第12話~科学者は哲学の夢を見るか~格外の捕縛 前
<26>
国立図書館最上階、よりは下階の、第八階に広がる一般休憩室よりは上階。
幻の九階辺りだろうと思われる隠し通路の闇の隅っこで、ソフィレーナは顔の、あるいは心の紅潮に参っていた。
真っ赤な顔を覆い隠そうと押し当てている絆創膏だらけの手は動く事も無く、上体ばかりが前にのめる。
膝を揃えてしゃがみ込んだ脚はずるずると膝下の間隔を八の字に開けてゆき。
と、程なくぺたり、と崩れ落ちた。
ひやりとした冷気が脚へとまつわりつき、体温が奪われる、その不快感に彼女は一瞬眉根を寄せたが、姿勢を元に戻す事も、閉じた視界を開く事も、おろか顔を覆った手を退かす事さえ出来ず抱え込むノートまで全くそのまま、前方に置いたランプの灯りさえさえぎる形で殊更強く、両の目元を覆っている。
穏やかに照るランプの赤みは、艶を取り戻した栗色の髪や覗く白い肌、服に包まれた前身を彼女の心同様に染めていたが、その優しげな光でさえ今の彼女には無情に映る。
体内を廻る血流の速さが常の倍早く、生み出される熱に涙が滲み、浮腫んだ目元を更に痛めつけている。脈拍は彼女の許可無く拍を速め、ノートを押し付ける胸元は、締め付けられたような苦しさと切なさで満ち満ちてた。
鼓動に至っては、耳朶ばかりか首筋までも沸騰させ、好き勝手に体温の上昇を促すばかり。
ああ、厭だ、いやだ…参った、どうしよう、等という単語が繰り返される彼女の頭の中は、ぐるぐると恨み言めいた言葉がただただはんすうされていた。
甘い。甘すぎる……。
甘すぎて………糖分過剰で頭がおかしくなりそう…………。
ベスト越しの背から伝わる重みは、緩やかな熱を持ち、柔らかいと言うよりは硬さが際立っている。
星明かりの中、覗き込んでくる灰色の眼が瞬時にして漆黒に染まり。
僕なら君を解体したいと思うのに、と、息の間を置いて形作られた唇の動き。
えもいわれぬ陶酔と恐怖に揺さぶられながらも、平静を装って交わした会話の一欠け、その息継ぎの間や返された言葉の音程、ニュアンス、そのどれもが甘く優しく、知識欲に無邪気という怖いまでの毒を内包していた。
蘇ったのは昨夜の天体観測における記憶。
こういう時でも、否、あるいはこういう時だからこそ、ソフィレーナ・ド・ダリル、ソフィーレンスの表層での意識とは無関係に、記憶は一分の乱れすらなく、彼女の捕らえる正確さで思い出されていく。
当然、昨日の記憶、お礼だと一緒に観測した星空の美しさも、流れる星の素晴らしさも例外ではない。
その後に続いた予期せぬ部屋への招待も、トラウマも。
彼女の恥も彼の恥の消沈、得意気な様子、そして拗ねた雰囲気でさえ、全て。
背を撫でたてのひらの温かさも。
栗色の髪を掻きまわし、整えて、今度は辿るように撫でていたその手の、骨格が思いの他しっかりしている事も。
指先の感覚ですら。
「…………っ」
この三年に限って言えば恐らく一等近しい場所で知恵者と接してきた彼女は、その記憶と昨夜と今日、この短期間で自身の身に起こっている助手と知恵者の思考とを考慮に入れた計算式にはまず在り得ない答えが幾度となく弾き出されている状態に、混乱も混乱、大変に、有体に言えば困っていた。
例外といえる事象や化学反応が幾度となく同じ条件下で起これば、それは例外とは言えなくなる。
例外を例と改めなければならないケース。
彼らの場合に考えられる可能性は、知恵者と助手の間で何かが変わっていた、主に知恵者側の心理に何かしらの変化があったというものだった。
その変化は、助手に対する信頼の芽生えだと考えるのが妥当で、それは本来彼女としてみれば諸手を挙げて喜びたい変化だったのだが。
だが。
だからって……ッ! き、極端なんですってば……!
