第11話~科学者は哲学の夢を見るか~ゆめ、うつつ

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 その唇が何某か動いた事は知覚できた。

 音も、形ですら、記憶する間なく放り返されてしまったけれど。


 朝曇の浮かない採光が知恵者の私室を照らし出していた。部屋の奥手から響き渡る忙しない電子音に混じり、何処からか、風の酷い唸り声が洩れ聞こえている。

「…………」

 眦を開ける前にもう一度沈もうとした枕の感覚は酷く硬く、そこでケルッツアはやっと瞼を開け、もう一度確認するように弾みをつけて沈み込んだ。

 間違っても、柔らかくそれ自体が熱を発しているような心地よい温かさなど無く、己の頭にたんこぶもない。

 勿論、思い切り踏みつけられたはずの脛には何の痛みもなかった。


「・・・・・・・・・・・・」


 常日頃使っている薄っぺら蒲団のそれを頭に刻み付け、むくり、と上半身を起こして時計を確認すれば七時二分過ぎ。

「!」

 先ずは行動とばかり急いで起き上がると、彼は無意識に後頭部を掻きながら電子音の発信源へ駆けていった。パソコンを立ち上げ、滑り込むように椅子へと腰掛けると幾つかのパスワードを打ち込む間も惜しく。

「悪いな、一時間ほど寝過ごした……おはようライスダーム……天候は?」

 部屋の奥手、助手によってほぼ完璧に片付けられたその一角、パソコンの横に添えつけの小さなマイクに向かって声を掛ける。

 一瞬電波の乱れる音、次いで喉に胆が絡んだような野太い声が景気良く返ってきた。

「おはようじゃねェおせぇよドクター!

 天候は最悪。

 海は大シケ。

 北北西強風、風速二十五メートル。

 王都東方ララナッシュ登頂積雪観測、ってなもんだァ

 ……まあ、寝過ごす運が良かったな」

 少々割れた声は揶揄を含んで、装着されたイヤホンを通し脳髄を揺るがす。痛む耳からイヤホンを離し気味、知恵者は苦くパソコンの画面に目を走らせた。

「ああ、国立図書館は臨時休館即決定。恒例行事の後だしね……。

 助かった職員も多いだろう……」

 答えながらメールボックスを開き、仕事の仕分けをし始めた知恵者に大音量で愚痴る声は構わず続けられ。

「あァ、あァ、いーィ骨休めだろうさ……ウチの文化庁長官なんざ朝の一番に休暇届出しやがった……。

 ぁー……いっぺん絞めていいかね、あンッのとぼけ野郎ッ!! 」

 余程腹に据えかねているのか、吐き捨てるように繰り出された内容に、十五通目のダイレクトメールを削除し終えた所で知恵者は暗く笑うと妙にドスの効いた同意を返す。


「……ああ、グラン……。

 制裁は止めない。むしろ是非参加したい所だ。」


 確実に周りの温度を下げて通信相手を沈黙させた後、パソコンから次の作業を呼び出し取りかかりながら、ドスを利かせた事などもう忘れたかのように彼は話題を変えている。

「で、話は変わるが、午後でも良い、往復便を一つ出せないかね?」

 温厚に戻った学者の様子に、あからさまに通信相手からは安堵が伝えられ。

「あ、あン? ……自殺したい奴でもいるんかい」

 調子を戻したイヤホンを認識、国立図書館全職員へ休館の報せを送信、他主要機関へと報せを打ち込み終えると、彼は僅か視線を天窓の辺りへと走らせ、覗き込めもしない高さのロフトを覗こうと椅子から立ち上がった。


「という訳でも無いのだけど……助手を本土に帰したい」


 意識してか、せずか。どこか上の空、マイクから遠くなった声にイヤホンは少しばかり長い静寂で答える。ついでやけにわざとらしい声が嫌味なほど大きく耳へと飛び込んだ。

「……・・・・・・・・・・・・・・・・。

 ほおおおおーーーーーーぉ。

 やーーーーーーーーーーァ。

 そぉォォーーーーーっかい。

 昨日―ぁさァー、ぞやぁーおたのしみだァー……・・・・…………・・・・・・。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

   …………否。

 どォーせなんもねェやな甲斐なし。」

 一等楽しげだった野太い声はしかし途中で途切れ、沈痛ともいえる長い沈黙の後極めて突き放したそれに変わる。律儀にもその沈黙を待っていた、その実あれよあれよと仕事を片付けていたケルッツアは、タイミングを見計らって再度便の有無を問うた。

