その1 うつ病――逃げるは恥ではないし役に立つ

 うつ病。




 私がそう診断されたのは、今から十年以上も前のことだ。以上というくらいには記憶が曖昧になるくらい、長くこの病と付き合っている。




 うつ病とひらがなで書くのは個人的に抵抗があるが、馴染み深くするためにあえて鬱病とは書かないことにする。




 現代はストレス社会。だれしも心身に病を抱えてもおかしくない時代となっている。人の後ろ背中を指さして嗤う時代は過ぎている。気合ですべてを解決する時代は過ぎ去った時代だというのに、二十四時間働けますかという時代錯誤なCM、長時間労働で疲れた体にはエナジードリンクでもうひと頑張り的なCMが跋扈している。疲れた体には定時帰宅と風呂とご飯と7~8時間睡眠以外にまともに効くものはないというのに、一向に受け入れようとしないあたり、この世は闇に満ちている。




 そんな闇に満ちた世間で正直者ほど馬鹿を見た結果がうつ病というのは、あながち間違っていないだろう。正直者ほど、真面目な者ほどこの病は影のごとくすり寄ってき、やがては一生を添い遂げんとする嫁や婿のごとく人生に侵食してくるのだ。押し入り女房に憧れたことはあるが、相手が病となれば話は別である。心の扉を閉め、玄関に塩をまいて追い払いたいところであったが、憎いことにやつは私の心にまんまと住み着いてしまった。




 理由は現状では伏せておく。そのうち話すこともあるだろう。伏せておくというよりかは、私の中でまだ割り切りができていないから話せないといったほうが正しいのかもしれない。まあ、悪いことが起きたのだなということだけ察してくれていればそれでいい。




 人間、極限に追い詰められれば不思議と張り合いを持ってしまうものらしい。私はそうであった。元来、真面目気質で曲がったことが好きではなかったため、逆境になった時に変に気張ってしまうのだ。




 ただ、これはあまり得策ではない。すべてに逃げてしまうのはどうかと思うが、心身がどうにかなってしまう事態に遭遇した場合、対処法としてはひとつ――逃げる以外にあり得ない。




 しかし私は当時若く、また周囲のプレッシャーもあり、その手段に打って出ることができずに抵抗を試みた。――結果が現在という形だ。




 うつ病となった私は当時大学生であったため、まず休学という形になった。大学は前期後期と分かれており、一期が六か月ある。つまり一度休学するという事は六か月休みがもらえるという事だ。




 六か月休暇がもらえると聞けば、本来なら浮足立って踊り出すというものだろう。しかし、そうならないのがうつ病の恐ろしいところだ。




 なにも気力が湧かない。厳密には何かしたい気持ちはあるのだが、体と精神が切り離されたように動かない。自分の体が自分のものではないような気すらしてくる。




 あらかじめ断っておくが、あくまで私が経験している症状は私自身のものゆえに、うつ病に悩んでいる方々がみんなそうではないかというと、おそらくはそうではないだろうと思う。苦しみのベクトルが皆が皆違うのだ。故に、あくまで「この人はこういう苦しみなんだな」程度に思ってもらったほうがいい。




 話を戻そう。まるで尻子玉を抜かれたかのように何もできなくなった私がすることと言えば、寝ることだった。というか眠い。羊が一匹二匹、百匹と数えて眠れと言われたら自分は十匹くらい柵を飛び越えたところでグッナイである。それが二十四時間襲い掛かってくるものだからたまったものではない。これは今でも同じである。気を抜くと睡魔が怒涛となって襲い掛かってくる。我が睡魔を押さえる堤防は常に決壊寸前である。




 どのくらいの眠気というと、夜寝ようかというあの睡魔が起きている間常にある状態だと思ってもらって構わない。




 そんな睡魔が常に付きまとう為、なにをしても手がつかない。頭がハッキリした状態がどんな感じであったか、もはや忘れてしまった。一昨日の晩御飯を思い出せと言われても、私は昨日の晩御飯が何なのかすら怪しいレベルだ。ちなみに好きな食べ物だった時は覚えているあたり、なかなか自分の現金さが出ていると思う。とあるゲームで脳年齢を図ったときに八十歳と宣告された、見た目は若造脳みそはじじいという肩書きを持っている私はそういうやつである。取り繕うために言うが、受けた恩は忘れないというやつだ、きっと。




