第14話~科学者は哲学の夢を見るか~格外の捕縛 後 或いは獲物と捕縛者

<28>



 謝罪と共に悲壮も悲壮、この世の終わりのような顔で息せき切って展望部屋へと駆け込んだ助手は、ドア付近で待ち構えていた知恵者の明るい笑顔に固まった。

 彼は彼女がなぜ遅くなったのかを知っているとばかり、自身の黒いコートの胸元を軽く指で叩く。が、そこに怒りはない。

 菌糸とのめくるめく時間を無理に作ってしまった罪悪感に、氷点下のような知恵者の対応を覚悟していた彼女は拍子抜けし、ついで恐ろしいとばかり素早くドアの影に隠れてしまった。

 ドアノブを握り締めたままドアを盾にして半身を覗かせ、過度の緊張と悪寒で言葉もおかしく人形のようにかっくん、と首を傾げ、恐る恐る。

「い、い、とも聡明なる賢者さま……。

 は、お、こって、らっしゃらない?」

 そんな態度を取る助手に苦笑、当の知恵者は考えるように空を見、瞬きをしてから。

「ふむ、助手君。

それがね、いとも傲慢たる賢者はどうやら怒ってないらしいんだ」

 助手に合わせた可笑しな言葉で小首を傾げた。

それよりご飯にしよう。ここは匂いがついて駄目なんだっけ? じゃあ応接室だ。どうしたの。早く行くよ。

 無理矢理と思わせない力加減で助手の持つ朝食用のバスケットを取り上げ、目的地、に決められた展望部屋付き応接室、展望部屋奥へと歩き出す彼の後姿に、結局ソフィレーナは何度も首を傾げながら不信感いっぱい、従うしかない。


 どう、なってるの……?


 嵐はますます酷さを増して国立図書館の強大な塔をなぶり過ぎているが、小さく切り取られた窓枠の先、分厚いガラスに隔てられてその荒々しい音や振動は彼らには届かない。

 国立図書館最上階展望部屋付き、あるいは総館長専用応接室。

 展望部屋同様外界から遮断された空間では、展望部屋の照明よりは微か黄色味を帯びた温かな照明が一つ、部屋の名に相応しい柔らかさを伴って辺りを照らし出していた。

 壁も、天上も、あるいは飾り棚でさえ寒色に統一されたその部屋で、少し濃い目の青で塗られた木製の出入り口ドア付近に設けられた給湯スペースの中、彼女は今盛んに朝食の準備を進めている。



『凄いな……。重いと思ったけど肉も野菜も揃っているね。

 ……ソフィーレンス君。折角なんだし……君、何か作ってよ。』



 応接室に入るなりバスケットの中身を物色し出した知恵者は、中に入っていた食材と幾つかの調味料に目をつけて同じく部屋に入ってきた助手を振り返った。

 国立図書館はその立地条件が特殊、時間制で結界に阻まれて出入り不可、及び嵐の日には孤立無援の孤島と化す事等から、職員内では国立図書館内に残っている食料は知恵者と休館等で島に取り残された者ならば誰でも自由に使っていい、という取り決めがある。

 大体は酷く質素な、例えばチーズだけ、野菜の一欠けが明らかに人数に足りない、等という大層粗末な食料を残った者達でわびしく食べる、というのが休館に特徴的な光景だったが、今回はたまたま第七図書館内での季節外れな親睦会が開かれていた事もあり、食材の種類、量共に通常をはるか上回って豪華だった。

 突然振り向かれて僅かに動揺した彼女は、元々時間があればちょっと豪華な朝食を作る気だったのでその要求を二つ返事で了承してから、食材に関して目をらんらんと輝かせるケルッツアにますますの不信感、を通り越して不思議さを感じる。