「はは、楽しめる話が無くて悪いね。レウィナ観測と書庫整理残業。明け方二人してばたん。

 で、無理は承知だが……聞くだけ馬鹿か?」

 イヤホンの向こう側で頭を抱えていそうな分かりやすい苦渋の沈黙の後、渋々と。

「………まあ、なげぇ付き合いだ……。ジェイクにゃ頼んどくがな、

 ……あー、カノーセーは!」

 がなり声に苦笑し、天窓の軋む音に眉を顰めて知恵者は言葉を引き継いだ。

「ほぼ零。腕利き船長に期待しておくよ。このシケを乗りこなせるのはあんたしかいない! 」

 おどけて答えた彼に豪快な笑いと揶揄が返され。

「ややーぁ…おだてても今度はむりじゃねぇ? ま、いいさ。

 じゃあな、ドクター! いい一日を!」

 かけられた挨拶を挨拶で返して。

「いい一日を! ライスダーム気象観測官」

 ケルッツアは、平日毎朝の決まり事となっている気象庁との通信を切る。


 それから、総館長における国立図書館臨時休館時スケジュールは本格的に、粛々、というよりも荒々しくこなされていった。

 最上階から一階まで全窓の戸締り確認、雨戸を閉め、エントランスホール入り口に風雨対策。

 数年前、国立図書館利用者かも怪しい者が二、三人、無断で島に残った挙句翌日嵐に巻き込まれ、危うく死亡者を出す事態に発展するような事件が起きて以降、必ず拡声器片手に島を一周見回るという手間が一つ。

 これらを全て慣れた順序で一人こなし終えた彼は今、ずぶ濡れになった服を替えるついでに湯で体を温め、それも済むと日課である研究材料の具合を見、ご機嫌を伺って、私室へと戻ってきた。


 部屋は、寸分違わぬ姿で彼の灰の目に映っている。

 助手の起きた様子は無い。


 シャワーに晒した頭をタオルで拭きざま、彼がおもむろに銀の懐中時計を見遣れば、秒針は五を過ぎて八時四十六分と半分が経過していた。

「…………」

 いまだ水滴の垂れる前髪を乱暴にタオルで掻き回し、それも一通り済んでしまうと、ケルッツアは長机を通り越してパソコンの置いてある机、その椅子へと静かに腰掛ける。

 そして耳を澄ましていた。

 荒れ狂う風の音は高く低く、唸るように泣き愚図るように結界の解除されたウィークラッチ島、その真ん中に位置する強大な国立図書館の巨塔、古めかしいそれをなぶり、本土へと吹き荒れている。木々はざんざんと揺れて揺さぶられ、雨の叩きつけられる音はバケツをひっくり返したよう。

 天窓にぶち当たった風と水滴は外の光を滲ませ、流して、世界を曖昧に隔離しているかのようだった。

 ふいに、一等高く風が唸り、吹きつけられた雨水と共に微か強靭な天窓の枠を軋ませ過ぎて行く。その方向に目を転じた彼の意識は、そして無意識にロフトの上、その見えない空間へと向けられていた。

 風の唸りと泣き叫ぶ豪雨のそれは随分と酷い音をこの部屋に伝えているはずだが、相変わらず、ロフトの上にこれといった動きはない。


 ……よほど、疲れが溜まっているらしい…………。


 部屋の奥手から、窓辺、その下辺りをただ彼は見やっている。

 起こさぬまでも寒いといけないとロフトの入り口、毛布を片手にドアノブに掛けようとした手は、結局金属の冷たさを感じる事はなかった。開け放したままだった扉を開けロフトへの階段を上がって、最後の一枚。

 己の空間である筈なのに、そのドアノブにはどうしても手がかけられない。


 その手を今ケルッツアは一人眺めて、おもむろに腰のベルトから今朝方見つけたナイフを外し、パソコンの手前、真正面に位置する机の場所へと静かに置いた。黒いコートの袖から日に焼けた色の手を伸ばし、緩やかに流れる流砂を模した金細工の塚を、鞘をてのひらで確かめている。

 嵌め込まれた青玉は薄暗い中でも一際蒼く煌いて、細かに刻まれたカットに沿うように幾重にも複雑に光を反射していた。

 その様、蒼、薄く濃いそれが入り乱れるそれはそして彼の記憶の断片、懐かしき故郷の風景とよく似ている。

 嵐の前兆とされる、蒼い流砂の、そのつぶてが突風に舞い上がり光を弾く砂漠の現象に。

 砂漠を、流民を統べる神の通る前兆とされる、青き流砂の。

 或いは、民の特色、蒼き装束が幾重にも風にはためく様に。


 メルティン ラ クォシス

 蒼き者達。


 メイディス メ ルィ クォル サロ

 誇り高き、サロの御遣い。


 その色が、どうして砂漠とは離れた、科学大国の国立図書館、その孤島で輝いている。


 窓を打つ風の音。

 吹きつけられる雨音は、人の声に似ていた。


『ケルズッ! 後生だ、この通りだ!! 頼む、頼むから止めてくれッ!

 遺跡を個人的に使うなどと……そんな事をすればお前は、お前は私の友でなく!

 か、家臣と、家臣と成り果てる事になる!

