しまなかったのもみなと君だ。

 それでも、頭の中でロックがかかることはまだあるみたいだけど──

 今後沙織さんに何があっても、みなと君は絶対的に彼女の味方だ。



 沙織さんの勢いに連れられるように、帰路についた私たち。

 夜空に輝く大きな満月を眺め──私は自然と、悠季と手を繋ぐ。

 ──たとえ明日また、会社でミスったとしても。

 たとえ明日また、先輩に怒鳴られたとしても。

 今はいつでも、悠季が──美しいアメジストの瞳が、すぐそばで力強い輝きを放っている。

 その輝きが消えない限り、私はもう大丈夫。

 だって私とイーグルは、どんなに追いつめられても決して負けなかった、『バディ』同士なんだから。



(第3章・Fin)



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