第15話~科学者は哲学の夢を見るか~ 後に残ったいくつかの。

<30>



「……です。」


 言い終えた後、するり、と急に力の抜けた知恵者の指から鍵を受け取って、笑みで持って彼女は視界を閉じた。 一層と色づく血流を体内に飼いながら、煩い鼓の音もどこか遠くに押しやり、改めて視界を開ける。

 彼女の目の前、心なしか褐色の頬の色が血の気に濃いケルッツアの、鳩が空気銃を喰らった後のような呆け顔に同じく真っ赤な顔でコーヒーのお代りまで伺いつつ、極めて通常通り、特にどもることもなく、ソフィレーナは落ち着き払って朝食を再開した。やはり又味のしなくなったパンをそれでも美味しそうにほお張って、スープで流し込み。

 コーヒーを手に持ち、密かに秒を数えながら数分の内に中身を飲みほすと、トレーから広げた一式を又トレーに移し給湯スペースへと運び、諸々の洗い物をこなして。


「じゃあ、私下階に用を思い出したので、少し席を外させて頂きますね。

 コーヒーは、飲み終わったらそのままにしておいて構いませんから。

では、失礼します。」


 真っ赤な頬に何食わぬ表情を乗せて、応接室を後にした。

 いつも通りの対応、応接室を出た彼女は落ち着いた歩みで展望部屋を抜け、禁書庫の出口を目指。

 している半ばあたりから、しかし早足は顕著になる。

 第七図書館に返す物を入れたバスケットは、徐々に揺れを忙しなく大きくしていく。

 飼っていた血流の煩雑さ、その押さえつけられた動揺が一気に彼女を襲い、乱れる事の無かった歩調はより速く、より危なっかしく応接室の空間から遠くへと逃れっていった。最上階禁書庫出入り口、その白く塗られた強大な鉄の扉を押し開け、倒れるように関係者専用の石畳階段、最上階踊り場に出たその足はそれでも逃げ足りないというよう、乱暴に段を下り始める。いつ、階段から落ちてもおかしくない速度、転げるように段を下る歩みに比例してどんどんと上がって行く呼吸や熱、鼓動の音はただひたすらに煩く、煩雑に彼女の思考を、或いは五感を乱していった。

 感情にまみれにまみれた彼女が、ちょっと用を思い出した、等と逃げ場として考えた場所に着いた時には、既に視界は光を乱雑に乱して物の輪郭を捉え損ねている。

 垂れ落ちこそしないものの熱で潤んだ瞳で、それでも関係者専用石畳階段出入り口から奥へ、奥へと逃れるその足は、ついにけっつまずいて机の角に当たり、勢い良く近くのソファーに倒れ込んだ。ばふ、と空気の潰れる音がやや大きめに辺りに響き渡り、下げていたバスケットの中身が反動で外へと転げ落ち。

 彼女自身もしたたか胴や手足に痛みを感じたが。


 目指した場所、国立図書館八階一般休憩・展望スペース奥の奥、の奥。

 壁際、一等目立たない日陰の箇所、対置きのソファーに飛び込んでやっと、ソフィレーナはケルッツアからの逃走を、止めた。




 よくもまあ、あの時。

 あれだけ余裕のある態度がとれたものだと、思う。



 蜘蛛の、否、ケルッツアの意図は確かに彼女を捕らえていた。

 彼が思う、計算した以上の威力を持って捕らえ、離さずに。


 愚かな願望を打ち砕く為に欲するはずだった答えが、どういうことだ、相手から一等望む形で贈られてしまった。

 ああ、どうしよう、どうして………、やだ、ほんとうに…どうし……よう……


 潤む視界は何のためにか。

 ぐるぐると廻る感情は引っ切り無し、飽く事もなく同じ回路を辿って輪を描いていた。

 国立図書館八階一般利用者公開・休憩・展望スペースの、床から天井までは凡そ三メートル弱。四方を壁ではなくガラスに囲まれた、国立図書館内で一等低い天井のそこは、円状の塔の外郭に沿うようにして視界がほぼ三百六十度解放された造りになっている。  部屋の中央には大樹の様な柱が一本。そこに作りつけ、現在も多々使われる事のある暖炉は今は火こそ入っていないものの、季節柄何時使われてもおかしくない。

