その5 間違ったのは「無能」の私?



 それは、田中君のチェックした書類。

 契約者の印鑑が押されているべき場所に、名字は同じだが明らかに違う種類の印鑑が二つ、押されていた。

 急いで分厚いマニュアルを確認したが、こういう時の対処は何も載っていない。自作のエクセルマニュアルを確認すると──

 はっきりと、この場合はNGとの記載があった。

 それでも田中君は書類にOKの判定を下している。つまりこのまま何もしなければ、契約は明日には成立してしまう。

 内容に間違いのある契約書が、成立してしまうのだ。

 一緒に内容を見ていた悠季も、それに気づいたのか。


「おい……何だこれ。

 違ってるじゃねぇか」

「ま、まだ分からない……

 私のメモが違っているだけかも知れないし」

「結構はっきりと、駄目だって書いてあるだろ。

 何度も確認したところじゃないのか」

「うん……確かに、この押印パターンは駄目って何度も先輩に言われたはずなの。

 だけど……」


 心拍数が異様に跳ねあがっていくのを感じながら、恐る恐る先輩と田中君の方を振り返る。

 奇しくも田中君は本日早退につき不在。ついでに言うと、上司やリーダー、サブリーダーも会議で不在。そこには礼野先輩しかいなかった。

 悠季と思わず眼を見合わせる。

 俺が行こうか?とあからさまにその眼は言っていたが──

 私は慌てて首を横に振った。さすがにこんなことまで悠季に頼るわけにはいかない。

 問題の書類をプリントアウトして、恐る恐る礼野先輩のところに持っていく。

 そして、酷くしどろもどろながらこの件を説明してみると。


「……が出てないなら保留にしておいてください」


 酷くつっけんどんに、早口でそう言われた。

 恐ろしいほどの早口で、最初が聞き取れなかったのでもう一度聞き返したかったけど、またしても「何度も聞くな」と言われるのが怖くて、私はすごすごと席に戻る。

 とにかく、明日の成立を一旦止める為には今保留にするしかない。そう考えて、私は田中君の案件に、「保留」のボタンを押した──

「何とかなったな」悠季もすぐそばでにっこり笑い、白い歯を見せてくれる。


 しかし、その数分後。

 背後から、先輩の絶叫が響いた。


「これ田中君がチェックした案件じゃないですか!?

 天木さん! どうして止めたりしたんです!!」


 私も悠季も、一体何を言われているのかさっぱり分からず、ただただ驚愕しながら振り返るしかない。

 私と悠季の間に先輩はずかずかと割り込んで、プリントアウトした田中君の案件を突きつけてくる。


「機械チェックのエラーがないかは確認しましたよね私!?

 天木さんはないって言ってましたよね!?!」

「え……は、はい」

「田中君の決定を覆すことになるんですよコレ!

 明日成立するはずだった契約を、天木さんは嘘をついて一日遅らせたんです!!

 謝って下さい! 明日、田中君に!!」


 ──会話を思い出してみると、「……が出てないなら」の部分を、私は聞き返せなかった。

 あれは、「機械チェックによるエラーが出てないなら」と言ってたのか。

 つまり私は、エラーが「出てない」と言ってしまったも同じ。

 しかし田中君に案件が回ってきているということは、機械チェックで弾かれたということでもある。だから普通、機械によるエラーは『出ている』はずなのだ。

 ──あぁ。ほんのちょっとしたことで、私はまたとんでもないミスを……!!