 このひとって……食べ物に感心あったかしら・・・・・・・・。


 基本的に面倒臭がって食物を摂らない、時には動けなくなるまでぶっ通し研究に打ち込む知恵者は食への関心が薄い。彼女はそう捉えていた。唯一トマト味という事にちょっとした拘りがあるぐらいで結構な偏食家。しかし嫌っている食材も食するだけの忍耐は一応備わっているようで、嫌々ながら流し込むのが通常の食べ方。

 昨日の昼、食材を避けたのは不満と拗ねを表す演技、と、その子供っぽさに僅か苦笑し、どうやら目をつけられたらしい熟れたトマトを一つ手にとって、ソフィレーナは煮込まれる野菜類と、生で盛られる水桶の中の野菜、双方を見比べ包丁を手に取った。

 件の知恵者は現在応接室の真ん中に配置されている二つのソファーの上座に座り、少しばかり熱いコーヒーをすすっている。

 そんな気配を横手、仕切られた壁の向こうに感じながら。

 トマトを細かく切り刻む彼女は、知恵者の今朝の言動とこれまでの助手職三年間の過去とを対比している。思い出すのは。



『いいご身分だね。邪魔だ。どきなさい。』


『君は何をしにここへ来ているの。』


『…いい。手を出さないでくれたまえ。半端者に構われても困る。』


『……君は皇女なのだし、無理して働かなくともいい筈だね。

 不愉快だ。嫌なら帰ってくれて構わない。』



 いつ、どこで、等とあえて特定せずとも勝手に流れ出してくる過去映像は無慈悲に正確に。

 助手職三年間の記憶の中では、助手の菌糸採集、カビのコロニーを見つけた時の素晴らしい喜びの後に、八割方、知恵者の冷たい態度が待ち構えていた。ある時は背を向け、またある時は突き刺さすような視線を向けながら。声は冷淡に低く、彼女の心臓にずしり、とくる素っ気無さだけはいつも同様に変わらない。

 容赦も手加減もないその態度は学者としては温厚、とうたわれている知恵者のその看板を見事に汚していたが、彼の場合温厚は無関心と背合わせという事を思い知らされている助手としては、それだけ気にかけてもらえている分正直ありがたい対応だった。

 が。


『厭だ。何カリカリしてるんです?』


 菌糸を採集したばかりの彼女は天にも昇る気持でうかれっ調子、そんな上司の怒りに対しても生返事しか返せない。そしていつもいつも、はた、と熱から冷めた途端怒涛の後悔と自責の念に苛まれ、彼女は自分の存在をこの世から消し去りたくなる。


 突き刺さるような上司の、否、尊敬する者の氷の顔が、無関心で浮かべられる上辺の笑みに変わる、そんな時が来るのではないかと巡る思考は、殊更彼女の背筋を凍らせて。


 火にかけられた小鍋の蓋を開ければ、煮込まれた野菜の甘い匂いが熱気と共に辺りへと広がった。

 晩秋の空気を和ませて、湯気は回している換気扇へと吸い込まれていく。

 小さな手持ち鍋の中身を木べらで軽くかき回し、ソフィレーナは刻んだ生トマトをその中へと丁寧に流しいれた。



『お嬢ちゃん。ダリルのお嬢ちゃんや、ちょっと、ちょっとおいでなさい……』



 しわがれた声が湯気の向こう、彼女の記憶の中で思い出される。

 彼女が四歳を迎えた、爽やかな五月の事。

 初めてカビの存在が美しい事を知ったのは、彼女を調べる事を許された老学者の研究所一室。度重なる実験で疲れていたソフィレーナに、その老学者は気晴らし、と近くにあった顕微鏡で様々なものを彼女に見せてくれた。


『その……パンに生えているカビは……あー・・・本当に、汚いもの、なのかなぁ……。

 それを、こっちに持って来て……よし、よし。さぁて、なにが見えるかのぅ……』


 幼い頃、定期的に連れて行かれた白く大きな建物。人体組の面々が居合わせるそこは、いかに老学者が良い人で優しい者であっても、両親と同席といっても、彼女にとっては居心地の良い場所ではなかった。今もそれは変わらない。

