第13話~科学者は哲学の夢を見るか~格外の捕縛 中

<27>



 懐から出した銀の懐中時計は、朝の九時四十五分と三秒を指していた。

 国立図書館最上階展望部屋、そこには知恵者をおいて他に、人影は見られない。


 びょうびょうと吹きすさぶ雨と風は、本土方向から南方までを一面に透かした強靭なガラスを揺らす事無く過ぎてゆく。頑丈な造りの嵌めガラスに掛けられた分厚いカーテンの隙間からは、千切れ飛ぶ木の葉と共に流れ落ちる雨水の筋が見えていた。

 そんな様を見遣った後、彼は白い息を吐きながら近くの暖房に手を掛けた。

 もうすぐ冬が来る季節柄、ウィークラッチ島の朝は寒い。特に知恵者の私室や隠し部屋スペースよりも光の出入り面積の大きく取られている展望部屋では、晴れた日の昼は殊更暑く、夜は夜で冷え込むので、その寒暖の差は砂漠に匹敵するものがあった。

 

 雪の降った日より、こういう日の方が冷えるんだもんなぁ……。


 何度体験してもこの寒さだけは慣れない、と徐々に和らぎはじめた部屋の空気に一つ伸びをし、ケルッツアは仕切りの無い嵌めガラスに向かってそこから船着場が一番良く見える場所に向かった。

 床の絨毯が切れる場所、唐突に突き当たる透明な壁の先、水の流れで滲み歪んだ世界では、船着場と国立図書館とを結ぶ林道の両脇、常緑種で出来た木立が荒々しく風雨に弄ばれている。

 その先、微かに見える船着場も到底船を受け入れられる状態ではなく、荒れ狂う波に今にも壊されそう。彼が見回った朝より、嵐の状態は更に悪化していた。

 海は黒々と凶悪に周りを取り囲み、空は不機嫌さを一層増して彼の目に映っている。


 いくらジェイク船長でも到底船の出せる状態ではない、と外を見やりながら、私室のパソコンで確認した気象図を思い出し、今日中に臨時便が出る可能性を完全に捨て去って、ケルッツアはおもむろに後方、禁書庫に出る木製アンティーク造りのドアを見やった。彼が開けて、閉めたそれは当然の事ながら一分も動かされる事なく、禁書庫と天文部屋とを分ける青い壁にへばり付いている。

 見つめても何も変わらない。


 彼がもう一度懐から取り出した銀の時計、所々黒ずんでしまった母校の学花、その蔦の様な紋様の刻まれた蓋を開ければ、卒業から先一度も狂わず止まりもしない三つの針はそれぞれに十時十三分前を形作っていた。


 もう一度ドアを見やっても彼女の姿はおろか、気配すらない。


 「…………」

 ケルッツアは顎を上げて宙を見、一つ瞬きをした。

 助手が部屋を出たのは、確か九時十五分前だった、と記憶の底をさらい、合計の道のりに掛かるであろう時間プラスαを考えて、顎を上げたまま横目で窓の外、水の流れを目に映す。

 大まかな計算を三度して、遅い事実を自身の中で確認。もう一つ瞬きをすると。

 「・・・・・・・・・・」

 今度は、いつもなら苛ついている筈の助手の遅刻とも言うべき時間のロスを、自然と受け止めている自身に軽く驚きを覚えていた。

 展望部屋、という名に相応しく国立図書館内では恐らく一番見晴らしが良いだろう部屋、その名の由来でもある嵌めガラスの向こうでは、酷い嵐が巻き起こっている。木々を揺らし、天は黒々と渦巻いて、日の光など何処へ行ったかしばらくは思い出せないほどに吹きすさぶ風と雨の音は、ついぞ部屋に入る事はなかったが、その音の酷さなど想像に難くない。


 こういう日は、ゆっくりと時間が取れるから、いい。


 嵐の日は国立図書館が機能しない。故に、知恵者としても休暇となる。

 臨時休館故最低限のスケジュールさえこなしてしまえば後はこれといった業務に追われる事もなく、来客が来ることもない。取り残された業務員達も、例え学友が残っていても、そうそう最上階に用があるはずはなく、たまに酒盛りをする位で後は正しくただ一人。