 先輩の怒声に何も反論が出来ず、私はただ黙って肩を縮めるしかない。

 しかし──


「おい、待てよお前」


 そんな私と先輩の間に、当然のように割り込んできたのは悠季だった。

 私を庇うように、立ちはだかる悠季の背中。


「葉子は最初から、これは田中の案件だって言ったはずだぜ。

 田中がミスをした可能性があるから保留にした、それを命じたのはお前だ。

 何の問題があるってんだ?」


 そんな悠季を正面から敢然と睨みつける礼野先輩。

 彼女の背丈は悠季とほぼ同じか、下手すると彼女の方が大きいかも知れない。自信たっぷりに悠季と私を見下げながら、彼女は言ってのける。


「私はちゃんと、機械によるチェックのエラーがないかどうかを天木さんに確認しました。

 それがあったのなら、機械で弾かれたものを田中君が正式にチェックした案件ということになる。それを天木さんは「ない」と主張したんですよ」

「確認の必要あるか? チームに回った案件は全部、機械チェックから弾かれたものなんだろ?」

「ごくまれに、機械でエラーが出なくても案件を手動でチェックすることもあります。そのケースなら保留にしていい、私はそう言ったんです。

 しかし実際はそうじゃなかった」

「機械でのチェックがあろうがなかろうが、田中のチェックにミスがあった可能性はあるだろうが!」

「機械がチェックして印鑑の不備を見つけられなかったのなら、それは機械に問題があるから保留にしてください──そういう意味で言いました。

 田中君の決定を覆せとまでは言っていません!」


 要するに、先輩の言っているのは。

 印鑑に不備があり、機械でのチェックがOK、田中君の判定がOKなら

 ⇒機械でのチェックがおかしいから保留。

 印鑑に不備があり、機械でのチェックがNG、田中君の判定がOKなら

 ⇒何もおかしくないから通せ。

 そういうことだ。


 ここにきて、悠季は真っ向からじろりと彼女を見上げる。

 アメジスト色の瞳は憤怒で吊り上がり、爛々と輝いていた。


「つまりてめぇは──

 田中や、自分たち職人様の決定こそが絶対。

 それを、ミスだらけで仕事をする資格もねぇ葉子が覆すなんてとんでもないと。

 そう言いたいわけだ。田中がミスった可能性がどれほど高かろうと!!」


 悠季の怒声は、今やフロア中に響きわたっている。

 隣の部署の人たち、藤田さんや吉原さんまでも、少し心配そうにこちらを振り返っていた。

 それでも礼野先輩は、嘲笑すら浮かべながら悠季を見下げた。


「私たちが見るものは印鑑だけじゃありません。

 印鑑に不備があっても、契約書全体を調べて問題がなければ、総合的判断でOKとすることもあります。

 田中君はその判断が出来る人です」


 そしてお前は、その判断が出来ないほど無能な人間だ。

 そう言いたげに、先輩は私にはっきりと侮蔑の視線を浴びせる。

 しかし悠季はそんな彼女に、呆れ果てたように頭を振った。


「同じ不備があっても、機械がOKしたものは保留にして。

 田中がOKしたものは止めちゃ駄目って……どーいう理屈だ。

 俺にはわけが分からねぇ。機械もミスは出すかも知れんが、人間はそれ以上にミスする生き物だろうが!!」

「その理由が分からないなら、天木さんは勿論、神城さんもここにいる資格はないでしょうね」


 自信満々に言ってのける先輩。

 しかし悠季も一歩たりとも退かなかった。


「あぁ、いたくもねぇさ。

 本音言うと、こんなところからはすぐにでも葉子を連れ出してぇよ。

 ていうかそもそも、葉子は一番最初にあんたに、これは田中のチェックした案件だって言ったはずだぞ。俺はちゃんと聞いてた。

 それならそれで何もする必要はないって言えばいいのに、あんたは葉子に、保留にしろって指示したんだ」

「私には聞こえませんでしたよ。天木さんの声が小さすぎて、田中君の案件だなんて聞き取れませんでした」


 嘘よ。それは絶対、先輩の嘘。

 私は心の中で叫んだが、その通りの言葉を悠季は吐き捨てた。


「嘘つけ。

 それを言うなら、あんたの言ってた、自動チェックのエラーが出てないなら云々も、俺には聞き取れなかったね。あんまりにもつっけんどん過ぎて!」

「聞き取れなかったなら聞き返せばいいでしょう。

 その程度の基本も分かってないの? 天木さん」


 私は何も言い返せず、悠季に庇われるがまま。

 多分第三者から見れば、男に徹底して守られる一方の、嫌われヒロインそのものだ。

 それでも悠季はひとつも矛先を翻さず、礼野先輩の前に立ちはだかる。


「そもそもあんただって、問題の案件を直接見たはずだ。田中と同じ立場の「職人様」たるあんたが案件を見て、それで保留にしろって言ったんだぜ?