 通常なれば木陰のようなゆったりとした雰囲気の漂うその場は、しかし今暗く沈んでいる。

 外界を透けさせる嵌め殺しの窓には、薄若葉に透けるブラインドが閉められて垂れ下がっている。

 照明の点けられていないその場に、ただ微か、嵐の音が内包されて過ぎて行く。

 そんな休憩スペースの、塔の西に造られた関係者専用石畳階段からは中央の柱に隠れる場所、僅か横幅二メートルの濃い深緑色壁際、向かい合って置かれるソファーのより東に近い側に体を投げだしたまま、彼女は荒い息でうつ伏していた。

 四方八方、短髪ながらもソファーに散る栗色の髪は、光源の薄い場において尚美しく光を弾く。やんごとなき身分の標準に照らし合わせるなら苦笑を誘うような容姿の中にあってそこだけは文句なし、賞賛されるその髪を、しかし当の本人は首をひねる事で押し潰し、ついでさも邪魔そうに随分と乱暴に退け払った。うつ伏せの状態から体を捻って横を向き、胎児のような格好を取ると煩雑な呼吸と肩の動きを数秒自由にさせ、数秒深呼吸で押さえつけて、微かに鳴り響く外の音に湧き上がり来る感情をとりあえず、と殺す事を試みている。

 視界を潤ませていた生理的な涙は垂れ落ちる前に、反射、探ったポケットの中から取り出されたハンカチへと吸い込まれてゆき、耳朶を押し付けるソファーを汚しはしない。

 物の輪郭を捉えはじめた視界の中、床に敷かれた萌黄色の絨毯にはバスケットから零れ落ちた幾つかの食材が散乱している。幸いにも全て固形物だったそれらを、彼女はぶつかった為だろう定位置からずれている木製低く細長い机の上へと次々に拾い上げ、置いていった。同じく絨毯の上に横倒しになっているこげ茶色のバスケットも、その幾重にも蔦の編み込まれた柄を持ち上げて机の上へと置こうと、逡巡。


 ここまでを自動的にこなしていた彼女は、抑えていた、今まで思考を止めて考えないようにしていた混乱に、とうとう意識を浚われ。


 おもむろにソファー、自身の側へと引き寄せて縋るように、バスケットを腕の中に抱え込む。


 感情の海の中へと引き摺り下ろされていった。



 やだ……や、だ……

 もう本当、本当に、…………どうして

 どうしよう……。


 編み込まれたバスケットを抱き枕、或いはクッション宜しく扱っている事に思考を割いているほどの余裕なく。

 結果、可哀想、かもしれないバスケットは物言わず、否、軋む音を抗議の声としている。

 彼女とて、己の用意したバスケットをみすみす押し潰す気があるわけではなかった。

 が、もう少し、と縋る腕の力は緩めない。否、弛められない。

 動悸は体中を駆け巡り、頚動脈のしなりで頭痛がしていた。

 それにも増して胸の内、左右の肋骨の真ん中、やや左よりかもしれない、そこを中心に心が際限なく落ち込んで、ありもしない底へと引き伸ばされて行くような苦しさと鈍痛は殊に酷く。

 何ものにも変えがたい切なさだけ、他の感覚から群を抜いて厭なほどの鮮明さで彼女を支配せしめている。

 たかが最上階から八階、実質二階と半移動しただけの運動量に、明らかに体力消耗が比例していない。応接室から逃げるように、途中からは急きたてられて最上階から八階へと、ほとんど呼吸のままならない状態で駆けてきたとしてもこの状態は大げさすぎる。