 そして嵐の日に、ウィークラッチ島に残った者以外、人、彼を邪魔する者はこない。

 こっそりサンプルとの交流を深めるも、図書館内の本を読み漁るも、後の片付けさえきちんとしておけばとがめられる事はなかった。


 正に自由。


 ゆっくりと時間の取れる嵐の日が、詰まる所彼は好きだった。


 しかし、それに増しても今日は。


 目を瞑ると聞こえる気がする、風に混じる雨の音。


 雨の音はけれど。

 砂の舞う音とよく。


 ふわり、と彼の鼻腔に砂と微かな清涼、その匂いが蘇った。

 途端、記憶も掘り起こされる。

 砂嵐の日、流民の使う独特の頑丈なテントの中、幼い自分の横に横たわり、寛いでいる女性。クッションを頭の下幾つか敷いて、敷物の上、青とその赤茶けた砂色のターバンから一房覗く漆黒の前髪、褐色の肌を持つ育ての親の。

 親の顔は。

 彼の記憶の中、その顔はもう既におぼろげだった。美か、醜かに分けるのなら間違いなく美しく整った顔立ちだった、と砂漠から科学大国に出て初めて彼が認識した位で、その女性の、髪と同色の瞳を縁取る眦の鋭さがどれ程だったのか、鼻の高さはどれ位だったのか、は既に記憶の彼方、彼の中では埋もれてしまっている。

 その女性が、そして自分の問いかけに対して答えた言葉が。



『ラアラ,ムウ・ウウル マザジャ ロシャ メ,イニャン ケル ダレス アイ トルン.』

「何、嵐の日は、ゆっくり過ごすのが一番さ。

 ……か・・・・・・」


 揺れるテントの壁越し、砂の当たる音は止む事無く。しかし、テントの中はその音の中にあって不思議と静かな、ゆったりとした時間を流していた。

 自分の認識のルーツを思い出した事が嬉しいのだろう、ケルッツアの頬は緩んでいる。

 嵐の日は時間が取れる。学生時代はその認識が崩れる事もしばしばあったが、国立図書館に勤め住むようになってからは、おおむねその通りの時間を彼は過ごしていた。


 だから今も、のんびりしている?


 そこまで考え、しかし釈然としない心のうちに一つ息を吐き、僅か後頭部を掻いてから、知恵者はお気に入りのソファーへと足を進める。その近くに鎮座する二台のパソコン、その机や二つの椅子に一瞬目を向けて、しかし結局は、今の彼の身としては大きすぎるソファーの真ん中へと体を投げ出して座った。

 沈み込む背の反動で彼のポケットに入ったものが太股を掠り、元から入っている小さなナイフとぶつかったか、かつ、と硬質な音を立てる。



『……では、お借りしてきますね』



 彼の頭の中で何度も再生された声は徐々に正確さを失いつつあった。曇り空、天窓からの明かりは白々と灰色に部屋を照らし出している。古ぼけたノートの隙間、僅かに窺い見た彼女の面は赤赤と紅潮し、顔は浮腫んで目元は腫れぼったい。

 それでも晒された右側の、その眦は柔らかく、長い睫に縁取られた眼の色は優しかった。

 夢の中で問いかけに答えた、その顔よりもあるいは。


 時計をもう一度、と懐に手を入れ、何も持たないままその手を引き抜き。横手に見えるようになったドア、その方向へと目をやると、彼は耳を澄ました。

 しん、と静まり返る空間は、ともすれば自分の鼓動と、耳の産毛が伸びる音すら聞こえそう。

 助手は来ない。

「…………」

 まさか迷った? と、先ず己の助手には無そうな事まで心配して腰を浮かしかけたが、彼はふと、助手の癖を思い出すと一気に脱力し、ぼんやりとここ数年間の間、脱衣所に蔓延り順調に勢力を拡大しつつあるクロカビの事を思う。

 知恵者はクロカビに拒絶反応の出る体ではなかったため、結果今日まで駆逐されずにいるクロカビは、脱衣所の洗面台を使ったものならば必ず眼にする場所で現在元気に存在を主張していた。

 当然、彼女もその存在に気付いたはず。

「捕まったか」

 一人ごちる声は、どこか浮かない調子で耳朶を掠ってゆく。

 捕まった、じゃなくて正確には捕まえた、だろう、と、どこか所在無さそうに視線を彷徨わせ、斜め下手を強く眇め見、意識を過去へと飛ばし。

 何度も何度も、調査旅行で隙を見ては土を採取、壁の染みを脱脂綿で撫でている彼女の姿は、彼の、彼女と比べれば格段に落ちる記憶の中でも鮮やかに残っている。行動を促す上司に、こういう時ばかりはてこでも動かない助手の。



『駄目ッ! 