 葉子にやらせず、あんたが自分で保留にすりゃいいだけの話じゃねぇか。機械チェックのエラーの有無だって、あんたが自分で確認すりゃ良かったのさ。そうすりゃこんなごたごたも起こらなかったじゃねぇか」

「天木さんと違って、私たちは他の人の案件を見るほどの余裕はありません。

 ただでさえ案件が溢れているのに、使えない人員まで発生してるんですから」


「使えない」のところで明確に私を見下げながら、先輩はわざとらしく腕組みする。

 品定めをするかのような眼で悠季を上から下まで眺めながら、先輩は言った。


「それと、神城さん。

 朝からずっと貴方、天木さんの肩をお持ちのようですけど。

 天木さんは、よく嘘をつく人なんです。今みたいに」

「……」

「自分のミスをごまかそうとして、小手先だけのすぐバレる嘘をつく。

 さっき神城さんにしていた仕事の説明にしても、私には結構説明不足や認識相違があるように聞こえましたよ」

「…………」

「そのうち貴方だって、天木さんに騙されるかも知れませんよ?

 私だって最初は、天木さんを信じていました。信じていたから、私なりに懸命にトレーニングしたつもりです。

 それなのに──

 分かっていない癖に分かったと言い切り、同じ質問や同じミスを繰り返す。

 ミスを隠す為に、やったことをやっていないと言い、肝心なことはぼかして話す。

 そういう人です、天木さんは。

 それでも貴方は、彼女を無条件で信用するんですか? どれほど酷い目に遭っても?」


 先輩の言葉を聞いているうち、私の視線は完全に床に落ちてしまう。

 薄汚れたタイルカーペットの灰色だけが、やたらと目についた。

 そうだ──先輩の言うとおりの人間だ、私は。

 最初優しかった先輩が、どんどん鬼になっていくのが怖くて。

 また同じことを質問したと、怒鳴られるのが怖くて。

 私はいつしか先輩を避けるようになり、先輩に黙って他の人に質問しにいくようになってしまった。先輩とどうしても話をしないといけない時は言葉少なに、小声になってしまい──

 結果、大事なことを伝えていないか、伝わっていないかという事態になることも何度かあった。

 それが先輩にとっては、「嘘つき」の「卑怯者」に見えたのだろう。


 今こうして、私を完全に信用してくれている悠季だって──

 いつか私に愛想を尽かし、私を見捨てる時が来てしまうかもしれない。

 信用し切ってくれている分、先輩よりもっと酷い形で。

 いつもそうだ。私に優しくしてくれた人は、いつも私の無能のせいで──


 しかし、その時。

「あんたこそ、葉子を全然分かってねぇよ」

 そんな言葉と共に、悠季の手が、ぎゅっと私の左手首を握りしめた。


「俺は言いきれる。

 葉子は、あんたが思ってるような卑怯者なんかじゃねぇって。

 俺が今ここに生きているのが、その何よりの証拠なんだからな!」


 言葉の根底を貫いているものは、一切揺らぐことのない、絶対的信頼。

 多分彼は、私自身よりよほど強く、私を信頼してくれている。

 そんな悠季の言葉と、視線の強さに──

 私は今度こそ、確信した。

 現実の人間とそう変わらない容姿になったせいで、すぐには気づけなかったけど。


 やっぱり彼は──「イーグル」だ。



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