つい一昨日まではまともな睡眠時間は愚か休憩ですら取らせてくれなかったじゃない。
彼から恐らくは現在進行形で与えられている例外、否、信頼の態度の、その思わぬ甘さに彼女の思考は酷く熱を持ち崩落崩壊寸前、今にも蕩け落ちてしまいそうだった。
あるいは、と、つい、日頃では在り得ない待遇の大安売りに邪推とも呼ぶべき、防御の思考が展開される。
あるいは、甘さを糖度と言い換える事ができるなら、糖分は摂取されてすぐエネルギーへと換算されるのだし……。
……私に手っ取り早いエネルギー源を与えて、もっともっと、今以上にこき使おうと企んでいる……?
己が殊更なものを知恵者に抱いている事が彼に気付かれており、尚且つ彼はその助手の感情を利用する為計算してやっている、という前提で成り立つ答えは、当然の事ながら彼女の首を絞め、この感情がバレバレ、という更なる羞恥を生む。
どう思考を転ばせても上手く行かない、逃げられない、と悔しさにも似た感情と、それでも甘い、脳天を突き抜けるような歓喜、恍惚とに苛まれながら、彼女は必死、火照りの治まらぬ顔を鎮めようと冷静な思考を殆ど悪あがき同然で働かせようとしていた。
当のケルッツア本人を前にして現れていた素直な心地は今遠い彼方、しばらく戻っては来なさそうで、彼に対しては何故か逆恨みの心だけが表立つ。
が。
何も忘れない頭はここに来てもう一つ、そしてしばらく彼女を現実に返せない程の衝撃を無許可に再生させた。
「ッ!?」
待ち構えていたかのように起き抜け、早速と彼女を襲った現実は彼女の頭をはたから見れば可哀想なほどに沸騰させ、突破口らしき突破口すら見つけられず未だ荒れ狂わせている。
常日頃、あるいは単発で、前回のものが忘れられた頃に時折、思い出したかのように起こるこうした事態であればとっくにそ知らぬ顔で軽く流す事の出来るソフィレーナでも、流石にこうも短期間、集中的に、まるで攻められているかのように起こる事態には慣れていなかった。
彼女の頭は尚も、今朝の記憶として蓄積された映像を、壊れた機械のように正確に垂れ流す。
当然今朝の現実、その最後の辺り、今の彼女としては二番目位に考えたくない映像も、勝手に流れ出た。
顔を隠すように掲げた古ぼけのノートの、その黒と影とを割って、爪ばかり白い褐色の指がノートをずり下げる圧力と共に掛けられる。
額の直ぐ近く、息で髪の揺れるほどに近い場所で、問い詰めて揶揄するかのような声はひそやかに。
『あっただろう? 薄っすらとだけど、目の下に、こう。髪も元気が無かったし、肌の色も悪かった。
どこと無く怒りっぽかったしね。』
ノートに掛けられ、その近く、栗色の髪を割り割いて熱を持つ瞼に触れるか触れないか、押し迫った指先は、しかし。
僅かに呆れと感心の混ざった溜息のような、穏やかな声音が前髪を揺らして、額に落とされる。
『それでも、弱音一つ吐かないんだから…本当に、君は良くやってくれているよ…』
ノートから呆気なく浮いた指は、前髪を幾筋か乱した後、おもむろに頭を覆い撫でていった。くしゃくしゃとしたその感覚は、昨夜の撫で方よりも少しだけしっかりとしている。
攻めて、攻めて、散々ボロボロにしておいて、ひらり、とてのひらを返す。
何て反則、何て悪徳なやり方か、と、涙で霞む視界。
恥ずかしさと悔しさが入り混じっているのに、その不快感よりも舞上がりそうな嬉しさの勝つ感覚は、本当にソフィレーナにとっては不可解以外の何ものでもなかった。
起きたらロフトの上だったとか、運ばれたとか顔が酷いとかそういった事でさえ落ち着かなかったのに、あんな風に言われたら平常心なんて、飛ぶ。
嵌められた、とばかり歯噛みする助手の勢いは、しかし理不尽さに酷い疲れが見えて、知恵者を非難する声は徐々に威勢を殺がれていく。
非難の消え果た後には、からくも情けない、懇願にも似た焦燥がか細く、泣きそうな声として残るばかり。
お願いだからッ………!