 あ、後もう少し! ……っていうか後一箇所だけ擦れば終わりですから!!』



 菌糸の好きな彼女は、目に入った菌糸を、それが珍しかろうとなかろうと採取する癖がある。

 別にそれ程迷惑でもなかったが度が過ぎる、と知恵者が注意し、その後どれだけ冷たくあしらってもこういう時ばかりは頬を緩ませて、はい、はい、と生返事を返すほど、彼女は菌糸に目がなかった。泊まった建物から果ては船の中まで菌糸を採取しているその後姿は、いつも大層楽しげで、ケルッツアとしては時に無性の苛つきさえ感じる事もある。

 しかしその苛つきも、彼女はそういう人だ、という変な認識がここ最近知恵者の中で確立されてからはなりを潜めていた。


 眇め見た青い無地の絨毯を視界に映し、眦を細め閉じると、開けて。暗い展望部屋に照明を付けようと彼は立ち上がる。

 目の前に置かれた小さな木製のテーブルはいつも奇麗に磨かれていた。掛けられたテーブルクロスと、その上に積まれている書類は、ここ三年平均してそれ程の厚さを誇っていない。彼の向かい、申し訳程度に置かれた背凭れの無い椅子の向こうは、薄暗い絨毯の先、天井から吊るされたカーテンの隙間、光の加減でぼやけ、白く見える外の荒れ模様だけ。

 彼がドアの近くの照明スイッチに手を掛けると、明るい蛍光の瞬きが一度。今まで外の色に染まっていた薄暗い空間は本来の色、よりも明るい色彩を宿した。

 意味も無く広い展望部屋全ての照明をつけて、その視界に誰も映らない事に、彼はそっと息を吐き、ややもするともう一度ソファーへと取って返そうと足を動かす。

 取って返す前、ひっそりと開けて覗いた禁書庫に、やはり人の気配はなく。

「カビなんて……駆逐しとけば良かった……」

 ぽつり、と、ソファーに座った彼の口から音が零れた。目を輝かせて採取に勤しんでいる助手の、しかしなぜか後姿が思い浮かぶと、途端彼は自分のポケットに入っているものの重みが気になる。


 それ、はそれ程重いものではない筈なのに、彼は無性に気になって仕方がなかった。


 苛つきは、彼女にではなく。

 彼女に対しては、苛つきではなく、むしろ。



『サルッサローッツ? クー? シャ,シャシャ,サルッサロッツ』



 良く似た感情を昔の記憶にもう一つ思い出し、彼は目を丸くする。他にある記憶から何故この思い出が突如として思い出されたのか、不思議な心地でズボンのベルトに挟んだ金色の柄のナイフ、短刀とも呼べるものに手を掛け、確か買出しの時だったか、と彼は褪せた思い出を辿っていく。

 ターバンに艶のある黒髪を収めてゆく育ての親を、名前を呼びながら、まだ? と急かす幼い自分。荒れた頑丈な手が己の額にかかり、ターバンを撫で、お祭りは逃げない、という彼の育ての、母親とも言える女性の声が己にかかる。

 その時は買出しを行う予定の国で季節祭が開かれていて、それを自分は楽しみにしていた。

 その当時の己の気分は一体どんなだっただろうか。全てが今の感情とは重ならない、と自覚しながらもケルッツアは、その感情をより強く掴み取る。


 ポケットの重みが、意識の中で存在を主張していた。


 明け方の夢、恐らく当分忘れられないだろう不思議な、ある意味彼にとっては屈辱的な夢を思い、ついで外の嵐を思い、いささかどころかかなり思考が乱れている事を自覚、全ては夢と嵐のせい、と知恵者はそう思い込む。

 否、そうとでもしなければ、彼の中では一連の理屈が続かなかった。

 大体、嵐ででもなければ助手に対して寝坊など許す筈が無い。問答無用にロフトに殴りこみ、蒲団を引っぺがしてでも起こしていた筈。

 息巻く一方でその後一、二時間だけ午後辺りにソファーでの休憩は取らせよう、と。

 健康面に気を使う彼としては甘い思考の、その甘さは何処から来るのか。

 知恵者は現在の助手の利便性と言う所に着目し助手の損失は彼自身の不利益、と納得していた。彼女は良く頑張ってくれた。休みが与えられるのは正当な事。それに彼女に倒れられたら困る。


 だからといって、何故私室にまで招く必要がある?


 更なる疑問に眉根を寄せながらケルッツアは考えている。

 彼の不利益としては、助手の皮肉めいた忠告どおり、仕事から、あるいは助手から逃げる為の隠し部屋が幾つか減った事が真っ先に挙げられたが、そう思っている間の彼の心に、厭だという文字はしかし見つからない。


 ただ、彼は。

 学友連中さえも招いた事の無かった私室に彼女を招き入れて、結果、全く不快でなく、おろか。

 「・・・・・…………」

 その思考自体が彼自身は心底不思議でならなかった。

 私室で助手は、泣いて、暴走して、彼がボロボロでズタズタだった頃のノートも勝手に引っ張り出して恥ずかしい写真まで勝手に見ている、のに。

 その時の彼女が酷く弱っていた所為だろうか、不快感などとは無関係に、穏やかな時間の思い出ばかり、と。

   両手を、ドジな新人職員よりも酷い状態にして、垂れおちる鼻水と涙を必死にハンカチで押さえながら、それでも頑なに腕の中の物だけは離さない。彼女の正しくボロボロズタズタな姿を思い出すと湧き上がって来る、親しみにも似た心の温かみに不謹慎と思いつつも彼は自然と頬を弛める。


 あの部屋に助手が居るのは悪くない。


 星明りの下、汚らしいロフトの上、場違いにも眠るその姿は、間違っていても、悪くなかった。

 詰まる所、知恵者の私室に助手の居る光景は、彼にとって快いものだった。



『ケルッツア・ド・ディス・ファーン』



 名を呼び、眦を緩ませて、ふわり、と花の様に微笑む助手のその笑みを向ける相手が、自分以外の誰か別の者に取って代わる、どうしてだろう彼は、そんな光景は見たくない。



『これからは、ちゃんと用意しますから』



 ふ、とケルッツアの意識を記憶の中の曖昧さで彼女の声が掠めていった。四日間の不摂生を責めた後、ポットを抱き締めていたか、そう微笑む助手の顔は、声は、随分と優しげだったけれど。

 彼としては。

「…………」

 知恵者は、否、ケルッツアは沈黙を保っている。


 ソフィレーナ・ド・ダリルはダリル家直系の皇女。

 例え、この国では異邦人以外全てのものが王の家臣とみなされる中、唯一その地位を剥奪されているとしても、彼女の地位が貴族よりも高い事には変わりが無い。

 ソフィレーナ・ド・ダリルは将来有望な研究員の一人。

 例え他の誰が何と言おうとも、知恵者は彼女が学者となり、数々の功績を残してくれる事を切に望んでいた。

 斜め下手を鋭く睨みつけて彼は黙り込んでいる。ここ最近、恐らく半年前くらいから彼の頭を少しだけ悩ませていた不安が沈黙の内からみるみると速度を上げてせり上がってきていた。

 それでも、あの夢さえなければ、とポケットに手を突っ込み、その硬い感触を弄びながら。


 ソフィレーナ・ド・ダリルは、けれど。



「……シャ」


 早く、と。

 不安と、期待に競りあがり零れ落ちた故郷の言葉は、しっくりと彼の心を表した。記憶の中の自分が何歳だったか、十に満ちていなかった事だけは思い出しながら、もう一度、彼は言葉を転がしてみる。


「シャ,シャ ……ソ」


 助手の、正当な名を呼ぼうとして詰まった彼は。


「そ……そふぃー………、



 れー……・・・・・・・・・・・・・・・レ


 ンス君」


 葛藤の後、気恥ずかしさと今更、という固定概念に負けて挫折、結局、ソフィーレンス、で今の所は落ち着く事にした。


 ポケットに忍ばせた物の形を思い描くと。



「シャ,シャ,……ソフィーレンス」


 早く、早く、……ソフィーレンス君。



 まるで子供の駄々の様な口ぶりで微か、床から浮かせた足を所在無く揺らし。

 糸を張り、待ち構える蜘蛛宜しく。





 哀れな餌食かもしれないハエ、若しくは虫、もとい助手が展望部屋へと到着したのは、それから更に五分後の事。

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