 忙しく上下する肩口は僅か汗の気配を呼び寄せて、ともすれば体臭の付く危険性も孕んでいた。以前に、いかに人の目がなくとも公の場を私情丸出しで独占するなど、余り、どころか全く、これっぽっちも褒められた行動でない。早く平静を取り戻し、せめて上体を起こして腰掛けなおさねば、と廻る思考は、しかし空回るだけ、上手く体へと伝わってはくれず。

 それらの要因が、全て単なる運動による新陳代謝に起因する物ではないという事を、彼女は存分、叩きつけられ突きつけられて逃げ出せない程の絶対さで分かっている。


 鈍痛は依然止む気配を見せない。


 図書館常務時には邪魔でしかない為押さえつけている胸元、着込んだ硬い素材の胸当てを、解いたところで大して違いも無いと分かっていながらそれも堪らず弛め、彼女は姿勢を仰向けにして、苦し紛れ、天井を仰いだ。

 息が切れる。動脈の音に眩暈が酷い。


 否、ただ執拗に、切なくなるほど苦しくて仕方が無かった。


 仰ぐ天井、クリーム色のそこに埋め込まれた照明の、電球の表面の丸さが反射する白さを遮るように、ソフィレーナは恐る恐る右の掌を視界に映し、握り込まれた絆創膏だらけの指先を僅か、外へと解放していく。  肌の色など所々にしか見えない指を開いてゆくと、掌の赤さに収められたものが見え隠れ、微か銀色に光を弾いて微笑みかけた。


 途端、彼女の顔が更に紅くなる。


 素早い動きで右手を強く握り込み、左手で更に包んで胸元に押し付け、又胎児のように丸まると更に縮こまってしまう。

 結果放り出される形となったバスケットは、床に落ちる寸での所で踏みとどまっていた。

 その影に隠れる形、丸まる顔は栗色の髪の隙間、微か見える肌だけでも十二分に紅い。

 彼女の頭は、ぐるぐると逆巻く血流に支配され、今抱いている思考を苦痛と、そしてどうにも解き方を誤れない難問と判断していた。どうしたらいいのだろう? 隙を見せてはいけない相手に、隙を見せては無用と切られるだろう相手に隙を見せずにはおれない事を与えられてしまった。と。

 どう受け取れば有頂天にならないか必死で計算をめぐらせ、逃避の為の活路を見出そうと躍起になっている。


どうしたら…とうしたら自分の立場を思い知れる。


 知恵者の気まぐれ、それが沢山続いているだけで、別に大した意味などない。常日頃であればそう無理に納得できる頭は、今日の、この時に限って否定を振りかざし、彼女に感情の嵐だけを押し付けていた。今のソフィレーナに知恵者の行動は、何もかもが過ぎて、余りに酷い仕打ちとしか響かない。

 それでも、鍵は彼女の手の中で美しく光を弾き、激情に塗れる心地は苦しくとも、痺れるほどに。


甘い。


 ケルッツアから寄せられたその鍵は信頼の証としか、彼女は取れなかった、否、取りたくなかった。それは人に翼があれば飛べただろう空を飛ぶ心地に似ている。

 知ってしまったが最後、到底手放したいとは思えず。

 彼女はその心地を幸か不幸か知恵者に、最も尊敬するものによって教えられたも同然だったので。


手放したく、ない。


「・・・・・・・・・」

 はら、と。耐えることを知らない涙が素直に彼女の眦を伝い、髪の中へと吸い込まれていった。慌ててハンカチで受け皿を作り、抗う事無くはたはたとハンカチの染みを大きくしてゆく。流れ落ちる感情の本流は静かに彼女の苦痛をも洗い流し、全てを空っぽにしていった。一晩を経て復活していた矜持も、甘言を禁じる思考も。