 しかし。


『わぁ! きれい・・・・・・』


 ただの紙切れや時には彼女についた糸くず、部屋の隅のホコリ、そしてカビ等、一見何の変哲もないどころか汚いとされているものが老学者、コーロウクックツ・ド・リリアカクの持つ機械を覗く事によって拡大され、美しい結晶となって目に映る。

 居心地の悪い場での嬉しい体験だったからか、又は五歳にも満たない内の出来事だったからか。

 その感動は彼女をたちまちのうちに虜にした。

 何も忘れる事のない頭はその感動を一層と強く記憶し、彼女をミクロの世界へと誘う。中でも一等、菌糸、殊更カビの存在に、彼女の関心は向けられていった。菌糸は、そんな彼女に答えるかのようにその美しい姿を、神秘に満ちた生態を時には彼女に教え、時には見せ付ける。


 ソフィレーナにとって、菌糸は夢だった。


 知恵者が何より天文を、その星空をいとしむ感情と同列、その菌糸の研究だけはどうしても彼女は譲る事が出来ない。助手にとって菌糸と彼とを比べる事は出来ない相談で、どちらかを選べ、は死刑宣告よりも辛く恐ろしい事だった。

 それでもカビにうつつを抜かす行為を知恵者には怒っていて欲しいなど、とんだエゴで我がままなのだ、と。


「…………・・・・・・・・・・・・・・」


 そこまで考えて、彼女はそこで手を止める。


 頬が熱く、鼓動が煩い。

 ぞくぞくとした痺れは早まり落ち着かぬ鼓動と共に瞬時頭のてっぺんへと駆け上り、肩甲骨の真ん中に一瞬汗の引ける冷たい感覚を錯覚させた。

 昨夜の切り傷は相変わらず定期的に疼き、絆創膏だらけの指は水にさらす度彼女の眉を顰めさせたが、彼女は構わず冷水の中へ乱暴に両手を突っ込む。



『済みませんケルッツア・ド・ディスファーン!! こんなに遅くな』



 折角整えた髪をさんざんに振り乱して、苦しい息の中駆け込んだ展望部屋、出迎えた知恵者の顔は酷く明るく、というより。

 ここ最近、カビにうつつを抜かしている自分に苛ついて、否、最近では不機嫌になるだけ、に留まっていた知恵者は、十中八句怒っているだろう、場合によっては呆れられているかもしれない、と、その二種類の予想で恐怖していたのに。

 ソフィレーナの予想とは違って、ケルッツアの顔も、雰囲気も、どう引け目にみたとしても。


 一つ、長く静かに息を吐いて、昏倒するような眩暈と血流の速さを無理にでも鎮め、彼女は手を動かした。疼く両手をハンカチでやや乱暴に拭くと、パンにバターを塗って水気を切った野菜やハム等を挟み込み、それをお皿に盛り付ける。鍋の蓋を取り、スープの味を確認、コンロの火を止めてから用意していた二つのカップに同量の野菜スープを注いで。

 またしても早くなる脈拍を恨めしく思いつつ、助手はトレーを持ち上げようと縁に手をかけて、ためらう。

 ここまでの朝食の用意にかかった時間は恐らく二十分以上だが、薄い壁、というよりついたて越しに待っているケルッツアからはやはり苦情は出ていない。



『お帰り。ふふ、今度は顔を隠さないんだ』



 アンティーク調のドアを開いた先。明るい照明、照らし出される展望部屋の中、すぐ近くにある彼の顔は酷く明るく。というより、とても。

 とても。


「嬉しそうになんて、なんで……」


 まるで、わたしが来た事を喜んでいたみたいに。


 思わず零れた音は、ほとんど吐息にまみれて口内から僅かだけ、空気を揺らした。自身の囁きを耳で聞いた途端、彼女は驚き口を噤む。

 なぜ、彼は助手の来訪を喜んだのか。彼女が顔を洗っている間に知恵者の身になにか個人的に嬉しい事でもあったのか。それとも。


 給湯スペースの素っ気無い台の上には大き目のトレーが一つ。

 食材の残りは散らかる事なく、添えつけの冷蔵庫の中に納まっている。空の鍋とまな板等、使った調理器具は流しの中で洗剤混じりの湯に浸かっていた。

 トレーに置かれた大皿には、具が零れるほどに挟み込まれたパンと無地のパンが奇麗に並べられている。柔らかい光沢を保ったまっしろなパンは、しっとりとレタスやトマトの色合いを包んでいた。