 そんな感じなので、とにかく当時の私はよく眠っていた。起きている時間と寝ている時間どちらが長いかと言われたら寝ている時間のほうが長かった。




 注意散漫と眠気。それで社会人になった現在も苦労している。その上、私はストレスがたまると熱が出てしまうのだから、たまったものではない。自分ではどうにかしたいと思っていても、心身が勝手になるのだからここはもう開き直るしかないのである。どうにかしろと言われてどうにかできる話なら、ここまでうつ病を中心とした精神疾患が社会問題となることもなかろう。




 精神疾患というのは患ったほうも看病するほうも厄介な病だ。なにが一番厄介かというと、目には見えない、わからないという事だ。




 あくまで私的な意見にはなるが、私がうつ病と診断された時、真っ先にしようとしたことは、なんともないようにふるまい事だった。要は、「自分は健常者です」アピールである。




 はっきり言って、これは悪手である。若かりし頃の自分の過ちと言っていい。これを見た周囲の人は、「あっ、うつ病といっても大したことないんだな」という印象を抱くことになり、短期的に見れば周りを安堵させられるが長期的に見れば自分も周りも首を絞めることになる。うつ病になった時、まず自分はするべきことはそれを受け入れることだ。受け入れた上で療養しなければ、はっきり言って何の意味もないと言える。敵を知って己を知るのは兵法の定石だ。




 次に行うのは、周りの理解を得ることだが、自分は納得させられたとしても周囲の人たちはそうはいかない。なにせ、自分の体ではないのだ。自分が納得できたようにおいそれと周囲も納得できるかと言われたら答えはNOに等しい。かくいう私の身内も、精神疾患に対しての偏見に満ち溢れており、「何かの間違いじゃ……」とか「気のせいだ」とか「うつ病だなんて就職先に言うんじゃないぞ。査定に響く」などなどのよくもまあそんな言葉が患者に向かってつらつらと並べられるものだなと第三者視点の自分が冷静に分析をしていた。




 ただ、百歩譲ってそれらが事実だとしても、患っている当事者からしてみれば遠い未来のことなど知ったことではない。近い未来が大切なのだ。飢えた人に、一週間先にステーキが食えるが今すぐだとカップラーメンが食える、どっちを選択すると訊いているようなものだ。今を突破できないと遠い未来がない。そこまでひっ迫している状況だと言うのに、なまじ目には見えない病ゆえにそれを把握できている人はそう多くない。病にかかっている当人すらわかっていないかもしれない。




 私の場合は、私の口からいくら言っても納得されなかったので、身内を無理やり引きずって私の通っている心療内科に連れて行き、医師からの説明を受けさせた。それで納得してもらえたかどうかは、正直今でも半信半疑であるが、他人の意志をこれ以上どうこうする権利は私にはないだろうから下手に追及はしていない。










 他にもいろいろと語りたいことはあるが、長々とうつ病の話をするのは一度ここまでにしよう。私自身も現在進行形でうつ病との闘病中ゆえに、休むときは休みたい。




 ただ最後に言っておくと、心身の危険が自分に及んだ時にどうするか。――それは逃げることだ。




 逃げるは恥だが役に立つという言葉が一時期流行ったが、これは間違いだ。逃げるは恥でもないし役に立つ、が正しい。




 人間、逃げることに恥なんて感じなくてもいいのだ。動物だって身の危険を感じたときに逃げるのだ。本能で生きている動物にできて、どうして知性で生きている人間にできないのか。




 逃げるべきところは逃げるべきだ。無理に立ち向かって一生ものの傷を負うことなんてない。その瞬間は後ろ指を差されるかもしれないが、長い目で見たときに無傷でいられることのほうが重要だ。この世が戦場だというのなら、最後まで立ち続けられたらそれでいいのだ。武勲や名誉などくそくらえだ。命と健康との天秤にかけたとき、勝るのは命と健康だ。




 体が資本だというのなら、命を投げ捨てるべきではない。健康を秤に乗せるべきではない。それで嗤うやつがいれば、そいつとの付き合いはどの道長くは続くことはないのだから早々に切ってしまってもいい。そのくらいの薄情さはあってもいい。




 その代わり、自分を見捨てずにいてくれる人には最大の敬意と感謝をもって接すればいい。天秤にかけるべきはそっちだ。嗤うやつと嗤わない人。天秤にかけろ、どちらかを選べと言われたら目が覚めるはずだ。

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