 捨てられるというそれですら洗い流されて、まっさらになる。


ケルッツア・ド……・ディス・ファーン……。


 苦痛に疲れ果て既に考える事を放棄した頭は、もっとも単純で温か、幸福な気持ちになるものだけを、一つ、宝物を抱くようにそっと残していた。

 いとしい、と表現されるだろうその温かさは、少しの切なさを内包して、水が下に流れ落ちるほどに素直な歓喜を呼び起こす。

 彼女は誰よりも陶酔し、何よりも大切な者の名をそっと零し、浮かびくるその顔に頬を染める。


 誰よりも何よりも抗えないひとに、尊敬しているひとに信頼をよせてもらった。


それが



うれしくないはずが、ない。



 理解しえた、否、知恵者と向かい合っていた時には確かに感じていた歓喜を取り戻した彼女の、息苦しさは笑みへと、鈍痛、急く鼓動は緊張へと様変わり、もって尚余りある程の温かさが彼女の内に湧き起こっている。

 荒れ狂う思考と感情は一点へ急速に収束。彼女の頬を、口元を否応無く緩ませて、これ以上無いほどの幸せな気分に変えてゆく。

 握り込む掌に凹凸のある硬いもの。

 至極簡単な事だ。


願いが叶えば、誰だって嬉しい。


 掌の中には今、銀色に光を弾く小さな鍵が確かに、ある。



『……あげる。』



 思い返す記憶映像の中で。

 この鍵を渡す時の知恵者の様子は、酷く掠れた声に赤い耳朶、間違いようもなく、照れていた。

 鍵を差し出した時の口ぶり、そして昨日見た鍵は銅製だった事からも知恵者の私室の元の鍵ではなく、合鍵である事が窺える。職権乱用ではないか、と非難した彼女に、否、彼の私室を怖がり、入った後では知恵者の個人的な写真を無断で見、おまけに公開されていないノートまで抱え込んで泣いていた、常識の無さ、暴走っぷりを披露した助手に対して、再度、所かいつ又入室されてもおかしくない状況を知恵者から提案してきた事は、彼女にとって驚きであり、同時に酷くこそばゆくも温かなものを感じずにはいられない事だった。



『いいんだよ。……君は、僕の助手だもの』



 掠れた声で言い切るケルッツアのその言葉、それは彼の私室への入室権を助手という言葉にくるんで与えているように、あるいはもっと個人的な、私的な事への介入でさえ受け入れて、そして受け入れさせるような強引さと親しみ、そんなものをソフィレーナに抱かせる。所詮錯覚、知恵者は他に彼の学友たちも等しく私室に招いているだろうが、それでも今までの助手職が無駄でなかった事、彼との距離がどうやら本当に縮まっていた事を、何の疑問を抱かせる余地なく彼女に突きつけていた。

 まして。



『ねえソフィーレンス君。

 君はいつまで、僕の助手でいてくれる?』



 再生の手は緩まらない。

 差し出された鍵を受け取ろうと手を伸ばし、握った途端、く、と僅か知恵者側に引っ張られた、それと同時の問い。

 反射手に力が入る事をまるで、こちらが縫いとめられたような状態になる事をまるで予測していたかのような知恵者の目は、真っ黒に染まり真摯な言葉と鋭い眼光でソフィレーナを、助手を射る。

 何かに絡めとられたように、微動と、彼女は彼から逃れられない。紅い顔を前髪に隠す事すら封じられて、何よりお茶を濁してごまかす事すら封じられたような錯覚で。

 余りにも真剣に、切願のように彼女へと、傍、を望むような彼の問いは、夢の願望とあいまって彼女に湧き上がる歓喜、泣きたくなるような安堵、それらを混ぜ合わせたような不思議な感情をもたらした。

 その感情の赴くまま返した言葉、その言葉を聞いた、途端目を丸くして益々紅くなりその後一言も発しなくなった相手の様子、笑みを押し込めるような表情の変化もソフィレーナの歓喜を狂喜へと押し上げてゆく。


 傍、を望んでくれる事が、そして己の返答を喜んでくれた事が、全て現実で起こった。


 嬉しさが全身に広がって痺れ落ち、まるで雲の上にいるかのように感覚はふわふわとして現実味がない。そっと辿る鍵の、滑らかな取っ手の部分は撫でている筈なのに妙に感触が遠く、実感が湧かなかった。