 二つのガラスの鉢に小盛りのサラダ。その横に並べられた二つのカップの中からは、甘く、寒さに染み入るような匂いを伴った白い湯気が勢いを殺すことなく立ち上っている。



『…僕なら、君を解体したいと思うのに…』



 昨夜の解剖話の際向けられた瞳と、今朝の知恵者の喜びようは彼女の中で同一に重なっていた。にっこりと笑う顔。星空に向けるような、あるいはサンプルに向けるような穏やかでいて優しい表情。


 瞑られた瞼から現れた両眼は、灰色を黒く染めて底がない。


 出迎えたケルッツアの、その全身全霊で喜んでいるかのような様子を思い出すだに、ソフィレーナの鼓動も勝手に高まっていく。彼女自身、自意識過剰であるとは承知していたがそれでも尚、その顔がちらつくたびに鼓動も心も落ち着かなかった。


 それとも。

 それとも本当に、わたしの


「…ッ…ぁ、お、待たせしました。今、そちらに運びますからね!」

 それら諸々を一切合切捨て去って、彼女は少々大きめの声で横手へと声をかけ、トレーを必要以上に強く握って持ち上げる。

 ゴハンの為に決まっている。

 このひとにしては珍しく珍妙で奇怪でおかしくて変でも、人間なんだからわからない。とてもお腹が空いていたと、そういう事にしておけ。

 トレーに置いたものが零れないよう、少々乱暴に、彼女は給湯スペースから顔を出した。



 その頬の赤さはけれど、彼の彼女における特別待遇がいまだ継続中であると、知っている。



<29>



 知恵者と助手の朝食は、表面上穏やかに和やかに進められていった。

 彼の向かいに座り、胸の前で両手を組んで小さくお祈りの言葉を呟いてから、彼女は手持ちぶさた大皿のパンへと手を伸ばし、口に運ぶ。

 俯いた格好でちらり、と前髪の隙間から彼女が向かいの彼を見れば、彼女同様青いソファーに座っているケルッツアも又、ソフィレーナとは違う仕草をした後、言葉は呟かずに大皿のパンへと手を伸ばし頬張っていた。

 淹れたてのコーヒーが二つ、白いカップの中で湯気を立て辺りに香ばしい香を振りまいている。

「………」

 お腹が空きすぎて返って物を受け付けない口内に無理矢理パンを押さえ込み、彼女は意識してかみ切った。案の定唾液の量が多すぎてろくに味などしなかったが、顔に出さずに平気なふりでカップの中身、トマト風味のスープを口に流し込めば、口の中のパンやら具にさらりとスープが染み込んで、喉へは送りやすくなる。

 頬が、目元が、顔が朱く熱い。

 給湯室で廻っていた思考は長く尾を引いて、捨て去りたいとわめく彼女にしがみ付き離れない。食べ物に夢中のふり、俯いて、彼女は心を落ち着けようと目元を前髪の柔らかさで覆い隠していた。

 が、妙な緊張は一向収まらず、返って鼓動の音が強調されて高鳴りこそすれ鎮まりはしない。

 長い間顔を伏せているのは相手に失礼と同時不自然だったが、かといって恥ずかしさに容易には顔を上げられず。

 味がしない、のではなくて確かに味はある筈なのにそこまで思考が割かれないのだ、ともう一度、おためごかしにかじりかけのパンに歯を立てて。

 見やった知恵者は頬をほころばせてパンを食べていた。助手の目の前で一口、二口。大口で押し込み終えるとあごを動かし喉に送り、送りきらないうちに手には別のパン。空いた手はカップを掴んでスープに口をつけ、一瞬目を開き、そのままにこにこ顔で豪快に食べている。