 遺跡は、オーパーツ技術は国の共有財産だ……。それを私用で使った相手など・・・・・・私でも庇ってやることが出来ぬ。私の、王の権限を以ってしても…無理だ。

 お前の自由は奪われ

 私はお前を監視下に置かねばならなくなる……。

 場合によっては……お前の愛して止まぬ故郷にすら、二度と帰れない……。

 友を牢獄に送るなど、私はしたくない・・・。

 私はそんな事をしたくない…ッ!!

 したくないのだ、……後生だ……ケルズ、否、ケルッツア……。

 ケルッツア・ディス・ファーンよ……』


 怒声、次第、涙混じりになるそれが唐突に彼の耳に蘇った。何年前か、この頭を取り戻す前の事、科学大国を背負って立つ人物は、この国の民宜しく白い顔を赤赤と怒りに染め上げ、見事な金髪をむげにして悔し泣き、よく磨かれた王宮の応接室の床にその膝を突いていた。

 その様を浅く腰掛けた椅子の上、苦しく眺める男の声は、激昂に水を差すかのよう、静かに置かれる。


『…………それでも譲れないんだ、エルグ』


 その過去に、ケルッツアは無表情のままで一つ、瞬きを送った。一度思い出てしまった記憶は歯止めなど何処吹く風とばかり、断片を蘇らせて行く。

 声。


『いい事を教えてやろうか天才崩れ。

 お前の頭は我が機関に狙われていたんだよ。

 まあ、今のお前なんぞに誰も興味は持たんだろうが……。お前、馬鹿な都市伝説信じてるだろ。

 黒い猿……いけ好かない蛮族。

 ゲールッセッテの秀才クン。

 ………………そいつに戻ったら即、試験管の中だ』


 時間軸は前後しているのか。彼にはこの光景と、前の光景の、どちらが先で後なのかを正確に思い出す気はなかった。

 異世界に関する文献を漁る彼の隣、あてつけのように乱暴に座ってきた銀髪の男は、論文雑誌から目を放す事無くそう言い放つ。文献から頭をもたげたケルッツアに、そして向けられた視線は言葉とは裏腹、酷く真剣に苛立ちと心配らしきものを訴えていた。

 その視線の強さにも、けれど二〇代前半にして既に疲れた眦は動かされる事なく。


『シルドか…………。それでも構わんさ……』


 見つめ返した、その先の銀色の目は酷く動揺していた。


 灰色の目は又、瞬きを一つ過去へと送る。

 目映く光り輝く王宮の一室。


『………このサインを以って、そを我が永久の家臣とみなす。

 ……………異存は無いな…………。

 流民、ケルッツア・ディス・ファーン=アルスメーニャ=サルッサロッツ・メリス・ラート』


 大勢の科学者、混じって彼の友人達の見守る中、ケルッツアは一人、王の前へと膝をついていた。

 彼の友人はもう顔を歪める事も無く、粛々と、この国の王として頭を垂れる異邦人に家臣たる事を認めている。

 下げた頭を動かす事もなく、そして囚われた流民は言葉を返した。


『全て、仰せのままに』


 揶揄と奇怪に歪んだ欲望の渦の中、真摯な苦渋と哀れみ、心配を含んだ視線がちら、ほら。


 その過去にただ、ケルッツアは瞬きを送っている。

 嵐にまみれた音の中、過去をただ静かに見つめる彼の瞳には、後悔も悔恨も、ましてかげりですらもなかった。

 その過去に、詰まる所彼の後悔はない。

 その選択を、彼は恥とは思わない。


 けれど。



『だって、枕の高さも足りてなかったでしょう?』


 夢の中の彼女は、柔らかな笑みを浮かべてこちらを見下ろしていた。

 手も足も背丈も無駄に大きく、その癖情け無い事この上ない、恥の体言のまま生き恥を晒していた夢の中の男は、異世界に行かずそのまま歳をとった己の姿。

 夢に出てきた助手がその実何と言っていたのか、願望だろうが、記憶の整理だろうが、いずれにせよ己から発生したものだろうに、その正確な所に彼は心当たりなどない。

 穏やかな顔、眦を緩ませ、その明けの空に、或いは暮れた後の僅かな時間空に現れる紫を濃く淡く、時折栗色に滲ませた瞳を柔らかに向けて微笑む、その確率としても限りなく少ない助手の表情を映した記憶が何処から来たものなのかも分からない。

 垂れた前髪を、その栗色の髪を撫で辿る感触は恐らく照れ隠し、星の光にまみれた私室での恥さらし話を基に作られているとしても、同じく助手の白い手でくたびれた前髪を梳かれる感覚もつたなく撫でられた髪のそれから構成されているとしても、間違っても脛など踏みつけられた事はなく、まして点滴など彼女からほどこしてもらった事も、ケルッツアにはない事だった。