 指先に時折走る切り傷の痛みだけが、ここが現実であるとソフィレーナに教えている。


 鍵は依然、彼女の掌の中に大人しく収まっていた。


 確認するだに夢でない。

 この、例えようもない高鳴りを何としていいのか、彼女は、湧きあがってくるその塊に押されて、静かに目を閉じる。

 余りに余りの幸福に、閉じた拍子に思わず又、今度は残り香のように流れ出た涙を、ハンカチの受け皿に吸い込ませて。

、小さく、本当に小さく、今己の感じているものの名を大切にそっと零して、確かめていた。


 うれ、しい……


「――――うれしい……」





 やがて、ソフィレーナは緩慢な仕草で起き上がり、ソファーへと軽く座りなおした。

 右手に持ったままの鍵に、逡巡した後、失せないように、とのおまじないで軽く口づけ、揃えた膝の上、折りたたんだハンカチの上へと乗せる。

 そしておもむろに首の後ろへ両手を回し、細かな動き、銀色の細いチェーンの端を両手に持って服の外へと引っ張り出した。ホックの外れたチェーン、その中央に揺れる銀の指輪には、彼女の誕生月、十一月を守護する黄玉が嵌めこまれ小さく光を返して輝いている。それは、彼女が十九を迎える月の初め、幾重にも蝋燭の灯された薄暗い部屋の中で母から授けられた加護、守護リングだった。

 幸多かれと。

 母から、子へ。

 連綿と受け継がれるこの国の成人の儀は、密かに、当事者たちだけ、二人だけで行われる。彼女の兄や姉が成人した月の二日目には、母の胸元で揺れていたリングの数が減っている、それだけが周りに儀式があった事を告げるだけ。

 末っ子である彼女にリングを渡す時、少し寂しげな顔でネックレスからリングを抜き取っていた母の顔を思い出しながら、彼女はその加護にもキスを贈ると、チェーンの片端から鍵を通して、又首に掛ける。

 鍵とリングが微かな音を立てて触れ合い、服の上、彼女の丁度胸元辺りへと収まった。


 それを後生大事に服の中へとしまってから、ソフィレーナは。



 初めて、他人に己の名を誉められた時、これ以上の歓喜は、本当にないと思った。

 けれどもそれ以上の歓喜を、いつしか望むようになった。

 初めて、知恵者に助手と認めてもらえた時、これ以上の至福はないと、確かに全身で思った。

 けれども、至福であったにも拘らず、それ以上の至福をいつしか望んでいた。

 初めて、尊敬していた匿名の論文作者が、己が仕えるものと同一だった事を知った時、これ以上の幸運はないと崩れ落ちた床の上。

 けれども、気付けばより、更なる幸運を。

 その心は、あれば、あるだけ欲しいとでもいうように。


 そして、昨日の一連の出来事も、知恵者に私室の鍵を貰った今も、これ以上、酷くも容赦ない狂喜はないと思っている。

 けれど、ない、と思ったその次の瞬間から、それ以上、が出来上がる事に気付いていた。まるで、菌糸と己との関係に似て、際限が見えない追いかけっこのように。

 なら、それ以上を、その先をまた望むようになるのだろうか。

 

 でも、じゃあ。



 どこまで?




 嬉しさに、確かに歓喜に満たされている彼女は、しかしそっと己の両肩を抱いた。瞼を落とせば窓辺を掠る雨風の音、高くうねる木々のざわめきが聞こえてくる。

 今は何時なのか。外はいまだ晴れぬ嵐の只中。


 ああ、これでは本当に、今日日中では本土に帰れない……―――。


 八階の薄暗い部屋の片隅で、彼女は静かに、交差させた腕、肩を抱く掌に力を込めた。


 魅せられて、魅せられて。


 聞こえ来る嵐の音は、微かながらにも度の酷さを表している。


 深く、深く、嵌まって、嵌って。


 冷気がそっと彼女を摩り、足下から、ゆっくりと温度を降下させていった。

 身を屈める彼女の、胸元、銀色のそれが僅か、肌を掠る感覚。

 ケルッツアからの。



 囚われた。



 抜け出せない……。きっと抜け出せない。

 途方も無く冷たい、身を透くような予感は、ゆっくりとソフィレーナを奈落へと落とし込んでゆく。

 否。

 抜け出させたく、ない……。

 その浮遊感は、足元を掬われるような恐怖とも、心の内を透くような何か良からぬものともつかず彼女の内に存在しうる。不吉な匂いは、しかし同時に甘美で抗い難く、まるで毒にも似て彼女を蕩かせ苛み、止まない。


 ソフィレーナは心の内、どこかで、こう思い知らされていた。




 きっと、もう


 もう、全てがきっと


 …………――――。



 



<31>



「ねえソフィー?

 正直におっしゃい。プロフェッサー庇い立てしたってなんにもなんないのよ?!

 ほんとにほんとにホンットーに! 何にもされて、ない?」


 威勢のいい友人の声に、ソフィレーナは機嫌よく、何もされてない、と答え返した。


 嵐の過ぎ去った日、文化活性化活動の一環である王主催無料オペラ鑑賞日から二日目の早朝、国立図書館職員はほぼ総出でウィークラッチ島の船着場周辺、及び港付近の復旧作業に乗り出していた。

 完全なる一般公開こそ翌日に延ばされたものの、塔内部にはこれといった損傷が出る事は少ない。その為、それを知っている学者や修学生等、どうしても、と知識を求める人々は職員に混じって半ば強引にウィークラッチ島へと渡ってくる。

 この日もご多分に漏れず渡って来たそういう人たちの為、復旧作業で職員の大方が出払った館内、くじ引きで残された何人かが貸し出し処理やら案内やらを行っていた。


 そんな塔内二階、給仕室に繋がる裏通路の一角。関係者専用石畳階段及び踊り場同様雑多と物の置かれるそこで、折しも手の空いた職員だろう人物が二人、話しこんでいる。

 一人はやや大きすぎる声で相手方へと詰め寄る、セミロング程の金髪を頭の後ろでお団子に結って、その髪端を僅かに背に垂らした美女。

 もう一人は、向かい合っている女性と比べても、そしてこの国の平均値に照らし合わせても背は小さめ、見事に光を弾く栗色の髪を項の辺りで刈り込んだ髪型の、服装からすれば少年に間違えられるだろう、女性だった。

 小さめの彼女、ソフィレーナは心配で堪らないという顔で詰め寄る己の友達に明るく。

「何にもされてないって。

 天体観測した後、朝方まで本棚整理に書類整理。で、ばったり就寝しただけ。」

 のん気に答えるその内情はしかし、嘘は言っていない、と内心冷や汗をかいている。

 相手の勢いを削ぐような笑みを浮かべ続ける彼女に、彼女の友人、レティシアは何か感じ取ったのだろう、胡散臭そうな様子で、一つ、革靴の踵を打ち鳴らした。

「……………・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

 まあ……いいわ。

 二百歩譲ってあんたの言葉の通りだったとして……

 きっ・のッ・ウッッ!!! は!?」

 数秒の沈黙。答え返し問う声は、譲って、という場所のトーンだけやけに落としてある。

 腹からの声量で弾みをつける目は半眼、腰を屈めて下から覗き込む形で更に食い下がるレティシアに、覗きこまれたソフィレーナはさすがに、どうどう、と馬をいなす掛け声をもって苦く笑う。

「レティー…落ち着いて。

 昨日だって朝食摂った後は別行動。

 私は少しだけ未登録分処理を進めて、後は二階でずーっと読書してたの。

 だからその間、ドクターが何をしていたかは知らないわ。」

 信じてよ、と次第眉尻が困ったように下がってゆく彼女を見、レティシアは一つ横手に息を吐くと乗り出していた姿勢を元に戻した。

 いまだ気にいらなそう、否、多分に心配を含んだ視線でかつん、と小さく踵を鳴らしている。

 国立図書館第二図書館内では一番の華と美貌の持ち主、密かに国立図書館内でも上から三番辺りで競ってそうな容姿と謳われている彼女は、ついで何故か殊更憂いを帯びた視線を左右に素早く走らせ、スグリの様な色の唇を逡巡、開いたり閉じたりして、言葉を探しているようだった。


 探して、そしてこれ以上言葉を発していいのか、何かを図りかねている。


 その仕草を見、何故か己の母の困った顔を思い出しつつ、ソフィレーナは心の中で複雑な思いと戦っていた。

 嘘は言っていない。友人の危惧しているような行為は何一つなかった、どころか、もしそんな事があった翌日ならば恥ずかしさで誰とも顔を合わせられない。

 だから嘘は言ってない。言ってない。

 そう心の中で繰り返す心中は、しかし苦い。

 彼と彼女の間柄はあくまで知恵者と助手であり、一昨日も、例えば付き合って欲しいと言ったわけでもなく言われた訳でもなかった。

 抱擁されたわけでもなければ抱擁した覚えもとんと無く、キスなんて論外も論外。

 押し倒される押し倒す、その類の単語は二人の間では既に、他の星の言語である勢い。

 ソフィレーナとて二十一にもなれば、そういった事、の話も耳に挟む他知識としてだけは知っている。

 が。昨日であってもその認識が崩される事は無かった。

 昨日、彼女が八階に逃げ込んだあの後、詳細に辿るならば知恵者の提案で彼女と彼は完全に別行動を取った。彼女が今朝方顔を合わせた知恵者との会話で推測し得る限り、知恵者は昨日の大半を最上階と幻の九階辺りで過ごしていたらしいが、詳しくは本当に知らない。

 一度、夕食を一緒に摂っただけでその後も別行動。

 彼女自身はこの機に、と普段恥ずかしくて中々手に取れない童話類を読み漁り、他、お財布の関係で手に入らない雑誌等を夢中で読みふけった、と、どう見ても色気も何もないような内容である。


 でも…………レティー、凄く鋭い……。


 そんな事を独白するソフィレーナの目の前で、意を決したようにレティシアは一度目を閉じた。

「あたしは……ただ、あんたが……」

 言いづらい言葉なのだろう、痛く眉根を寄せてそう切り出した、後の言葉は中々続かない。

 その様子に、絆創膏だらけの手で、ソフィレーナは知れず胸元を、そこにある母からの守護と、そして昨日与えられた鍵を握り締める。


 ただ、傍を望まれただけ。

 助手でいる事を望んでくれただけ。


 そして、私も


 鍵が肌に当たる、その感触は、酷くソフィレーナの思考を乱していた。


 レティシアは、そんな様子の友人に気付いてか否か、続く心配を、首を振って打ち消し、話題を変える。

「ごめん。なんでもないわ。忘れて。

 と、ソフィー、あんた宛ての預かり物預かってるのよ。


 金と銀の箱なんだけど心当たり………あるのね、その顔は。」


 そう結ぶ彼女の目の前では、彼女の友人が虚ろな目で一つ、こっくりと頷いていた。

 変わった話題にほっとした表情だったソフィレーナは、変えられた話題にぼやけたような顔、今の季節とは合わないが日射病、にでもなりそうな顔で虚ろに笑みを浮かべている。

「ぎん……そう……銀……二箱……」

 降下する視線、発される言葉までどこか危ない。

 そんな友人に、同情しながらもしかしレティシアは聞かずにおれなかった。

「カーテン一枚を仲良く被った三人の女と、……どんちょうを一枚仲良く被った二人の男性から、なんだけど…あんたんち、使用人に一体どんな教育してんの?」

 使用人、という言葉に、問いかけられた友人の表情がますます虚ろになった事に、レティシアは幸か、確実に幸福だろう、気付かない。

「レティー……さ、ママのファンだったわよね? 聞かないで、お願い。」

 聞いたっていいこと一つも無いよ?

 虚ろな顔で、向かい合う相手を見ていながら焦点の定まらない様子、口元だけ器用に動かしてそう答えるソフィレーナは、呆れも尽き果てた思考停止、友人の尊敬、憧れているシスター・マリアーナ像、及びダリル家のイメージを壊すまいと真実を隠す事にした。

 もうもしかしたら遅いかもしれないが、まだ使用人と思っているだけ見込みはある。

 その、カーテン被った三人の女、が、母と一昨日の主役を務めた姉、そして次期ダリル家当主だなんて、口が裂けても言ってはいけない。役者の姉が毎年率先して動きを計算、己に隠れて三人で嬉々として練習しているらしいだなんて本当、寝言でも。


 き、去年は確か……南の民族衣装にどでかい仮面………だったかしら…。


 オペラ鑑賞に行かないソフィレーナが恒例ならば、何かを被った三人の女性も又、恒例だった。彼女の母に至っては、毎年、コレだけの為にオペラ座付近およびオペラ座館内に忍び込む始末。今年は母が来るという事も大きな要因で観客数が一気に膨れ上がったらしいが、実は正式でなければ毎年顔を出している、とは、一体どれ程の、マリアーナファンが知っている事だろう。

 可哀相に、とうとう巻き込まれてしまったらしい父と兄に限りない同情を贈りつつ、それでも胸の内に灯る温かさは消えない。

 箱の中身は毎年同じ。ロームエッダの花が一輪、そして家族全員のカフスボタンが合計五つ。箱の底に

《年明けには絶対返せ》

 の文字が綴られているそれは、実家からのラブ・コールだった。

 目の前でいよいよ顔を引き攣らせたレティシアに悪いとは思いながらも、確かにソフィレーナはその贈り物の存在に喜んでいる。もう少し渡す方法を変えてくれたら、とは贅沢な悩みだろうかとは思いながら。

「レティー、預かってくれてありがとう。

 今その箱は?」

 止まってしまった会話の糸口を掴むと、レティシアは、ああ、と現実世界へと戻ってきたような顔になり、私のロッカーの中、とすまなそうに答え返した。

 会話の末、業務終わりに渡すという事で落ち着いて、彼女たちはこの休憩時間を終える。

 レティシアの乱暴ながら情に厚い所、その心配に、ソフィレーナは密かな感謝を贈っていた。心配してもらえるという事はとてもあり難い事だ、そんな事を噛み締めながら、昼食時には何か奢ろう、と決心する。

 こんな事でしか感謝を返せない自分を情けなく思いながらも、ソフィレーナはしかし、知恵者との間にあった事を彼女に話す事は無いだろうと思った。

 さらさらと肌を掠る、鍵は確かにそこにある。

 母親から与えられた加護と同じ場所に、加護の名目とは恐らく違うものを含んで。



 きっと。

 もうきっと……



 途方もない、その、あるいは何物にも変えがたく幸福であると言えるかもしれない予感を胸の中に閉じ込めて、彼女はそっと、ケルッツアに返した言葉を思い出した。

 夢の中、全く同じ言葉に、年老いたケルッツアは少し驚いた後とても嬉しそうに笑ってくれた。

 現実のケルッツアも昨日一日中、顔を合わせた時もちらと見掛けた姿も、傍目から見ても嬉しそう、浮かれていた。

 頬が熱い。体中が痺れる。足の裏、歩く感覚は雲の上のように頼りない。煩い鼓動。嬉しさと緊張と切なさと。

 そして今は、透くように圧倒的な予感にまみれて。


 思い返す言葉は。



『ねえソフィーレンス君。

 君はいつまで、僕の助手でいてくれる?』



『………そうですね。

 あなたと、私が望む限り。…いつまでも。



 ………好きなだけ。』

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

若さを手にした賢者様とわすれな姫の物語 境美和 @akasianoame

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