 確認するまでもなく、美味しそうだった。

「…………おいしいです?」

 ふと彼女の口が思考を零す。音が響いた途端彼女は驚き後悔したが、一度出たものは取り消す事が出来ない。ケルッツアは一瞬止まったものの、すぐに相手と目を合わせて、おいしい、と返した。

「パンもおいしいけど、このスープもいいね。食べやすい。」

 満面の笑みで言われて、又彼女の頬に血が廻る。押さえきれない嬉しさに緩む口許をパンで隠して、作った甲斐がありました、と辛うじて相手に伝わる音程で伝えた彼女は、もう一口、口元に当てていた物を食べた。いまだ味覚は痺れていたが、パンと、具の野菜のみずみずしさが口に広がり、その中のハムが甘みを伴っておいしいと感じる。任せて持っていた分を食べ終え、スープ入りのカップに手を伸ばし、フォークで中を少し掻き混ぜて、食べると、しっとりと煮込まれた野菜の甘みが口の中を満たした。



『食べんさい。

 スープでもいいのよ。んなもん鍋に切った野菜と肉ぶち込んで煮て、固形スープの素入れてまた煮りゃいいんだから。冷蔵庫ん中いれときゃ二、三日持つでしょ。アレンジもしやすいし。』



 彼女の記憶の中、友人レティシアの言葉が廻る。

 助手職半年、朝食を食べずに出勤してくる助手の事を知った彼女は、ソフィレーナに忠告を出したその次の日、作り置きのスープのお裾分けと幾つかの簡単なレシピを持って国立図書館職員専用宿舎の彼女の部屋を訪ねて来た。

 今でも招いたり招かれたりしているその友人の手料理を思い浮かべながら、温かな心持ち、小さく、照れ隠しのように彼女は苦笑してスープへと口をつける。

 当初は実践していた料理も三年も経つとその暇さえなくなってしまうのか、単に研究に打ち込みすぎる彼女がいけないのか。助手はここ最近スープ付きの朝食など摂る暇もなかった。

 自身で作った物ながら、野菜を煮込んだスープの温かさに体を温められ、彼女の心は落ち着いていく。

 ひとつ、緩やかに息を吐くと、サラダを一口、二口食べる。即席のドレッシングだったが結構美味しい。具材のふんだんに挟み込まれたパンをもう一つ手に取り、今度は大きく口を開けて食べると彼女の脳はきちんと味を感じた。

 目の前のケルッツアは、最後のパンに目をやりながらスープを口に運んでいる。

 穏やかだった。

 その穏やかさに押されたか、声が蘇る。



『…ねえ…? ソフィーレンス君………君は』



 助手の頭の中で再生される、流星群が流れる前の知恵者の様子は酷く真剣だった。

 その時彼女が感じていた、彼の雰囲気に気付かぬままの落ち着いた高揚感を今の心に重ねて合わせて、ソフィレーナは彼の繰り出した問いの全貌を知りたいと思う。

 二度、思い出しうる限り二度言いかけて、しかし取りやめられた言葉の先。知恵者が二度もためらうそれは、もしかすれば彼自身口の重い問いなのかもしれなかった。

 が、今、どうしても彼女は知りたい。

 夢の中、自身の願望で知恵者に言わせてしまった言葉を否定し、立場を思い知る為にも。


 美味しいものを食べている時は、人は口を割りやすくなるという。レティーの後輩メルティシア・ド・パウンゼウムから聞きかじった情報はどれ程の信憑性があるのか、彼女は確かめた事がなかったので分からなかったが、問いを一つ口の端に乗せる後押しとしては、十分な効力を持つ。

 知恵者の口から出る物は、おびき出そうとしている物は。


 聖者か、悪魔か。

 意を決し、彼女は。


 あの、言葉の続きは。


「……ケ」


 ねえ。


「ルッツア・」


 なんと、続くのですか?