っお願いだから、そんな事……
いわないで…くだ………さい…………よ、ぅ・・・・・・・・
頭も撫でないで欲しい、と切実に願うその裏では、昨夜頭を撫でられた時の感覚とあいまった抗い難い深さと重み、花の咲き乱れる様な歓喜を感じている事に、ソフィレーナは前髪を乱すように首を振って更に頭を垂れる。
この短期間で最低三回以上は撫でられた、その感覚はいまだこそばゆく頭皮にわだかまり、背筋を妙に痺れさせて止まない。
ふいに。
垂れた前髪を辿られる感覚が蘇り、今度こそ彼女の肩がすくんだ。
あの可笑しな夢での感覚は、全て己の妄想が作り出したものなのだろうか。
大きく分厚いてのひらの感触が、今正に現実で顔を覆っているてのひらにも蘇る。
次第抱え込む形になっていた両の太腿にも等しく平等に。
こそばゆく重い太腿のそれが厭に鮮明で、壮年近いドクターのぼさぼさ、白髪交じりの灰色の髪が広がって足に蟠る感覚も、動かす頭の重さも、温度ですら自動的に思い出て止まりはしない。まるで水がコップから溢れ落ちる瞬間の速さで、彼女は己の止まらない記憶に支配されている。
夢の中、壮年近いケルッツアの顔を隠すように掲げた論文雑誌。
点滴の残りはまだ十分。
その、砦とも言うべき雑誌を除けて、伸びてくる大きな、手。
『…ねえ…? ソフィーレンス君………君はいつまで、僕の助手でいてくれるの……?』
栗色の前髪を梳く焦げ茶色の指は頑丈そうで、掌は彼女と同じもので形作られているとは到底信じられない程に分厚く妙な弾力があった。
その全ての感覚に、しかしソフィレーナは現実全く覚えが無い。
褐色の肌が髪を辿り、分かりやすい重みが頭にそっとかかる。ガラス細工に触れるかのような繊細さで髪の表面を掠ったそれは、一度はそのまま下ろされて前髪、横の髪へと流れ、二度、三度。
辿り来た指は次第意志を持って髪へと柔らかに入り込み、感触を楽しむかのように動く。
視界の端、かかる栗色を指先に絡め遊ぶようにいじって、髪先まで辿り終えるともう一度。
幾度となく指に彼女の髪を絡めて、飽きもせず、ずっと。
見上げてくる眼は眠そうに瞼をかけていたが、その奥に酷い程の、否、怖いほどの真摯な何かを湛えてこちらを見ていた。
深く、暗い灰色の闇のその奥の奥。
星闇の下、真摯な目を隠しもせずに乗り出してくる黒いコートの、子供の姿をしたケルッツアが。
『…ねえ…? ソフィーレンス君………君は』
彼女の中で、夢の中では定説を思うに留まった夢というものへの知識は、より鮮明に描かれてゆく。
夢とは、記憶整理の副産物であるらしい。明確な事はまだ判っていないが、ある説では記憶の整理、取捨選択の為に起こる現象だとされている。
ソフィレーナが思い出した記憶は二年と一ヶ月前のもの。
脳のメカニズムと深層心理分野とは直ぐ隣のコーナー同士。第五図書館Dの棚、下から四段目、右から本を五つ数えた場所、『夢と記憶』の第一章、三節五段落目の上から二文字下。本の識別番号と作者の名を思い出し、本の内容に矛盾点が見当たらなかった事と、その作者とは相容れない意見を持つ学者の本の内容とを比べても、他、関連の書籍を見ても理論展開に疑問点が無かった事、それが一般の定説であるという他の書籍の姿勢等を当時の彼女は複雑な気持で受け止めている。
又、夢をめぐっての議論にはもう一つ、願望や欲求が形を表したものだという意見がつき物だった。
彼女という人間は、余り夢を見ない。
過去、彼女を調べる許可を得ることの出来たただ一人の老学者は、見ているけれど忘れている、のではなく、己の覚えているもの以外では本当に夢を見ていないのだと結論付けていた。
ならば彼女の見る夢は、彼女が忘れる事の出来ない頭の持ち主である以上、記憶の整理よりも願望と欲求の為に生まれたもの、といった方に説得力がある事を彼女は理解している。あるいは又それとは違う別の要因か。
