没ネタ置き場

生來 哲学

虚手の宙醒 序章

 永良由夏乃は伝説であった。

 その身体能力。判断力。その胆力。

 あらゆる窮地を切り開き前へと進むその姿は弱冠十八才にしてまさに英雄そのもの。

 人には運命というモノがある。

 きっとこれから先彼女は人類史に名を残す偉大なる者になるのだろう。

 そう、七々原静依は信じていた。

 これからきっと自分は彼女の積み上げていく偉大なる功績をもっとも間近で見続けていくのだろう。

 そう、確信していた。

 だが、その予感は地球を旅立ってすぐに裏切られる。




「手、なくしちゃった」

「何やってんのあんたっ!」

 あまりにも軽い調子に思わず叱責が口をついて出た。

 永良由夏乃は訳の分からない少女である。

 猫のような癖ッ毛で、つり目で、自分勝手で、目を離すと居なくなり、気がつけば隣で甘えてくる。捉えどころのない、自由奔放で、制御不能な野生の猫のような少女だ。

 いつだって彼女はトラブルを持ち帰る。

 船内の自室に戻った由夏乃はふわふわと浮遊しながらなんてことない調子で笑う。

 だが、対照的に静依は目を白黒させ、顔面蒼白になりながら、右手のなくなった由夏乃の手を見つめる。手首に包帯が巻かれ、その先は確かにあるべき右手が失われていた。

「そんな、これ、え、ちょ、大丈夫なの?」

「大丈夫だって。もう痛みはないし」

「大丈夫な訳ないでしょうがぁっ! どうするのっ! これっ!」

 にへらって笑う彼女に思わず静依は怒鳴る。

「え、あの、ゴメン」

「なんてこと……どうしてそんな――」

「大げさだなぁ」

「オオゴトでしょうがっ! どう考えても! 由夏乃、あんたこれからもう一生右手なしで生きていかないといけないんだよ。その、あの、今混乱としてるからあんまり思いつかないけど絶対辛いじゃないっ! こんなこと!」

 叫ぶ静依だが、由夏乃はあくまでもにこやかだった。

 彼女はすっと目を細めると静かに言った。

「ありがとう」

「え?」

「私のために泣いてくれてありがとう」

 そこでようやく、静依は自分が泣いていることを自覚した。

「やだ、私……やだっ……やだっ……こんな」

 溢れくる涙に静依自身が戸惑い、顔を歪ませる。何故涙を、と自覚する度に静依の涙は後から後から溢れ来るのだった。

 大粒の涙が目元で決壊し、瞬きと共に周囲へふわふわと飛び散る。

「大丈夫だから」

 気がつけば静依は由夏乃に抱きしめられていた。まるで子供をあやすかのように。

「やめなよ、そんなの。なくしたのは――由夏乃の方なのに」

 顔をぐちゃぐちゃに歪ませながら、静依が言葉を絞り出す。

「心をなくしたのは静依の方だ。

 気にしてなかったんだけど――どうやらあたしは思った以上に大きなものを失っていたみたいだね」

 ここに来てもまだ由夏乃はどこか他人事のようだった。本当に彼女にとっては右手の一つが失われることくらいなんてことないことなのだろう。

 そんなはずがないのに。

 永良由夏乃は訳の分からない少女だ。

 だが、それでも彼女は生ける伝説であると七々原静依は信じている。

 これから彼女は栄光の道を歩むのだと信じている。

 だというのに、こんな、こんな旅立ちから間もない始まりで躓いてしまうなんて。

 これがどれだけの損失なのか静依にはとても計り知れなかった。

「……何があったの?」

 身体を離し、訊ねるべきことを訊ねる。

「事故だよ。重荷に押しつぶされそうな人が居て、とっさに助けに入ったんだけど――ミスったね。避けたつもりだったんだけど」

「そう」

 おおよその事情は察した。

 無重力空間において重い荷物を運ぶのはとても容易なことだ。だが、それ故に勢いがつきすぎてしまう問題がある。宇宙空間で重さを感じることは少ないが、質量が消えた訳ではない。重貨物に押しつぶされる事故は宇宙船事故の中でもトップクラスに多いものだ。

「どうするの? これじゃ退学になっちゃうよ」

 静依の言葉に由夏乃はきょとんとする。

「え? なんで?」

「私達の身分を忘れたの?」

「身分? 大学生だけど?」

「ただの大学生じゃないでしょっ!」

 察しの悪さに静依は思わず声を荒げる。

「火星市立大学の大学生でしょうが! ライセンス! どうするの?」

 静依と由夏乃は共に火星独立都市にある大学に合格した大学生である。

 火星市立大学はかなりの狭き門だった。通常の筆記試験の後に三等宇宙飛行士試験も合格せねばならない。二人は二月の大学受験を合格し、さらにその後の数ヶ月に及ぶ宇宙飛行士試験をも乗り越えた猛者だ。