「…………」

 膝枕、は、抱き上げた時触れてしまったその感覚を頭に持ってきたのだろうか。

 夢は、願望を表すとも言われている、なら、己は彼女にそんな事を望んでいたというのか。

 いずれにせよ、と。


 ふつふつと煮詰まった彼の頭は、明らかな怒りを夢の中の自身へと向けていた。

 あんなにも情け無い恥の塊の癖、最低の癖に、よりにもよって彼女に優しく点滴打ってもらって、膝枕までしてもらって、おまけに。


「………なんて、分を弁えない…… 」


 呟いた声が己の耳に届くと、途端彼は忌々しげに斜め下手を眇め睨む。声の中に明らかに混ざる嫉妬が、更に彼の眦を鋭く細めていった。

 己の助手は、優秀なのだ、と。

 未だ安らかに眠り、現へと戻らぬ彼女をそして一人、そっと想う。


 偶々公開されていた助手の卒業論文を見た時は正に鳥肌が立った。

 時折、彼女を己の論文に付き合わせる事があるのも、全ては話が膨らみ盛り上がって、大変良い、有意義な討論が出来るからこそ。仕事の覚えも早く、腕もよく、正に申し分無い。


 おまけに、優しい。


 そんな助手は、やはり学者としての道を選び、この図書館、この助手職へと就いたのだという事は、語られないまでも明らかだった。

 彼としても助手には大変に期待をしていて、有能な学者が増える事を喜ばしく思っている。出来るなら、入りたい所へのあっせんも買って出たいくらい、有体に言えば彼女という人材を彼は買っていた。

 助手止まりでは惜しすぎる、と。

 そう、確かに思っているのに。


『…ねえ…? ソフィーレンス君………君はいつまで、僕の助手でいてくれるの……?』


 異世界に行かなかった自分等情けなくて見ていられなかったが、いっそ情けなさに頭の天辺から足の爪先まで浸かっていると開き直れるのか、そんな事を平気でのたまいやがる己に、何故か酷く負けている気がしてケルッツアの心情はともかくも落ち着かずにいる。

 本来ならば砂漠を流れ、熱風と砂とにまみれている筈の己の体は、安穏とこの島に囚われている。

 頭脳と引き換えに幾重もの鎖を受け入れた自分の、その選択に、彼は本当に後悔など無かった。

 しかし幾度と、彼とすれば三回も言いかけて、余りの身勝手さに打ち消した言葉を、エゴを、あんな自分はあっさりと言い放つ。


 夢の中の男は、返答をもらったのだろうが、己は知らない。


 或いは夢の中ででも聞き取れたなら、まだ、不覚にもこんな気分にはならなかっただろう。

 ソフィレーナ・ド・ダリルという人間は、助手にしておくには勿体無さ過ぎる人材。

 けれど、その人材を、彼女を、どれだけの間有していられるのか、その事にも又知恵者は、否、ケルッツアは揺れていた。

 学者と名乗れる試験の年齢制限は二十五から三十五にかけて。

 あと四年、正確にはあと三年の、その先を聞くような、酷く野暮すぎる問いを、しかしケルッツアは今一際強く胸に抱いて彼女の目覚めを待っている。


 この思考は、誇りとは対極であろう我ままという感情だろうとは、どこかで自覚しながら。



 


<25>



 そんなケルッツアの決意など露知らず、ソフィレーナはゆったりと夢の側からうつつへと戻ってきた。窓を打つ酷い風と雨の音をどこか遠くで聞きながら、己を包み込む雲の上のような感覚に、ふと幼い頃潜り込んだ母の蒲団を思い出し、無意識頬擦りする。

 あの蒲団はいつでも柔らかく、安心する事が出来た。そんな事も同時に思い出しながら、自室にある自分のベッドと錯覚しつつ、緩んだ笑みを浮かべる。


 ……実家、帰ってきてたっけ?


 もう一度頬擦りしつつ、それにしても柔らかいのにスプリングが利いていないな、と。柔らかいような、硬いような。寝ぼけ頭でも段々とはっきりしてくる感覚に、その全く覚えのない奇妙さに首を傾げ、次いで全て思い出した。

「! …?!」

 どこが実家であるものか。

 残業、天体観測、流星群、私室に招かれて暴走して、恥話、そして。

 星光に照らし出された室内の、絨毯に淡く落ちかける光は楕円を描いて物を引っ掻き回す音を付け足してもいっそ清れんな空気だった。眠りに落ちた場所は、硬い床の上の絨毯と上のロフトから落ちてきた知恵者の使っているらしい蒲団。


 ここは、ウィークラッチ島国立図書館最上階、かは分からないが、知恵者の私室。


 思い出した途端、彼女は起き抜け一番に紅くなった。際して朝っぱらから心臓が痛み、血流が恐ろしい速さで廻って頭痛がする、と。人事を装って動揺を押し隠し、別の事に頭を割く。

 風の音が絶えず低く高く唸っている。トタン屋根に豆を盛大にぶちまけたような音は雨のそれか。

 体を投げ出した場所は晴れていてもそれ程採光の望めない所であろうに、蒲団を透かしてさんさん、とまではいかずとも穏やかな、否、どこか浮かない白さの光が彼女に落ちている。

「…………」

 一体どうなっているのか、血流に押された嫌な予感を必死で脇に押しのけて、ソフィレーナはそっと蒲団の中から顔を出し、驚いた。


 ここ……何処?