少なくとも彼女自身は、強く望む願望、欲望を視覚情報として得、満たされたいという欲求から己の夢は派生しているのだろうと、漠然とそんな事を思っていた。
今回においても、そう思った方が自然だった。そうすれば、知恵者が子供でなかった理由にも検討を付け易くなる。
恐らくは。
夢の中の彼は、異世界に行かずに月日を重ね、年老いたケルッツア・ド・ディス・ファーンの姿だ。
彼女がそう結論付ける要因は、彼の若い頃の話、知恵者の恥話を聞いていた事と、彼の若い頃の写真を目撃した事、そして何より子供の姿でない彼との交流を持ちたいという強い欲求が確かに彼女の内で息づいていた事による。現実との差異、知恵者は今年で四十四になる筈なので二年あちらの方が年老いていたが、そんなものは大した問題ではない。
夢で見たものを彼女の願望から成る世界であると捉えるならば、夢の中のケルッツアが誰からも認められない、学者崩れとまで馬鹿にされていた事にも彼女自身納得がいった。
『そ、そうは言ったってねぇソフィーレンス君……。体が動かないんだよ……?
お、おまけに君はどっかいっちゃうしみ、……見捨てられたかと思うじゃない……』
不摂生で倒れたドクターが、点滴機材を抱えて駆けつけた助手に洩らした言葉は、心細いにしても情けなく頼りなさ過ぎた。
夢の中で 現実の彼女は、否、子供の知恵者と居る彼女は、確かにこんなケルッツアは嫌だと思っている。
けれど。
その彼こそ、彼女の想いにはちょうど良いのだと、酷い眩暈の中にあってもソフィレーナは強く己を淘汰した。
情けなく、頼りなく、誰からも認められないその彼が頼るのは、助手である自分。
私は、何よりもあのひとに必要とされたいと思っているから、だからこんな馬鹿な夢を……。
『…ねえ…? ソフィーレンス君………君はいつまで、僕の助手でいてくれるの……?』
だからこの言葉が夢の中、己の描いた願望の中で紡がれている以上、そこには現実の知恵者と助手の間での変化は無いと、そんな事は彼女自身が一番良く分かっていた。
全ては己の願望、欲望の為したわざ。
自分で対象者の真似をして、鏡の中の己に語りかける。ただそれだけの事に、知恵者の意志等絡むはずも無い。
一人芝居の独りよがりは酷くこっけいに、ソフィレーナの心にも愚かと映っていた。
なのに。
『いつまで、僕の助手で』
その言葉がどうしようもなく、彼女は嬉しかった。
相手を貶めてまでエゴを通す己の浅はかさに呆れ果てて強くそしっている、そのかたわらにあって夢の中の言葉と、確かに感じてしまった嬉しさだけは、彼女はどうしても否定し切れない。
そんな事で嬉しいと喜びを噛み締めている己の姿が、そして自身でも哀れでならなかった。
哀れで、愚かで。
その心理は更に彼女を彼女自身の手でおとしめ廻り、廻って。
抗えない喜びは、いつしか自虐と背を合わせる。
夢の中でも確かに灰色だった瞳の色は、瞬時にして黒い闇を湛え、その先に現実の世界の知恵者を映し出した。
黒いコートを纏った彼の瞳は、真っ直ぐに彼女へと向けられている。
黒い色は唯、ソフィレーナだけを見つめていた。
捕らえられる、錯覚。
助手は、心底知恵者に魅せられていた。
絶対の尊敬の対象であるといっても過言では無い程。何ものにも、あるいは彼女の心を捕らえて止まない菌糸への探究心にですら抗えないほどに強く。
彼に惹き付けられ止まないその心に、敢えて名前を授けるのなら一体何と名づけられるだろう。
彼女に心当たりのある名は、どれも余り良い響きを伴わない。
求めているから、惹かれているから、魅せられているから。
求められたいと、思ってしまう。
所詮夢。夢は夢。どう足掻いても願望だけれど、それでも、もしあんな事を現実で言われたら。
くるくると廻る思考の中で、少しずつ歯車がずれて行く。
もし。
もしも。
けれど彼女は甘い言葉を望む一方で、現実にそんな事が起こらない事を切に、強く願っていた。
相反する矛盾は、しかし矛盾ではない。
今、何時……?