 後はこの火星往還船ひわたり五号に乗って火星独立都市へ向かうだけだった。

 すべてはこれからだった。

 なのに、航海十日目にして彼女は右手を失ってしまった。

「……ライセンスが何か関係するの?」

「ライセンス剥奪でしょ! その手首だと!」

「嘘。手がないくらいでライセンスがなくなるとかそんな――」

「そんなもんでしょうが」

 古来より飛行士のライセンスは厳しい。残念ながら由夏乃の持つ日本の三等宇宙飛行士資格は剥奪されることになる。かといって今から障害者もオッケーな他国のライセンスを取りに行けるはずもない。

「このまま行けば火星に到着したとしても即地球に突っ返されちゃうよ」

 静依の言葉に由夏乃はやはり首を傾げた。

「そっかなぁ」

 腕を組み、考え込んでいるような風ではあるが、静依にはこれが考えているふりでしかないのがすぐに分かった。

 ――なにも考えてない。

「ほら、私って一応試験でも首席だったし、なんとかなるんじゃないかなぁ」

「ダメだ。成功体験が強すぎて、自分が失敗するところが一切想像できないでいる……なんていう強者のメンタル」

 永良由夏乃は天に愛され、色んな困難を乗り越えてきた本当にすごい人間なのだ。ゆえにその精神は現代人のそれよりも神話の人物に近い何かを感じさせる。

「大丈夫、なんとかなるよ。してみせる」

 宇宙飛行士にとって一番必要な資質<ライトスタッフ>とは何か。

 それはどんな状況下でも諦めない心を持つことだ。

 永良由夏乃は間違いなくそれを所持していた。

だんっ

 背後で何かのぶつかる音がした。こんな乱暴な移動をするのは船内でも限られる。

「うわわっ、ホントに腕がない」

「なくなってるのは腕じゃなくて手だ。――うわぁ」

 振り返ると身長二メートル近い巨大な少女と小柄なメガネをかけた少女のコンビ。

「やあ、リキシー、ナンシー! そんなに慌ててどうし」

「どうしたもこうしたもないよっ! ゆかのん、腕がっ! あわわ、腕がっ!」

「ちょっちょっちょっ、落ち着きな、リキシー。狭い廊下で暴れない」

 大きく筋肉質な少女は北野李<きたの・すもも>。試験前はモリモリと太っており、みんなから力士みたいと言われて本人も相撲が大好きであだ名がリキシーになった子だ。本初のぽっちゃり系宇宙飛行士になると息巻いていたのだが過酷な宇宙飛行士試験を経て、かつ規則正しい食生活をした結果みるみるうちに余計な脂肪がそぎ落とされていき力士と言うよりは男子柔道家みたいな体型になった子だ。

 相棒の小柄な子は南田紫利花<なんだ・しりか>という読書少女で高い記憶力を持つ歩く辞書みたいな子だ。何でも知ってるナンシーとして学内でも一目を置かれている。ネットが切断された状況下でもちゃんとした知識を脳内から引き出せるという、ネット全盛期の今の時代ではとても貴重な存在だ。

「これじゃ、ライセンス剥奪だね」

「――ええっ!? 退学じゃん!?」

 一瞬で状況を把握したナンシーの言葉にリキシーが悲鳴を上げる。

「どうするの、ゆかのん!?」

 リキシー、ナンシー、静依の視線が由夏乃に集まる。

 由夏乃は――ただ笑っていた。

「面白い」

「……何が?」

 静依は思わず聞き返す。だがもう、由夏乃の笑顔を見た時点で静依はすべてを悟っていた。

 永良由夏乃は生ける伝説である。

 あらゆる困難を克服し、乗り越えることに生きがいを感じる英雄気質の人間だ。

「常識を覆す。これ以上に面白い娯楽はないよ」

 なくったはずの右手を掲げ、彼女は笑う。

「決めるのは僕らじゃない、学校側だ」

 三人は由夏乃が存在しないはずの右の人差し指を掲げるのを幻視する。

「火星に着くまでに認めさせればいい。

 あたしが、大学にとってなくてはならない存在であることを」

 自信満々で由夏乃は宣言する。

「例外とは――作るためにある。

 ルールごときでは縛り得ない規格外の存在であることを認めさせてやる」

 かくてここから永良由夏乃の新しい伝説が始まるのである。




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あとがき


・長編書こうとして序章からあと何度も書き直してますけどなんか上手くいかなくて没です。

・続きが読みたいって人がいたら続き書くかも。

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