 首だけ出し、まるで亀のような格好を取りながら意味も無く、忙しなく辺りを見回す。

 己の丈の四倍はあろうかという広い空間。明るい木製のフローリングの上、蒲団がすっぽり納まるような絨毯が敷かれ、その先、小さな本棚、というより本立てで仕切られた専門書が彼女の右手にずらりと綺麗に並べられている。その上は一段机のような段差を置いた後、強大な大きさの窓となっていた。雨粒の垂れる窓枠は見上げるだにどう見繕っても円状で、昨夜眺めていたそれと酷似している所が更に彼女の予測に拍をつける。

「………」

 首を戻して、真正面にも又専門書の羅列。

 『星界の秘密』、『第八十七回天文調査録』、『星星の行方』、『植物の世界』、『野草大図鑑?~?』等等。

 特に現在国立図書館に収められている天文調査録は第八十六版まで。最新版を入れたという話も聞かず、彼女がつい先日目を通した全ての国立図書館所蔵収録リストでも見たことも無い様な題名の本がなぜ、ここにはちらりほらりと見受けられた。


「……………」


 最後に彼女は、敢えて見ないよう努めていた左手側をちらり、と見やった。

 やはり蒲団の先にはフローリングの床、その先の視界はあれ程、昨日三脚でも届かなかった高さの天井が近い。高さ五十センチ程の木製の柵の隙間、まるで王立図書館の二階から一階を眺めているような視線の高さが、予測の決定打だった。



 ロフトの上…………。



 哀しいことに動揺は、やはり押し隠しても蒲団のずれる音となって辺りに響き渡るのか。

 


「おはようソフィーレンス君。よく眠れたかね?」


 極めつけとばかりに掛かった暢気な声に、ソフィレーナは今度こそ頭を抱え込んでいる。


 来ないでくれ、等という助手の胸中など知る由も無く、知恵者の足音は正確に、彼女にとっては無情にも近寄って来た。

 立て付けの悪そうなドアの軋む音が鮮明に彼女の耳朶を掠り、階段を上ってくるような音は徐々に大きさを増して。

 反射、彼女は布団を引っ被った。

 ぼさぼさの髪と顔全体の無駄な火照りを抱えて泣いた後眠った所為だろう、視界に支障の出るほど晴れ上がった瞼を瞑り、引っ被った蒲団の奥の方で丸まってうつ伏している。

 この国では通常、成人した女性が素顔を曝け出す事は余り好ましくない事とされていた、が、研究職に就いた手前、寝不足の為大変おどろおどろしい顔を他研究員にさらしながら事を成すなど多くの女性研究員、そして勿論皇家の者たるソフィレーナとて経験している事だった。

 しかし、それを推しても今の状態は酷すぎる、と。

 彼女を取り囲む蒲団の空気、一瞬外の寒さと混じったそれが又熱をこもらせてゆく。

 ロフトの上にドアの開く音が響き渡った。


 激しい風雨の音と、奇妙な沈黙。


 まるで鳩が空気銃を喰らったような顔の知恵者に、おずおずと、小さな声がかかる。

「……私は、ソフィレーナです……。おは、ようござます……。

 ええ…大変、良く眠れたのですけど……今、とても見せられる顔ではないので、

 済みませんが、洗面所の場所教えていただけますか……?」

   蒲団の中でもぞもぞと喋る声は、くぐもっていて普段の彼女に比べると随分弱気に響く。


 沈黙。


 ドアの開かれる音がしたと思わしき足下の方へと蒲団の中で目をやりながら、呆れられているだろうとは思いつつ、彼女は別の事に頭を回していた。

 風雨の音は悲劇的なまでに煩い。星屑の流れ去る前、ふと槍は無くとも魚位は降りそうだ、等と天に思った事がいらないおまけをつけて投げ返された気がする。この降り様では季節的にララナッシュ山脈辺りでは積雪も在ったのではないか。

 それにしてもこのひとが私に気を使うだなんてやっぱり可笑しい事だったのね、等等。

 誰かの同意を得た気分の彼女はしかし、何故だろう、どこか浮かない気持で被った蒲団を更に握り締めている。

 同意を得られて喜ぶべき所で喜べない等と、まるで。


 まるで、否定して欲しかったみたい…。


 その思考は更に血流の流れを活発にし、彼女の頬も目許にも更なる色を帯びさせた。

 昨日作りに作ってしまった大小様々な切り傷の痛みは感覚の正常化に伴って鮮烈さを取り戻し、密かに彼女を苦しめる。ほぼ鉤型で固まってしまったらしき指、彼女の手は相も変わらず、頑なに古ぼけたノートを抱き締め続け。

 胸元に押し付けられ、閉じ込められているそれは体温でとうに温まり、握り締められている箇所の紙は既にふやけてしまっていた。

 暑苦しく息苦しい蒲団の中、それでも彼女はちらと、顔を覗かせる事はなく。


 しばしというには長い沈黙の後、静かな溜息が一つ。


 近くから。

「!」

 気がつけば直ぐ傍に知恵者の存在を感じる事に彼女は更に動揺し、ますます小さく縮こまった。

 脈拍がどんどんと速くなってゆく感覚がいやに鮮明。


 音などしただろうか。目算一メートルと半はあった蒲団とロフトの入り口の距離を、彼は一体いつの間に……?


 むげに押さえつけ、巻きつけた蒲団は熱を逃がす事無くこもってゆく。

 しかしどれ程息苦しかろうと彼女は意地でも今、首を出す訳には行かなかった。


 そんな助手の心境を図ってか否か。

 まるで膝を着いて覗き込んでいるかの様な、そんな距離から追い討ちのように微苦笑がかかる。

「…………。

 君は必ず一日に一度だけ、名前を訂正する…………。

 洗面所は……此処を出て右に真っ直ぐ。

 三つ目の角を右に曲がると階段。上って一つ目の角左真っ直ぐ三つ目の扉。

 廊下は暗いからね、ランプを灯そう。……下りておいで」

 ささやかれた声は風雨を割って鮮明に彼女へと届けられ、その肩を酷く竦ませた。

 顔の直ぐ傍、掛かる息が本当に近い。煩い血流から逃げるように、彼女はふと今朝方見てしまった夢の中の情け無いケルッツアの声を思い出す。

 耳朶をくすぐられるような声音。低い声は、やはりどこか似通っていた。


 今にして思えは、あれはこのひとの……。


 尖った聴覚に微か衣擦れと足音が触れ、静かに金属の触れ合う音についで、遠ざかる気配。

 高跳びのように跳ね上がった心拍を押さえ、恐る恐る蒲団からロフトの状態を覗き見たソフィレーナの目には、灰色の髪も黒く長いコートの姿も見当たらなかった。

「…………」

 何処となく罪悪感に襲われながらも、しかし彼女とてこればかりは譲れない。急いで起き上がるとポケットから鏡と櫛を取り出し、背に落ちた蒲団を退ける。

 視覚情報として今日初めて己の顔の状態を確かめ。

 彼女は鏡を投げ出したくなった。


 見せなくて良かったとばかり両手を押し付け覆い隠す、そのてのひらは熱の固まりを触っている感触が拭えない。奈落の底手前近くへこんだ気持ちをそれでも何とか切り替えて、借りていた蒲団を丁寧にたたみ何処にしまえばいいか、と声を上げれば階段の下の物置という答えはロフトの柵下から。

 その声は律儀だとなにがしか続いていたが、彼女は軽く返事を返した後、ロフトから下へと向かった。<階段での採光は背に背負ったロフトからの光のみ。足元を確かめながら一段一段下って行く彼女の顔は要でも無い事に廻りそうな気配を片っ端から無視して、ひたすら、親の敵のでも会いに行くかのような心地で事を遂行せしめている。

 ともすれば廻る起きた場所と眠った場所の不一致やそれに伴う憶測、夢で見せ付けられた願望の愚かさ、そして今さっきの遣り取り等、ちょろり、と顔を出すものを全て叩き潰し、階段の下の空間、押入れへと蒲団を押し込んで。

 押し込む時に香った苦い様な匂い、即ち菌糸、カビの発する特有の匂いに反応し、後でサンプルを、と廻った思考もついでに捨て去って深呼吸。

 煩い拍を無理矢理にでも静め、軽く整えた前髪をわざと揺らして、ソフィレーナは目許を覆い隠した。


「知らない。知らない。しらないったら知らない。……しらないったら」


 何かのまじないのように口を動かし、恐らく部屋へと続いているだろうドアノブに手を掛け、そこでもう一度深く呼吸すると、改めて後生大事にノートを持ち直す。

「お待たせしましたケルッツア・ド・ディス・ファーン。…済みません、朝っぱらから醜態を……」

 俯き加減でドアを開き、私室へと出た彼女は直ぐに斜め横手に視線を固定、項垂れたまま視界の端に見える黒く長いコートへと近寄っていった。

 彼女の視界で黒いコートは一度揺れ、さばかれて知恵者の胴は彼女へと向けられる。

 もう少し彼女が視界を許せば、日に焼けた喉元と、顎、首にかけられ頭から落ちたばかりらしきタオルの形が見て取れた。

 その、彼女よりは太い細さの喉に、夢の中の、四十六という歳の割には太くがっしりとした喉骨、その落ち込んだ影と今見えている少年の鎖骨へ続く筋の形がふと重なり、助手の鼓動は知れず高く、早く。

 そんな事など知ってか知らずか。

「否、いいよ。支障はない。

 で、あの蒲団の寝心地はどうだった?」

 恐らく笑っているだろう声。その声に押され、更に少しだけ、誘惑に勝てず広めた彼女の視界には、柔らかく持ち上がった両の口角が映りこんだ。

 夢では皺とひげの見えた口許の近く、頬に掛かる灰色の髪は今微かな湿り気を帯びている。

 島の見回りを済ませた後だと推測しながら、己の役立たず加減に罪悪感さえを抱きつつ、彼女は少々皮肉を込めてしまったかもしれない感想と、感謝を口にした。

「とっても、良かったです。……有難うございます」

 感謝の音には押し潰したような響きが濃い。それでも目の前の口許は屈託無く。

「はは、それは良かった。僕はあの手のものがどうも慣れなくて。物置にしまいっぱなしでかれこれ十年。

 ……使って貰えたんだ、あの蒲団も本望だろう。…………で。


 何故顔を隠しているの?」

 ひょい、と。

「! きゃ!」


 何の前触れも無しに覗き込む灰色の目に彼女は普段出さないような声で後ろへと大きく仰け反り、とっさ、持っていたノートで視界を隠した。


「の、覗かないで下さい!! …・・・・・・・・・・・・・今とっても酷い状態なんですから……」


 一瞬映りこんだ一対の灰色には黒に染まりかけの好奇心がわだかまっている。

 ノートの砦の中、思い出すだに熱を上昇させる厄介な映像、一瞬の視界は、実は一瞬ではなく己の反応が遅れたのだろうぶれる事無く切り取られ、一枚の写真の様に正確に残っていた。口許を笑ませ、屈んで首を傾げる様は正に、建国神プロティシアをかどわかそうとした緋色の悪魔、その聖典で描かれている無邪気さそのもの。

 緋色というよりももっと落ちついた色を連想させる知恵者はさしずめ灰色の悪魔なのだろうか。羞恥とわだかまる背筋の痺れに負けぬよう足の感覚を何とか捕らえ、いまだ静まりやらぬ高鳴りに潰されそうな彼女の声は、意識せずとも泣き言めいてその場に響いたが、そんな助手の思考と態度は全く無き物として知恵者の皮を被った、彼女に言わせれば灰色の悪魔はノートの隙から顔を窺おうと半ば躍起になっていた。


「? 目の腫れの事かね?

 気にしなくても昨日運んだ時に見」

「!?」


 思わぬ爆弾投下に彼女の、ノートを掲げる手が震える。

 運んだ、と事も無げにいうその事実は、知恵者にしてみれば当たり前に起こった事なのだろうが、助手の身からすればそうではない。

 寝た場所と起きた場所に差違があった場合、考えられる思考は二種類、曰く、誰かに運んで貰ったか、夢遊病のどちらか。

 そして彼女はこの時、自身の心からの平静の為に限りなく確率としても低い、状況証拠としても不自然な己の夢遊病をてこでも信じたかった。

 世間一般で俗に言う現実逃避の自覚があろうが関係無い。

 その密かな逃避をあっさりと塞ぐ発言に、ひょいひょいと覗き込む灰色を上手く交わして徐々に後退していた助手は、恥も外聞も忘れ、つい。


「い、いいいい意識があるとないとじゃ雲泥の差なんですッッ!!!!!!!!

 も、物凄く恥ずかしいんだからッ!!!!!

 察してくださいってばっ!!!」


 一等馬鹿でかい怒鳴り声にも、しかし助手の後退していく距離をその分きっちりと詰めていた彼は動じる事無く。


「むう、不思議な…。隈もそれも、大した違いじゃあないだろうに……」

「く、くま」


 びくり、と大げさに肩を揺らし、後退を止める助手と、もう一歩近寄る知恵者の光景は、嵐の朝、部屋の採光の中で何とも こっけいだった。

 くま。

 惑星周期観測が始まってから二時間交代で巨大望遠鏡に張りつきほぼ手動で観測を行った、彼女としてみればどとうの一週間は、その実二時間交代の口実で観測自体はほとんど彼女に任されていた。

 知恵者も同時に起きてはいたが、彼の場合は昼寝という睡眠時間を他に無理矢理にでも取る為それ程支障は無い。しかし彼女にはそんなものは無く、結果、目の下にはかなり酷い濃さのくまが浮かび上がっていたのだが、その点はファンデーションやらで巧くごまかせていた筈、と。

 これは友人複数にも確認した結果論でもあったので、彼女はそう信じていたのだが。


 わ、私だって、化粧落とすまではくまの存在考えなかったのに……?


 この知恵者は気付いていたというのか。

 観察の名手。その。


 その黒い灰色の瞳で。


 思考が廻ると同時、悔しいような恥ずかしいような憤怒の感情ともう一つ、内から湧き上がり脳天を直撃する恍惚、あるいは陶酔とが激しく入り乱れやみくもに彼女を乱していった。砦は二度の爆弾、その第二激の衝撃に物理的にも精神的にも崩れかけている。

 嵐の海に揉まれる小船は、否、その乗組員はきっとこんな気分なのだろう。

 波に揉まれ呑まれそうな船体を半ば意地で立て直す船員の様にそれでも気丈に、ソフィレーナは顔の前にノートを掲げ続けていた。もはやどうしてここまで意固地になっているのか、もう寝起きの顔が酷かろうがどうでもいいではないか。

 自身ですらそんな事を漠然と思いながらも、無駄と自覚のある矜持、絶対に負けるものか、という可笑しな理念に駆られて必死に顔を隠している。


 そんな助手の心境など構う筈も無く。

 ぼろぼろな白、今は絆創膏だらけの小さな手に支えられたノートへと徐に手をかけて、ケルッツアはトドメとばかり更に顔を寄せ。

「あっただろう? 薄っすらとだけど、目の下に、こう。髪も元気が無かったし、肌の色も悪かった。

 どこと無く怒りっぽかったしね。


 それでも、弱音一つ吐かないんだから………。本当に、君は良くやってくれているよ…」


 ノートに掛けられた焼けた肌、茶色の五指は、砦を力ずくででも退けるかと思いきや、その先、栗色の髪に伸ばされ温かな温もりとともに頭を撫でてゆく。

 それは、彼女にしてみれば、砲撃相手からの突然の和解申告であり、嵐を鎮めた神、その分厚い雲間から差す幾重もの光のカーテンだった。


 嵐に揉まれた小船の船員は、神へと祈りを捧げることだろう。

 例え、その嵐が神自身によって起こされたものだったとしても。


 ああ、このひとったら、どれだけ……私を役立たずにしたいの…………。


 昨夜よりはもっと大胆に、優しく頭を撫でられる心地よさに、心臓は早くしかし一定のリズムで血液を体内へと送り出している。

 順序良く、段取り良く事をこなそうとする思考は、この出来事に適当な整理をつけようとする端からぐちゃぐちゃに壊されて、否が応にも無視を許さない。



『…ねえ…? ソフィーレンス君………君はいつまで、僕の助手でいてくれるの……?』



 夢の中の声が不意に廻り、一瞬足場が崩れ去る残像だけが鮮明に。

 ソフィレーナは泣きたくなった。

 取り払われなかった砦、ノートの影でいつの間にか涙目の彼女は、浮き立ちわきたつ鼓動も熱も、確かに喜ぶ己にも何もかもに力なく、ただ一言、それが最後の矜持と言葉を返すに留まっている。


「…・・・・・・顔、洗ってきます……」


 砦の隙間、僅かに覗くまろい頬の輪郭は優しく、いじらしい程に熱を帯びて紅い。

 声に滲む、水の零れるような音は、奇麗な振動で彼の鼓膜を揺らしていった。


 灰色の、その実黒く染められた目に観察されている事など気付きもせずに、彼女はノートを掲げなおし、更に小さく俯いて。

 そんな彼女の顔の様子に、黒い目のまま温かな笑みを湛えながら、ケルッツアは距離を元に戻し、持っていたランプを彼女の手にそっと触れさせる。

「うん。そうしたら展望部屋においで。

 道先は洗面所を出て左、突き当たった階段を真っ直ぐだ。

 ……それで、知っている場所へ出る」

 ランプの柄はぎこちなく、絆創膏だらけの手に握られて彼の手を離れていった。

「ええ、そこから展望部屋に向かえば良いんですね? ……では、お借りしてきます」

 それでも本当に少しだけ、彼女は無駄な矜持を削げ落として素直に喜んだ。この位は大丈夫だろうと、温かな心地で頬を緩ませ、最後に知恵者の姿を捉えると、後はもう、階段を下って一目散に部屋を後にする。



「・・・・・・・・・・・…………。」

 後に残されたケルッツアは、瞬きも緩慢にそっと前髪へと手を向けて。

 少しだけ、砦から顔を覗かせた己の助手の表情は、目が赤く腫れ上がっていようと、ちょっと浮腫んでいようと、くまも結構酷かろうと、一等優しげに、紫と栗色の瞳を緩ませて微笑んでいた、夢の中で見た表情より柔らかかった、等と。

 無意識に開いた口に気付くと慌てて閉じ、手で口許を押さえていたが。


 部屋を出、右に真っ直ぐ、三つ目の角を右に曲がって少し行った所で歩を止めしゃがみ込んだ彼女が、その事を知る由は無い。


 真っ赤な顔を闇とランプの灯りから隠して、ソフィレーナは全身全霊、耐え抜いた自身をほめたたえていた。

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