立ち返った現実に、ソフィレーナは僅かばかり青ざめる。
手元に時計のない事を悔やみ、昨日の自分に活を入れてやりたい気分に襲われながら現状を改めて把握して。
知恵者の助手は彼の私室から洗面台へと向かう道のりの途中、未だ歩を止め暗く湿った隠し通路らしき場の絨毯にへたりこんでいる。
助手の起床した時刻はどう見繕っても七時や八時といった可愛い、否、国立図書館出勤者ならば朝一便に間に合わず、他の仕事でも遅刻必死なので十二分に寝坊だが、その時刻よりも更に昼近くに起きたであろう事は助手自身が一番良く分かっている、筈。
まして、この撃沈している時間が更なるロスタイムになる事など思考を廻らせるまでもなく。
「!?」
今頃知恵者は怒っているのではないか、と立ち上がる彼女の足は、急な主の指令にもつれ、反射は酷く遅かった。
ランプを取り、教えられた道筋を思い出しながら、忙しく灯りを揺らしそれでも走る。
一度、二度。転びそうになる足元を何とか耐え、階段を駆け上がると三叉路、そこを左に。
闇は相変わらず濃く、世界は助手の掲げる明かりだけで形作られていた。先を見通そうとしても、闇ばかりが広がる。
闇。
闇の中。
黒い
穴。
まるで、あのひとの眼の中みたい。
「ッ!! 」
廻った思考に、思わず彼女は首を振った。足が止まっている。
震えた手に持たれたランプの灯りは不規則に揺れ、彼女の周辺に不気味な影を幾重にも作り出していた。背には階段。廻った頭の自由さが憎たらしい。
ブラックホールに階段やら三叉路やらがある筈が無いではないか。
己の思考の馬鹿さ加減に、彼女ははやる心臓を恨めしく思いながらも息を吐き、ついで、頭に持って行こうとした手にノートが持たれている事を知ると、二重に遣り切れない気持になる。
息をついて、頭を少し掻くのは知恵者の癖。
気付くと移りそうになっているその癖に己のいたたまれなさを自覚、馬鹿みたい、と小さく呟いて。
しかしその彼女とは又別の彼女が、そ知らぬ顔をして思考用量を使った。
ブラックホール。超重力体。恒星の末路と考えられている重力の崩壊したもの。飲み込む物質を極限まで圧縮粉々に噛み砕く。噛み砕かれた物質はどこへ行くの。消滅するの、吸収されるの。光ですら出る事の敵わない事象の地平線、存在の止まるその先は闇だろうか。光ですらも砕かれるというのなら闇かもしれない。それとも。
噛み砕くそれはそしゃくに似ている。そしゃくして、物質を取り入れるのならそれは消化であり同化。
あのひとの眼は、ブラックホールだ。
ならば、同化されるのか。
もし、その黒に吸い込まれて、粉々になって初めてあなたの底が分かるというなら。
ならば、私は。
私はのぞ。
「しら、ない……! 」
わざと零した声は、か細くも現実に具現化された。
その強さに思考を使っていた彼女ははたと手を止め、じっと否定する彼女を見つめている。酷く冷めた目で、ウソツキ、と動くその口元は、しかし彼女に否定されて掻き消えた。
乱暴に頭を振って、助手は思考を取り戻そうと又、声を出す。
「知らない。しら、ない。
あれは所詮夢、願望。だからしらない。…………しらないったらッ……」
たかが願望の産物に捕われて、いまだにこんな所でグズグズしているなんて、なんて役立たずだ。 吐き捨てるように止まったままの脚を持ち上げ、それを無理に前へ出し、彼女は移動を開始する。
徐々に歩幅が慣れて来た頃、一つ目の扉が見え始め。
『…ねえ…? ソフィーレンス君………君は』
一度目は、流星群観察の前。
二度目は、その灰色の髪を辿って、撫でる真似をしていた時。
二度繰り返されて、結局取り消されてしまった同じようなケルッツアの問いかけは、夢の中の出だしと良く似ている。
彼女はそれが妄想の産物である言葉の原因と分析、認識、片頬を引きつらせた。
あの先は、本当は何て続くの?