「ド」

 聞こうと。


「さて、じゃあソフィーレンス君、今日の予定だけど…」

 その、声をわざと遮って、彼は言葉を発した。彼の目の前では言葉をくじかれた助手が間の抜けた顔で知恵者を見ている。

 その顔に少々の罪悪感を抱きつつ、しかしケルッツアは譲れない。


 ポケットに忍ばせた金属のそれが、やたらとくすぐったく、重かった。


 物事にはタイミングというものがある事を、ケルッツア・ド・ディス・ファーン、本名が一、ケルッツア・ディス・ファーン=アルスメーニャ=サルッサロッツ・メリス・ラートという人間はほとんど本能で知っている。例えば砂漠を流れていた時、いつ行動すべきなのか、いつ、休むべきなのか。流民生活から抜けて科学大国に行きたいと育ての親に切り出す時も、出発の朝も。

 人生における時機というものを巧く繋ぎ合わせて、彼という人間は生きて、あるいは生き延びてきた。

 今は生命の危機などなくなって久しいが、それでも流民時代培ってきた感覚は鈍りこそすれ完全に消えてはいない。

 助手が給湯スペースへと消えて、応接室の向かい合わせたソファーの一方に座って彼女を待っている時でさえ、彼は助手に問うタイミングを計っている。

 一度は流星群の流れる前。

 一度は、頭をつたなく撫でられている時。

 二度、言いかけて三度思った言葉のエゴも意地も醜さも、あるいは酷さも全て一切合財を承知の上で彼は、それでも譲れなかった。

 今朝方のおかしな夢の中、あれほど頼りなく情けない年老いた自分は、今の自分の密かな不安や悩みを一言、あっさりと言い放って彼女から答えをもらっている。


 それが、彼は誰より何より許せない。


 後悔していない、捨てた過去の残骸に先を越される事ほどケルッツアにとって不愉快なものはなく、早く知りたい、早く知りたい、と急かす気持は、顔を洗ってきた助手と再び合流した時でさえ暴れようとしていた。それを押さえた結果がややテンションの高い対応だったのだが、返って助手を不気味がらせてしまったらしい。声も、喉の奥につまり気味、おかしな響きだったがそこは気づかれていないだろう、と。

 どんなに気が急こうとも無意識タイミングを見計らいながら、その急く時間でさえも楽しみ、彼は消化して時機を待っている。



『………お、待たせしました。今、そちらに運びますからね!』



 朝食と一緒に、彼女が給湯スペースから出てきた時も。



『…………おいしいです?』



 まずは腹ごしらえ、と、朝食を手に取りその美味しさに驚いていた時も。

 頭の片隅、彼は時機を窺って、急く心を巧く消化して、あるいは。



『パンもおいしいけど、このスープもいいね。食べやすい。』



 あるいは蜘蛛のように、意図を張りめぐらせる。



 そして。


『……ケ、ルッツア・、ド』

『さて、じゃあソフィーレンス君、今日の予定だけど…』


 罠にかけるタイミングは、出入り口を逃げ道を塞ぐそれは、そしてこの時これを逃したら当分は訪れない、と。

 ポケットのそれをなだめすかし飼い慣らすのは、もはや限界だった。



「まず、これを渡しておこうか……」

 そっと、彼はその重みを外気に晒す。


 それは、銀で出来た小さな鍵だった。


 その鍵に視線を固定したまま、助手は不可解な顔をして言葉を。

「……? どこの鍵で」

 言い切る前に、またしても彼は助手の声をさえぎる。

「本棚整理は任せたって、昨日言わなかったっけ?

  ホラ、まだ残ってただろう? まさかソフィーレンス君ほっぽる気だったの?」


 あえて場所の名を言わずに。

 暗に彼の私室の鍵だという事を示唆した言葉の数秒の後、ケルッツアの目の前で突然、火を噴いたように助手が赤くなった。

 比例して、彼の頭に昨夜の光景が廻る。私室に入れないと泣いた彼女は、その前からどことなく怯えている様子だった気がする。自分にはその内情など判ろう筈もなかったが、なにか辛い事でもあったのかもしれない。彼女の持つ絶対記憶に関係がありそうだったな、と、彼は彼なりに少しだけしんみりと助手のすすり泣く声を聞いていた。

 しかし一方で、別に僕は困らない、とどこか反発のような心も渦巻いて、エゴのように助手を部屋へと招き入れてもいる。

 その一連の記憶を追体験しているのか、知恵者の思うには恥ずかしさで朱と染まった彼女はけれどそれから一秒と顔を晒す事無く、頭を振って目許を艶やかな栗色の前髪に隠すと、俯いてしまった。

 ただ残像のように目に焼きついた赤さ。紅さ。


 その紅さだけが、彼の心に鮮明さを残している。


 あんなに紅くなるんだ……


 助手が顔を俯かせ、故意に目元を隠す時は照れているのだ、と薄々気付いていたものの、あんなに。

 彼女の目元が栗色の、見目の質感としても柔らかそうな髪の下に隠れている時、その下は赤くなっているだろう、とは思っていたが。


 あんなに。


 そっと、その驚きに任せて知恵者はカップに溜まったスープの紅さを見やった。


 ダット ティアート

 トマトみたいだ。


 彼の目の前の助手は、前髪で隠された目元や頬がほのかに色づいて、明らかに普段の肌より活発な血流の色に染まっている。手に持たれたままのパンの欠片、それを大皿においてから、ぎこちなく両手の指の腹を絡ませ押し付けあっている彼女の仕草は落ち着きがなく、絆創膏だらけの隙間から、覗く指先でさえ紅く色づいていた。

 彼女の照れた状態をこれほどまじまじと見る機会などいままでなかった彼は、その反応が新たな発見でもあり、嬉しい。

 「…しっ……職権乱用じゃあ、ないですか……」

 俯いたままの助手から、小さく、零れでるような声が響き、彼の耳朶を掠っていく。

 その声は、更に、ケルッツアの内に言い得ない感情を積もらせた。


 ああ、本当に。


「いいんだよ。……君は、僕の助手だもの」


 ダレス ファリャ ダレス ……ソフィレーナ


 平静を装おうとした声はしかし、喉の奥に突っかかって奇妙な響きになる。自身で聞き取る心臓の音と、耳の痒さが彼は疎ましくて仕方がない。

 彼の思惑とは無関係にその場の雰囲気は緩み、感じ取ったか助手はそっと顔を上げて、へんなの、と小さく零すと、知恵者を見た。

「……並べ方は、第五図書館の、通り?」

 僅か首を傾げて問う助手に、自身の焦りなど極力出さず、にっこりとケルッツアは笑って肯定を返し、あげる、と、今まで手に持っていた金属のそれを差し出す。

 「ありがとう……ございます……」

 緩んだ雰囲気は穏やかさを彼女に伝え、緩やかに、彼女は彼の持つ鍵へと手を伸ばした。

 絆創膏だらけの指先がぎこちなくも、差し出す鍵の縁を握った。


 途端。




「ねえソフィーレンス君。


 君はいつまで、僕の助手でいてくれる?」




 酷く真摯な音程で、知恵者が言葉を落とす。

 びく、と助手の肩が一際大きく揺れた。

 引っ込めようとする彼女の手を、鍵を心持ち自分側へ寄せることで制し、咄嗟俯こうとする仕草で逃げようとするそれをも彼は少し身を乗り出して下から覗き込もうとする事で制して。

 ただ、彼女を見つめる。

 結果彼女は、いまだ鍵の端を離せず視線ですらも逸らせない。

 差し出された物を握った状態で引っ込められると反射手に力が入る、と言う事は科学的な根拠に基づいてというより、ほとんど彼の経験に基づく行動だった。


 縫いとめられたように、助手は動けないでいる。


 本当に酷い手だとの自覚はありがなら、こうでもしなければはぐらかされてしまうのではないか、と彼は気が気でなかった。

 その、視線を逸らし、あるいは話題を変えて、いつもいつもどこかから逃げてしまう助手の逃げ道を全て塞いでしまいたい。


 はぐらかして欲しくなかった。


 目の前にいる彼女の本心はどこにあるのか、掴めているようで掴めきれないその心情をはっきりとさせたい、と。

 否、助手には己への好意があるという前提で、己は助手をどこまで、いつまで有せるのか、彼は知りたいと強く望む。

 否。


 否。



 本当は、どこまでも、いつまでも彼女を有していたい、と、どこかでは。



 その感情が、有能な助手の価値から派生するものなのか、彼女自身から派生するものなのか、相変わらず彼に確固とした自覚はない。

 物、ていの良い機械としての価値を有したいのか、それとも稀有なサンプルとしての価値を有したいのか。

 或いは。

 あるいは。


 そんなものを全てあわせた先の問いに、彼女は今、どこにも逃げられず真っ赤な顔を彼に晒している。

 蜘蛛の糸に絡められて、もはや動けない虫のように。


 逃げ道を塞がれた助手の姿は可哀想なほど怯えているようにも彼には思えたが、知恵者に、あるいはケルッツアに、ソフィレーナを逃すつもりなど毛頭ない。

 どうしても今この時に答えが欲しいのだ、とケルッツアは彼女に視線を、意識を、持てる全てのものを注いで問いの答えを待っていた。

 逃すものか。ごまかされるものか。

 彼女の瞳の奥、朝焼けの空、あるいは夕の時間僅か現れる空の紫の奥。

 柔らかに立ち上がりけむり、紫水晶を薄めゆく栗色に覆い隠されたその先。

 その先を。


 しりたい。


 ノガサナイ



 シリタ





 見つめる彼女の瞳の色、その色彩がふいに潤み、緩んで一等、柔らかくなる。


 和らいだ辺りの雰囲気に、彼は純粋に驚き、固まった。


 逃げ道を塞がれ、知恵者の意図に絡められた助手は、けれど。



 頬を赤赤と色づかせて、緩んだ眦は優しく穏やかに。

 朝露に濡れた、花の蕾が今咲きほころぶような、そんなとろけた微笑で。



「………そうですね。」



 彼の中で、夢の中の彼女と現実の彼女が、重なる。




「あなたと、私が―――――」





 そう、そうだ。

 ………夢の中でも、そういわれたんだっけ……。


 応接室のソファーの、展望部屋のものよりはやや硬い感触に身をもたせかけてケルッツアは一つ、天井に向かって息を吐いた。

 朝食の用意はすっかり片付けられ、部屋には助手の気配は無い。

 疼くほどに痒い耳と、浴びすぎたシャワーの後のように忙しない血流を抱え冷めたコーヒーで乾く口内を潤そうとしても、残念ながらその飲み物はあまり彼の役には立たなかった。


 あんな笑みで、あんな言葉を言われたら。


 嬉しくないわけがない、と、廻る頭と緩む口元に、一際満面の笑みを浮かべて、彼は彼女の、先ほどの様子を幾度となく思い出している。

 記憶の変容は助手の頭でない限りは起こり得る。それが心底、彼は悔しかった。


 ダレス ダレス ファリャ ソフィレーナ……


「……そふぃーれんす君は、……すご…く

 …………かわいい」



 自身も赤い耳と顔を、そして掠れる声をも隠す事なく。

 知恵者は助手の出した答えに今の所は、大満足している。




 知恵者は意図を張って助手を追い込んだ。

 追い込まれた助手は、しかし。


 捕まえたのは、捕まったのは、一体どちらだったのか。





『………そうですね。


 あなたと、私が―――――』

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