洗面所の扉は三つ目。足早に進む視界は一つ目を過ぎて、二つ目の錆びたドアノブらしき金属の鈍い反射を感知している。
それが分かれば愚かな妄想ももう決して繰り返す事はない。願望は打ち砕かれるだろうに。
二つ目の扉も過ぎ、しばし進むと目的地である三つ目の扉が姿を現す。その取っ手に駆け寄り、ランプをノートと一緒くたに持って、ドアノブに手を掛け。
こんな風に役立たずじゃあ、いつか見捨てられる。
そんなの嫌だ。
闇の先。
だからしらない。知らないの。
……知らないって事にしておいて……
ドアノブのその向こうは、簡素な洗面所、というより浴室に繋がる脱衣所の様相だった。一瞬明るく思われた採光は、直ぐに空の薄暗さに取って代わられる。
身のすくむような風と雨の音は健在のようで、高い所に取り付けられた換気用の窓二つ、その閉じられた硝子には木の葉と思わしき茶常緑を保った針状のそれが汚くへばりつき、雨に流されていた。薄汚く汚れた壁に囲まれて、彼女の左手には取り付けの鏡と洗面台。右手は浴室に繋がるらしき扉の取っ手。正面には未だ転々と水溜りの残る木目の床がむき出しのまま、奥には旧式の洗濯機と、比較的新しい型の乾燥機、その横に小さな棚と、ぐしゃぐしゃに丸められたタオルらしき物が鎮座している。
ふと彼女は、先刻、許した視界に映りこむ知恵者の口許、頬の下辺りに掛かる灰色の髪が僅か湿っていた事を思い出した。彼の首に掛けられたタオルも湿り気を帯び、彼自身、微かに水の匂いに包まれて。
途端、その場に残る湯の残り香が鼻腔をくすぐり、また一拍と自動的に心拍数が上がる。
小さく首を振り、そんな己を叱りつけて、ソフィレーナは顔を洗った。ハンカチで足りない分は洗面台のそばに添えつけてあったタオルを失敬して借り、その少々ざらついた感覚に何時もの朝より確実に早い心拍、動揺する心を落ち着かせる。
鏡の中に映るのは、目元を赤く腫れさせた、浮腫んだ顔の知恵者の助手。
このロスタイムは何分。そんな事を真剣に考えながら手早く化粧をし、髪を整えて。
一つ息をつくと、日頃言い聞かせている言葉を殊更強く自身に言い聞かせ。
特別を望んでふぬけになって、呆れられて突き放されるなど愚の骨頂。
好意は錯覚と心せよ。
求められ、許されているのは“有能な”助手。
役立たずに用は無い。
役立たずは用無しだ。
その場を去ろうとしたが。
彼女の視界の端には、見慣れた黒いひびが映り込んでいる。
役立たずは…………。
世間一般でクロカビと嫌われる菌糸の、その顕微鏡下の美しい姿を思った彼女の手は、半ば無意識に、胸元の採取セットを引き抜いていた。
「…………・・・・・・・・・・・・」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます